<花の贅沢・羅平の菜の花畑>
花を見に旅に出るというのは、かなり贅沢なことである。
最近、そう思った。
花は博物館とは違う。兵馬俑坑も故宮も確かに凄い。確かに凄いが、いつでも、同じ姿でそこに在る。夏でも冬でも雨が降っても風が吹いても。それだけに、「この時、今をおいてはない」という、「贅沢さ」において花にかなわない。
芭蕉の句に、「思い立つ木曾や四月の桜狩り」、というのがある。「在所の桜はとうに散ってしまった。しかし、木曾の春は遅い。今頃が盛りか。思い切って行ってみるか」、と。
花は移ろう。その花であればこそ、出会いのときめきがあり、心の泡立ちがある。
旅に出たら花が咲いていた。もちろん、それも旅の喜びのひとつだろう。でも、そうではなく、花を見るために旅に出る。五つ星のホテルに泊まることだけが旅の贅沢なのではない。「ナマモノ」を求める。それも「贅沢」と言うものだろう。
雲南省の羅平。ご存じだろうか。菜の花畑で、最近急速に名が知れ渡ってきたところである。地平線の果てまでが菜の花畑なのだと言う。広さは、旅行案内書によれば、2,000平方キロメートルとある。2,000平方キロメートルと言ってもピンと来ない。分かりやすいようにと、東京ドームで計算をしてみる。東京ドームは13,000平方メートルだから……ウーム……154,000個分。もっと分からない。正方形にするとどうだろう。……ウーム…。一辺45キロメートル。一辺45キロの正方形の大きさの菜の花畑。なるほど広そうだ。
しかも、この辺りはカルスト地形。写真を見ると、一面の菜の花畑の向こうに桂林のような山がモコッモコッと見える。何とも魅力的である。
花の時期は、春節から二ヶ月という。
よしっ、というわけで2月の初旬、気の置けない仲間と行ってきた。
昆明から東へ230キロ。大地の色は不思議なほどの赤。ホントに赤い。麦が植えてあるところは、赤と緑の縞模様になっている。菜の花が植えてあるところは、赤と黄色の縞模様になっている。麦と菜の花が植えてあるところは、赤と緑と黄色の縞模様になっている。私たちの知らない大地が描く絵模様。長い道程だが飽きることはない。
羅平に着いたのは夜。バスを降りるとほのかな花の香りに包まれた。夜目には判然とはしないが、風に一面の菜の花が揺れている気配を肌が感じる。ああ、明日が待ち遠しい。
翌日起きると、何と、霞がかかっている。「地平線の果てまでが菜の花畑」と言っても、地平線が見えない。近くを見ると、何と、まだ早すぎる。写真で見るような真っ黄色ではない。緑が混ざっている。六分咲き、と言ったところか。
小高い丘に案内された。「パンフレットに使われる写真は、大抵、ここから撮ります」。足場の悪い坂に苦しみながら、息を切らして登る。登っても、霞がかかっていることと六分咲きであることに変わりはない。綺麗な写真は絶対に撮れない。残念無念。
で、私たちは不満だったか?
そんなことはない。綺麗な写真が撮れないだけのことだ。
花の匂いに包まれていた。地平線は見えなくとも、見渡す限りは菜の花であった。風が吹くと見渡す限りの菜の花が揺れた。農民を乗せた牛車が、黄色の波に見え隠れしながらのんびりと進む。菜の花畑の中、養蜂の人たちのテントがポツンポツンと見える。一家で花を追って旅をしているのだろう。母親がテントの近くに腰掛け、赤ちゃんにお乳を与えている。
みんなで黙ってそんな風景を見ていた。
「行く春を近江の人と惜しみける」。こんな句を思い出していた。これも芭蕉の句である。そう。惜しむのだ。行く春を、人生を、過ぎて行く時を。この友人たちと共有した時を。一度過ぎ去ったら最後、二度と戻ることはない。そんな時を。
もちろん、どんな「時」でも二度と戻ることはない。それでも、「花」は特別だ。「花」も移ろうものだから。花は年に一度しか咲かない。人生六十年なら、六十回しか花見はできない。そのうちの一回がこの一回なのだ。
花を見る「贅沢」。霞がかかることもある。早すぎることもある。遅すぎることもある。それが、「贅沢」。だから、霞に六分咲きでよかったのだ。「ナマモノ」の証。負け惜しみではなく、そう思った。
(「トコトコ」2004年4月号に掲載)