<雲南省・中甸──シャングリラを名乗る町>
ジェームズ・ヒルトンというイギリス人の作家をご存じだろうか。彼の小説を探しに神田の本屋街に行ったがどうしても見つからない。1998年に新潮文庫から出ているはずなのだが……。日比谷図書館にも行った。ない。そこのコンピュータで検索をするとその題名の本は過去幾つかの出版社から出され、そのうちのひとつが有栖川の都立図書館にあることなっている。電話で尋ねると、生憎貸し出し中とのこと。休暇で一時帰国をしている間のこと。数日後には北京に戻らなければならないので諦めるしかなかった。
探していた本の名は『失われた地平線』という。
何人かの西洋人を乗せた飛行機がヒマラヤ付近で不時着する。そこで彼らは桃源郷のような平和で美しい村にたどり着く。その地を作者はシャングリラ(理想郷)と呼ぶ。そんな話なのだそうだ。
この小説が発表されて七十年余りが経つが、最近になり、雲南省迪慶チベット族自治州の中甸県が、風景などが作中の描写と似通っていることからこの物語の舞台は自分たちの土地である、と宣言をした。宣言をしたばかりか、県名を中甸から香格里拉(シャングリラ)に変えてしまった。
ちょうどその中甸に行こうとしていた。その前に、『失われた地平線』を読んでおこうとしていたのである。
理想郷とはどんなところか? 期待に胸を膨らませて旅立った。
シャングリラは三千二百メートルの高地にあった。空は抜けるように青い。その下に遠く雪の山々が連なる。気は透明で凛としている。美しい風景である。
確かに美しい。ただ、「どうだ、理想郷だろう」と言われたらどう答えるだろう。正直に言えば、「フツーに美しいところ」、といったところか。
その「フツーに美しい」風景の中で、チベット族が遊牧をしている。見ると、豚を連れている。黒い豚。ヤクとか羊なら分かるが……。「理想郷」では黒い豚を連れて遊牧をする?
この時私が感じたものをどう表現すればよいだろうか。ユーモラスな違和感、とでも言えば分かっていただけるだろうか。
家造りに精を出す一群の人々にも出会った。この辺りの農家の住居はなかなか立派である。天井も高いし敷地面積も大きい。その家を近所の人々が共同で造っている。車を降りてしばし見ていた。女たちが土を運ぶ。鍬で掘り竹の籠に担つぐ。頭に赤い布をターバンのように巻いている。男たちがその土を版築のやり方で壁として打ち固めてゆく。みんなで歌を歌いながらリズムをとり、そのリズムに乗って土を運び、土を打つ。まことに悠々としたものだ。その上に広がる空は完璧に青い。
高山反応で頭がボーとしている。ボーとしながら黒豚を放牧させるのを見ていた。ボーとしながら歌を歌い家を造っている姿を眺めていた。そして、ボーとした頭で考えた。
「これがシャングリラなのだろうか?」
いや実のところ、黒い豚の放牧も、家造も、ジーンと心に沁みた。高地に生きるチベットの民の自然に溶け込んだ生活……。
「でも、それは日常であって『シャングリラ』ではないのではないのか」
「いや、その日常こそが『シャングリラ』なんだ」
「そうその通り。完璧な風景なんてあり得ない。でも、人々の生活はどこでも完璧なのだ。しかし、だとすれば世界中が『シャングリラ』になってしまうのであり、敢えて『シャングリラ』の場所を特定する必要などないではないか」
「シャングリラ」とは何なんだ。ボーとした頭で日頃考えたこともないことを考え続けた三日間になった。
(「トコトコ」2003年1月号に掲載)