<草原にウマがいて、沙漠にラクダがいて、チベットにヤクがいること>
内蒙古の草原に行くと、そこには、モンゴル人がいて馬がいる。人間が馬に乗って羊の群れを追っている。
そんなことは、行かなくとも最初から分かっている?
その通り。馬が羊に乗って人間を追っていることはない。それでも、何年か前に草原の中のモンゴル人のパオに一週間ほど泊めてもらったことがあるのだが、そこで、最も強く印象に残ったことは、なるほど、モンゴルの草原にはモンゴル人と馬と羊がいるのだ、ということであった。
モンゴル人と蒙古馬というのは、驚くほど仲が良い。モンゴル人は歩く前から馬に乗るという。幼くしては馬の乳を飲んで育つ。長ずると馬乳酒に酔う。馬の尻尾の毛を弦とし、馬の頭をかたどった楽器、馬頭琴を弾く。そして、モンゴル人が馬に乗って草原を疾駆する姿は何とも美しい。
泊めてもらった家族は、七十頭の馬を飼っていた。馬の群れを追って草原を疾走する様子を何度も見かけたものだが、それは実に壮観で、ジンギスカンの軍隊の疾風怒濤を彷彿とさせるものであった。馬あってのモンゴル人。モンゴル人あっての馬。「ああ、草原という場で、モンゴル人と馬とは運命的な出会いをしたのだ」。そんな想いに駆られたものであった。
チベットに行く。そこには、ヤクがいる。ヤクという動物をご存じだろうか。黒くって、でかくって、モソッとしている。見るからにむさ苦しい。初めて見た時から、「ああ、これがヤクだ」と分かる。
ところが、このむさ苦しいヤクが、実にヤクに立つ。乳からチーズやバターを作る。肉を食べ、毛を使って服やテントを作る。糞は燃料にする。荷物も運ぶし人も乗せる。しかも高地に強い。高山病で苦しんでいるヤクなんてみたことがない。チベット人はヤクなしには生活が成り立たない。
同時に、ヤクにとってもチベットは別天地なのかも知れぬ。空気が薄い分、外敵もいなければ人も少ない。気温は低いが、ちゃんと厚い毛皮がついている。その厚い毛皮も、湿気が多いと脱ぎたくもなるが、乾燥しているから快適だ。
チベットのためにヤクがいるのか、ヤクのためにチベットがあるのか?
ともかくも、高度に苦しみながら何日か過ごすと、なるほど、「チベットのような桁はずれた荒野には、ヤクのようにむさ苦しい動物がよく似合う」、と合点するものである。
沙漠に行くとラクダがいる。トンゴリ砂漠にもタクラマカン砂漠にも。ただ、見ているだけでは分からない。ラクダに乗って沙漠を歩くとよく分かる。二日間でも良い、三日間でも良い。幾つも幾つも砂丘を越えてゆく。これが実によく歩く。大きな蹄で砂をしっかりと踏みしめ、砂丘を登り砂丘を下る。人の足で歩いたら大変だ。
二週間、飲まず食わずでも歩けると言う。しかも、コブが二つあって座りやすくなっている。何で、こんなウマい動物が沙漠にいてくれたのだろう?
シルクロードと言う。中国の絹がローマに伝わり、インドの仏教が中国に伝わる。「しかし」、とラクダの背に揺られながら思う、「ラクダがいなかったらシルクロードもなかったのではないだろうか」、と。
ラクダの背からみる沙漠というのが、また、格別だ。砂丘という砂丘には風紋が刻まれている。砂丘が大きな波なら風紋はその中のさざ波。そして、静かだ。何の音もない。さざ波を踏むラクダの足音がキュッキュッと鳴るだけだ。その音も、沙漠という静寂に吸い取られ消えてゆく。沙漠はラクダに揺られて行くに限る。
言いたいことは、こういうことだ。
蒙古の草原に立ってみなさい、沙漠の熱風に吹かれてみなさい、チベットの高度にボーッとしてみなさい。そこであなたが出会うウマやラクダやヤクは、テレビで知っているそれとは、絶対に違いますよ。
「テレビを捨てよ、旅に出よ」、のオススメでした。
(「トコトコ」2004年6月号に掲載)