旅チャイナ(トップ)|チベット青蔵鉄道|チベット入域許可書|カイラス倶楽部| <江蘇省・高郵>
高郵は運河の街だ。長江沿いの街・揚州から船に乗る。船は運河をのんびりと北へ向かう。両側に広がるのは江南の田園風景。今は冬枯れの物寂しい風情だが、春になれば、両岸は、一面、菜の花の黄に埋め尽くされることだろう。 この運河こそ、隋の煬帝が巨額の金と百万の民衆を動員して開鑿させたかの「大運河」である。これにより、長安・洛陽は長江・江南と繋がった。ほどなく運河は北へ延び北京と繋がり、南へ延び杭州とも繋がった。北京の水が杭州に通じたのだ。その間、千五百キロ。奇跡的な大工事であった。唐の時代、日本からの遣唐使を長安へ運んだのもこの運河だ。阿倍仲麻呂もしかり空海もしかり。元の時代、マルコポーロを北京から揚州、杭州へ運んだのも……。 船はのんびりと運河を進む。クリークの縦横に走る田園、行き交う木船。この光景は阿倍仲麻呂が見たそれとさほど変わっていないのではないだろうか……。そんな想いに浸っているうちに左手に古びた塔が見えてきた。数えると七層。いかにも古い。てっぺんは崩れかかり、屋根には草が生えている。後で聞けば「鎮国寺の塔」。唐の時代から千年以上にわたり高郵の港を見守り続けているとのこと。 いかにも運河とともに生きてきた街だ。しっとりとしたたたずまい。江南の民家の特徴である白い壁に黒い屋根。明・清時代の街並みがそのまま残っている。その代表は南門大街。三百年の街並みのなか、通りに小さな卓袱台を持ち出して宿題をしている小学生。籐椅子に腰掛けキセルを吸う老人。葬式用の花環を売る店で店番をする老婆。どこまでが三百年前で、どこからが現実なのか。ふと、分からなくなる。何とも言えぬ懐かしさに包まれる。 (中日新聞・東京新聞の2001年1月14日日曜版に掲載)
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