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===雲南省===
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《昆明》(こんめい)
雲南省の省都。雲貴高原のほぼ中央に位置する。標高は1900メートル。三方を山に囲まれ、南だけが昆明湖に開けている。
四季を通じて温暖な気候で、年中花と緑が絶えることはない。別名「春城」という。
雲南省全体で25の少数民族が暮らしているが、昆明市にもそのうちの12の民族が住んでいる。イ族、ペー族、ナシ族など。
<雲南省博物館>(うんなんしょうはくぶつかん)
昆明市東風西路にある。1958年の開設。収蔵品は雲南省全域から集められており、考古学、民族学、民俗学などさまざまなテーマから雲南省を見渡すことが出来る。収蔵品の数は五万点。
考古学的には、「元謀原人」の歯の化石が注目される。170万年前の原人と言われ、北京原人や藍田原人よりも更に100万年ほど遡る。 歴史学的、民族学には、青銅器に見るべきものが多い。銅鼓と呼ばれるもの。あるいは、貯貝器と呼ばれるもの。紀元前5世紀ぐらいからのものが残るが、祭祀の時に使われたのであるが、独特の意匠と雰囲気を持っていて、古代の南方的なエネルギーに溢れている。
民俗的には、雲南省各地に居住する少数民族の衣装や装飾品が鮮やかな色彩を放ちながら展示されている。
<大理国経幢>(だいりこくきょうどう)
経幢とは、六角または八角の石柱や金属柱の各面に陀羅尼(ダラニ)を刻んだものである。陀羅尼(ダラニ)とは、教えの精髄を凝縮させた言葉である。
大理国経幢は、大理国(中国では宋の時代)の高官が昆明の貴族の功徳と讃えるために建立したと言われるが、八角七層、高さ8.30メートルの石幢である。各層に仏像やサンスクリット語の経文が彫られており、その彫りの精緻さにおいて出色の出来映えの石幢である。
<円通寺>(えんつうじ)
昆明市の市街の東北の端、円通山にある。円通山は四季を通じ濃い緑に覆われ、岩が折り重なって渦巻形をしていることから螺峰山と呼ばれていた。「螺峰畳翠」は昆明八景のひとつである。元代は城外に位置していたが、明代初期に昆明城を改造したさいに城内に組み入れられた。
円通山と呼ばれるようになったのは、円通寺が円通寺と改名してからである。
円通寺は円通山の麓にある。唐代、南詔国の時代の創建。当初、補陀羅寺といったが、元の大徳5年(1301)から延祐7年(1320)にかけて再建し、現在名に改称した。
建物は南北の一直線上に並んでいる。特に美しいのは八角亭。池の中に八角二層の優美な姿で建つ。その八角亭の北にあるのが、本殿の円通宝殿。明、清と改修を重ねたが、いぜん元代の様式を留め、中央に如来仏、左右に阿弥陀仏と薬師仏を配し、四方の壁ぎわに五百羅漢の塑像が居並ぶ。
また、隣接の昆明動物園は円通山全体を動物公園にしたもので、パンダや白いベンガル虎などが人気を集めている。
<キョウ竹寺>(きょうちくじ)
昆明市の西北10キロ余りの玉案山の山腹にある。極彩色の五百羅漢で名高い。
山門を潜ると、天王殿、大雄宝殿と続くが、天王殿の左右の天台来閣、梵音閣と大雄宝殿の両側の壁に所狭しと五百羅漢の泥塑像が並べられている。
清の光緒年間に四川省の民間彫塑家の黎広修が5人の弟子と七年の歳月を費やして製作したもので、像の高さは1メートルから1.4メートル、鮮やかな彩色が施されている。老人もいれば若者もいる、文人もいれぱ武
人もいる、金剛、菩薩、阿弥陀、ひとつひとつがそれぞれの姿と喜怒哀楽の情にあふれた表情を持っており、民間の彫塑の傑作といえる。
五百羅漢と並ぶもうひとつのみどころは、聖旨碑。元の仁宗から賜った聖旨をモンゴル語と漢字で刻んだもの。
また、この寺は、雲南地方で最初に建立された禅宗寺院としても知られる。
<金殿>(きんでん)
銅瓦寺ともいい昆明市の東北7キロの鳴鳳山にある道教寺院。青銅鋳の主殿が目を奪わんぱかにり金色に輝いているので金殿という。高さ6.7メートル、幅奥行きともに一辺が6.2メートルの方形で、建物、調度類はすべて銅製で総重量は250トン。
創建は明の万暦30年(1602)、湖北省・武当山の金殿の様式にならい、雲南産の銅を鋳造して建立した。しかし、この建物は、同じく明の崇禎10年(1637)に鶏足山(賓川県)に移され、文化大革命の時期に破壊されてしまった。
今、この地に現存するのは清の康煕10年(1671)の建立、殿内の梁に「康煕十年平西親王呉三桂室人王氏敬造」と鋳込む。
呉三桂(1612- 1678)は明末・清初の武将。明の将軍として満州族の侵攻の防御をしていたが、李自成の農民軍が北京に入城するや、一転満州族と手を結び、山海関を開け、満州軍を北京に導く。
清の中国統一に功をたて清王朝成立後平西王に封ぜら雲南に駐するが、やがて三藩の乱を起こし清に反逆するが失敗。蘇州の芸妓・陳円円とのロマンス、明への裏切り、清への反逆と時代を揺り動かしながら波乱の人生を送った将軍である。
<翠湖公園>(すいここうえん)
昆明市の市街の西北隅にある。翠湖と呼ばれる池を中心に造られた公園。翠湖は泉水が九つ湧いていたことより古くは九竜池といった。清代初期に呉三桂(1612〜78)が平西王に封ぜられて雲南に駐屯したときに湖の西半部を埋め立てて王府を造営したことがある。
池の周りの柳、蓮の花など一年を通じて風景を楽しむことが出来る。また、冬になると、数万羽のユリカモメがシベリアから越冬のために飛来する。
<西山>(せいざん)
昆明市の西南15キロ。テン池の西にそびえる。碧鶏山、華亭山、太華
山、太平山、羅漢山などの群峰からなり最高峰は太華山。
西山から眺めるテン池は雄大、絶景の一言に尽きる。
昆明市内から遠望すると、仏が臥す姿に見えることから臥仏山ともいい、また、美女が湖畔に横たわるようにもみえるので睡美人ともいう。
山裾から竜門までの七キロの山道沿いに、華亭寺、太華寺、三清閣などの名所が並ぶ。
──華亭寺(かていじ)
西山の中腹にある昆明最大の仏教寺院。もとは、宋代の大理国の貴族の別荘であったが、元の延祐7年(1320)に名僧の玄峰が寺を建てたのが仏教寺院としての始まりであった。
華亭寺と改名したのは梁代、鶴の群れが飛来したことによる。鶴から「華亭」と命名されるのは「華亭鶴唳」という故事による。華亭は地名、今の上海の松江であるが、西晋時代の文人・陸機の住居があった。彼は、八王の乱に巻き込まれて殺されるが、その時、華亭の家で鶴の鳴き声を楽しんだことを思い出していた、という故事である。
焼失と再建を繰り返し、現存するものは、1923年虚雲大和尚が再建したもの。 天王殿・大雄宝殿・鐘楼などが堂々とした姿で整然とそびえ、荘厳である。大雄宝殿に三世仏の金身塑像、その両側に五百羅漢の塑像を安置する。天王殿は中央に弥勒仏、その両側に四天王を安置。ともに、十分に一見の価値がある。院内は松柏の老木に囲まれ、荘厳な仏殿群と美しく調和をしている。
──三清閣(さんせいかく)
西山の羅漢山の絶壁に造られた道教寺院。道教では、仙人がすむ場所として、玉清、上清、天清が最高の仙境とするが、これを三清と呼ぶ。 十二の殿閣とひとつの石坊からなる建築群で、現存のものは元、明、清の三つの王朝にまたがり築かれてきたもの。
離れてみると、岩壁に張り付いたように造られている。
──龍門(りゅうもん)
西山の羅漢山の岩壁にある。三清閣から「別有洞天」の四文字を彫った細く狭い道を通り抜け、石段を登っていくと慈雲洞にいたる。洞内に観音坐像を彫られている。観音像の傍らに清・道光年間(1821〜50)の「重修慈雲洞呉道士功行碑記」があり、道士の呉来清が石室を開削した経緯が記されている。
その更に上ったところが龍門。湖面から千メートル。絶壁から足下に見るテン池は素晴らしい。
呉来清は鑿ひとつで岩を穿ち三清閣から慈雲洞にいたる道で造った。十四年の歳月を費やしている。慈雲洞から龍門への道を穿ったのは、呉来清の没後に事業を引き継いだ楊如蘭、楊際泰の親子である。
呉来清らの執念、開削された美しい道と彫刻、眼下に広がるテン池。それらが渾然となってしばし下界を忘れさせてくれる。
──太華寺(たいけじ)
旧称仏厳寺。西山の最高峰である太華山の中腹にある。元代に雲南の名僧玄鑑和尚が創建し、明代、清代に改修拡張されてきた。
広大な境内に山門、・大雄宝殿、縹渺楼、海月堂などが山の斜面に沿って建ち並んでいる。それぞれの伽藍は回廊で結ばれている。
──聶耳墓(ニエアルぽ)
西山の太華寺と三世閣の間の斜面にある。聶耳は中国の国歌「義勇軍行進曲」の作曲者である。
昆明に生まれ。1930年に上海に出て明月歌舞団に入団し、1933年に中国共産党に入党し。「義勇軍行進曲」「前進歌」「畢業歌」「大路歌」な
どを作曲。1935年7月17日に日本の神奈川県藤沢市の鵠沼海岸で水泳中に
溺死した。
そういう縁から昆明は藤沢市と姉妹都市の縁組みをしている。
<大観楼>(たいかんろう)
昆明市の南西部。テン池に臨み、湖水を隔てて太華山と相向かい合う。 清の康煕35年に巡撫の王継文が湧月亭、澄碧堂、華巌閣、催耕館などを設けるとともに、テン池の湖畔に湖と川に臨んで二階建ての楼を建て、大観楼と名づけた。道光8年(1828)に三階建てに増築し、それ以来、文人墨客が集まって詩文を作るようになった。
<石林>(せきりん)
昆明から南東へ百キロ。高さ20メートルから30メートルの石柱が林立する奇観を呈している。
もともと海の底であった。海底の石灰岩層が海水などで浸食され石柱状をなし、更に、二億八千年前の地殻変動で地上に隆起し、風化を受けて現在のような姿になったという。
総面積は400万平方キロメートル。李子セイ石林、乃古石林、大畳水、長湖、月湖、芝雲洞、奇風洞の七つのエリアに分けれている。通常、石林といえば、李子セイ石林を指す。
──李子セイ石林
石林観光の中心。広さは、12平方キロメートル。奇岩怪石の間を縫って全長7キロの遊歩道が造られている。大石林、小石林、石林湖、李子園などの観光のポイントがあるが、遊歩道を辿れば自然にそれらを巡ることになる。
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《曲靖・陸良》(きょくせい・りくりょう)
昆明の東150キロ。雲貴高原の中部に位置する。古来、「雲南の喉元」などと言われるのは、中国内地から雲南に入るには、四川・成都などから南に下り、先ず、この地に至り、ここから西に昆明、大理、麗江へ。南に文山、紅河へと入ってゆく入り口であったからである。それだけに兵家必争の地でもあった。
三国志演義に、「諸葛孔明、孟獲を七たびとりこに、七たび許す」という段があるが、その舞台がこの辺りだと言われる。
また、曲靖は珠江の源でもある。珠江は中国第四の河、雲南、貴州、広西、広東の広大な田園を潤し、さらには珠江デルタを造り、南中国海に注ぐ。
<沙林>(さりん)
陸良にある。昆明の東130キロ。石林からは40キロ。
砂の大地。地形は長い
土に含まれた化学物質が土をいろいろな色に見せている。紅、黄、白、青、藍、黒、灰色などである。それらが、更に、太陽光線の当たり方により様々に変化をし、幻想的な風景を造り出している。
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《羅平》(らへい)
雲南省北東部にある。雲南省、貴州省、広西壮族自治区・桂林地区の交わるところ、「鶏鳴三省に聞こゆ」と言われる。
昆明から東へ240キロ。国道324号線と南昆鉄道が通る。
羅平の菜の花畑は、三百平方キロメートル。春には、見渡す限り一面の菜の花畑になる。菜の花の時期は、毎年一月の中旬から三月の中旬までおよそ二ヶ月。この時期、人々は菜の花の黄に染まるようにして生活をする。住民ばかりではない、旅行で訪れる人々も黄に酔うように一面の菜の花の光景を楽しむ。
古くから羅平は菜種油の産地として名高いが、最近では、この菜の花畑を利用しての観光業にも力を入れている。
菜の花の収穫が終わると、4月からはタバコを植える。その収穫が9月。そして菜の花……。その繰り返しになる。
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《安寧》(あんねい)
昆明の西南37キロ。蟷螂川の流域にあたる。唐の時代に一時南詔の地となった。今は昆明市の市地区に区画されている。
<曹渓寺>(そうげいじ)
安寧県の県城5キロの蟷螂川の西岸にある。安寧温泉からは1キロ。
禅宗第六祖の慧能法師(638-713)の弟子が広東の詔州(現、詔関市)の曹渓の宝林寺からやって来て建て、師に由来する曹渓寺と言う名を付けたと伝えるが定かではない。
山門、鐘楼、鼓楼、大雄宝殿、後殿と並ぶ。
大雄宝殿は東向きで、宋〜元代の寺院の建築の様式を留める。なかに宋代の華厳三聖の木像を安置する。前面の軒下に直径30センチの円窓があり、干支の組み合わせで60年に一度巡ってくる甲子の年の中秋の夜になるとその円窓を通して月光が仏像の額を照らし、月が上がるとともに明かりの輪が鼻梁から臍まで下りてゆく、と伝える。これを、「曹渓の奇景」と言うが、その窓は今は塞がれてしまっている。
<碧玉泉>(へきぎょくせん)
俗に安寧温泉という。安寧県の県城の西北、蟷螂川の東岸にある。川を隔てて曹渓寺を望む。湧出量が豊富で泉温は42-45℃、皮膚病とリウマチ性関節炎に効く。
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《大理》(だいり)
大理石の産地。雲南省の西部に位置し、大理ペー族自治州の州都。昆明からは490キロ。海抜2000メートルの高地にあり、一年を通じつきの平均気温が8度から20度と穏やかである。
人口は42万、その三分の二がペー族である。
中原との交流が本格化したのは前漢の武帝がこの地に葉楡県を設置してからである。七世紀には六つの部族が勢力を強め六詔(詔は王の意)と呼ばれた。そのなかで、最も強かったのが南詔である。唐王朝は、雲南地方を支配するために、南詔と結び、他の五詔を併合させて行く。
こうして南詔国が成立するのが738年、大理を本拠地とした。
その後、南詔国は唐と仲違いをし、長年の戦争状態に入る。滅亡は、902年。その後この地を支配するのはペー族が建てた大理国である。大理国は長く栄えるが、1253年フビライの率いるモンゴル軍によって滅ぼされる。23代318年の栄華であった。
元王朝は、雲南支配のための雲南中書省を昆明に設けた。これによって、雲南地方の中心が大理から昆明に移って行くことになる。
大理市は、大きく大理古城と下関に分けられる。昔の県城があったのが大理古城、新しい都市機能の中心が下関。観光は、大理古城が主になる。
<崇聖寺三塔>(すうしょうじさんとう)
大理古城の西北の郊外1キロ、蒼山の麓に位置する。大理のシンボル的存在である。もともと崇聖寺の一部であったが、崇聖寺は早くに廃滅し、残るのは三塔のみ。
大塔は千尋塔といい、方形13層、高さ69.13メートル。塔内は中空の密檐式(楼閣式ではなくひさしがない様式)の磚塔。西安の小雁塔と似ており、唐の文化の影響が想像できる。各層の正面の中央にアーチ形の仏龕を設げ、白い犬理石の仏像を一体ずつ安置している。建立年代については定説がないが、南詔の代十代の王の時代(824〜839)とみられる。
南と北のふたつの小塔は八角10層、高さ42.19メートル。ともに大塔から70メートルを隔てて建てられている。塔身は心が詰まっており、白色の漆喰がを塗られ、各層にそれぞれアーチ形の仏龕や仏像、蓮花などが浮き彫りされている。大塔よりは遅く、五代(907〜960)の建立。
1978-80に大規模な修理を行った際に、大塔の基壇と塔頂から南詔、大理から宋の時代にいたる仏像、写経、宝石類、薬草類などが発見された。
<大理ペー族自治州博物館>(だいりぺーぞくじちしゅうはくぶつかん)
市内の下関にある。ペー族の民家をイメージした白の漆喰を基調にした建築。南詔国、大理国の時代の文物が多く展示されている。この地方の民俗、歴史の理解には大いに役立つ。
崇聖寺三塔修復の際に発見された仏像、写経、宝石類、薬草類などもこの博物館で展示されている。
<太和城遺址>(たいわじょういし)
下関の北方8キロ。太和村の西の斜面に残る南詔朝(748-937年)
の都城跡。南北両面に土をつき固めた城壁が現存している。
南詔が他の五詔を併合して雲南を統一し、都を大理に移したときの都城である。
──南詔徳化碑(なんしょうとくかひ)
太和城遺址の真ん中に建つ碑。高さ3.2メートル、幅2.27メートル、厚さO.58メートル。正面の碑文は3800字余りであるが文字の剥落がすすみ五分の一ほどしか判読出来なくなっている。それでも、南詔朝の初期の歴史や唐朝との関係が記された貴重な資料である。
<蒼山>(そうざん)
ジ海にそって南北に聳える。全長42キロの山脈。その南の部分が大理市と接する。海抜3000メートル以上の19の峰が連なり、主峰の馬竜峰は海抜4122メートル、万年雪に覆われている。
大理の人々は常にこの山を仰ぎ見ながら暮らしている。大理石の産地でもある。
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《剣川県》(けんせんけん)
<石鐘山石窟>(せきしょうざんせっくつ)
剣川県は大理の北180キロ。その西南30キロにあるのが石鐘山石窟。石鐘山は石宝山の支峰で、山上に鐘の形をした石があるので、石鐘山という。
石窟は石鐘寺区・獅子関区・沙登村区に分かれており、その数あわせて17窟、造像139体である。主要なものの多くはは石鐘寺区に集中をしている。
石鐘寺区は8窟からなり、第一窟と第二窟は南詔朝(748-937年)の王の像が彫られている。ただ、この石窟の中心をなしているのは仏教信仰に基づく造像であり、それは、第3〜7窟でいかんなく発揮されている。
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《麗江》(れいこう)
雲南省の西北部。正式には麗江ナシ族自治県という。標高5596メートルの玉龍雪山の麓に開けた街である。青海省に源を発した長江は地勢に従い北から南へ流れてくる。それが、石鼓で一転北へ向きを変え、玉龍雪山を過ぎると、玉龍雪山を包み込むように、再び南流をする。(長江はここではまだ長江とは呼ばれず、金沙江と呼ばれますが)
街が形成されたのは宋の時代。茶馬の道として栄えてきた。茶馬とは、茶と馬。中国の茶をチベットへ運び、チベットの馬を中国へ運ぶ、その中継地として発展をしてきた。
この町を造ってきたのはナシ族。象形文字のトンパ文字を持つ民族で独特の文化、衣装、風俗を今に伝えている。トンパは巫師の意で、占いのために考え出されたのがトンパ文字の起源であるという説もある。
今でも人口33万のうちナシ族は18万。
水路が網の目のように街中を巡り、水路に沿って石畳の道が続き、石畳の道に沿って木造の古い民家が軒を連ねる。心にしみる美しい街である。
<玉龍雪山>(ぎょくりゅうせつざん)
麗江の西北約10キロにある。「横断山脈」に属する。金沙江の東岸に十三の峰が屏風のように連なり聳える。一年を通し、山頂付近の雪が消えることはなく、まっ白い龍が尾根に横たわっているようにみえることから、玉龍雪山という名が付いた。高度と気候に応じてさまざまな植物が生い茂る植物の宝庫である。
麓からロープウェイができており、主峰の真下にある駅・甘海子まで垂直標高差1150メートルを一気に登る。また、甘海子からバスで15分ほどの雲杉坪からはリフトが架かり、標高3240メートルの地点まで行ける。ここからは雪の主峰が手に届くほど近く迫っている。
<白沙>(はくさ)
麗江壁画で知られる。明代初期から清代初期にかけての350年間にわたって、当地を支配していた木氏が描かせた。仏教や道教から題材を採ったものが多い。漢族、チベット族、ナシ族、ペー族などの画工に描かせたもので、それぞれに豊かな民族色に富む。
白沙の他、竜泉、雪松、芝山、崖脚などの村に残るが、最も保存状態がよいのが白沙である。
<黒竜潭>(こくりゅうたん)
象山の麓にある湖。清冽な湖水に玉龍雪山の倒影をが映す。絶好の撮影ポイントになっている。
清の乾隆2年(1737)にナシ族が玉泉竜王廟を創建し、乾隆帝が「玉泉竜神」と封号を揮毫したので玉泉ともいう。
<石鼓>(せきこ)
麗江の西74キロ。長江上流の金沙江が大きく湾曲する。南へ流れていた河が、逆に北流する。長江の最初の湾曲と言うことで、長江第一湾という。長江の南流を阻む山は海羅山。
一帯、山岳地帯ゆえに金沙江の流れは速いがここだけは河幅が広く緩やかな流れになる。そのため、多くの戦いにおいて石鼓が渡河の場所に選ばれている。諸葛孔明の「五月渡瀘」、元の世祖フビライの「革嚢渡江」、近くは長征時における賀竜に率いられた紅二方面軍の渡河。
ほとりには、石鼓という美しい村がある。村の高見からは、民家の黒い瓦屋根、その先の金沙江が見渡せる。
<虎跳峡>(こちょうきょう)
石鼓鎮の東北約50キロにある。石鼓で流れを北に転じた金沙江は小中甸河を併せ呑み、玉龍雪山と哈巴雪山の間を激流となって流れ下る。この峡谷を虎跳峡という。
長さ15キロ、両岸に絶壁が迫り、水面から尾根まで3000メートルという世界でも屈指の深い峡谷である。河幅は狭いところで30メートル。 豊かな水量、絶壁、ほとばしる激流。長江上流の見所のひとつである。
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《中甸》(ちゅうでん)
迪慶チベット族自治州の州都。麗江からは西北へ200キロ。迪慶チベット族自治州は、雲南省が四川省、チベット自治区と接するところ、チベット族の他、リス族、ナシ族、イ族などの民族が住む。標高6740メートルの梅里雪山をはじめ5000メートルを超える嶺嶺に囲まれている。
中甸の標高は3300メートル。普通の日本人は高山反応があるだろう。
なお、数年前に、中甸は、ジェームズ・ヒルトンの小説「失われた地平線」にちなみ、県名を香格里拉に変更している。
<松賛林寺>(ソンツェンリン・しょうさんりんじ)
チベット仏教ゲルク派の寺院。町の中心からは北へ5キロ。色彩のない荒れ山に、突然、白と臙脂の壁、銅瓦の屋根の建築群が姿を現す。周りには五色のタルチョがはためき、別世界へ来たような気になるものだ。 1681年、ダライラマ5世によって建立された由緒ある寺。
伽藍は立派で、大殿では一度に1600名の読経の僧を収容できる。五世、七世ダライラマの銅像、八体の金箔をかぶせた釈迦仏像及び貝葉経などは一見の価値がある。
文化大革命の時期に大きな破壊を受けたが再建が進んでいる。多いときには7000名の僧侶がいたが、現在、寺内で修行をする僧は700人。
<碧塔海>(へきとうかい)
碧塔海はチベット語の音訳で、意味は「牛の毛のじゅうたんのような海」。中甸から東へ25キロ。バスを降りたところから徒歩で二キロ、原始林が広がり、原始林を抜けると湿地帯、湿地帯を抜けると美しい湖が見えてくる。海抜は3500メートル。
<納ハ海>(なはかい)
中甸から西北へ8キロの季節湖。チベット語では「湖のある草原」の意。冬から春にかけての雨季は十数本の河から水が流れ込み湖となる。雨季を過ぎると、湖から湿地帯、湿地帯から草原への変貌を遂げていく。草原としては、中甸で最大。
五月を過ぎると草原にはさまざまな色の高原の花が一斉に開花し、色彩豊かな絨毯のようになる。また、毎年秋には、たくさんの渡り鳥が飛来する。黒首鶴、黄鴨、斑頭雁など。
<白水台>(はくすいだい)
中甸の東南103キロ。炭酸カルシウムの白い堆積物が棚田状をなす奇観を呈している。白い段々畑に、淡い青色の水が溜まっている。そんな光景である。
また、白水台はナシ族・トンパ文化の発祥の地と言われ、毎年旧暦2月8日には周りのナシ族が集まりトンパ祭りが開催される。
伝説では、ナシ族トンパ教の第一世祖のヂンバシロがチベットでお経を学び戻る途中で白水台を通りかかり、あまりの美しい風景に吸い寄せられ、ここに残留して仏壇を設けて布教を始めた、という。
中甸から白水台への道は、幾つもの山を越えるが、途中多くの少数民族に出会う。チベット族、イ族、リス族、ナシ族。高度によって住む民族が違う。それは、かつての勢力の強弱による分布でもあろう。
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《徳欽》(とくきん)
中甸から西北に183キロ。チベット自治区までの距離があと100キロ、という雲南とチベットを結ぶ町。白茫雪山の中腹、標高3400メートルのところにある。人口4500人。周りの農村を含む徳欽県でも人口は5万6千。その内の八割がチベット族である。
<飛来寺>(ひらいじ)
徳欽の東南10キロ。近くを瀾滄江(メコンの上流)が流れ、その
瀾滄江をはさんで雲南一の高さを誇る梅里雪山が聳える。梅里雪山の高さは6740メートル。
また、梅里雪山を取り囲むように、6000メートルを超える峰峰が十三峰あることから、「太子十三峰」と呼ばれている。
<奔子欄>(そうしらん)
チベット語で、「美しい砂 の堤"の意。金沙江はここで大きく湾曲し、多量の砂を河岸に残す。その河岸には柳やユウカリの樹が生えている。標高は低く、1870メートル。
ここから西北へ進むとチベット、金沙江を越えて北上すると四川省の徳栄、巴塘。金沙江を下ると維西、大理。東南へ向かうと中甸、麗江。このように雲南、四川、チベットを結ぶ交通の要衝であった。
民族的にも、チベット族、漢族、納 西族、イ族などの集落が混在している。
<東竹林寺>
奔子欄から23キロ。1667年の創建。中甸の松賛林寺と同じ時期に造られた。清の時代には、皇帝のために法会を行う官寺として栄えた。
年に一度執り行われる法舞は有名である。
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《建水》(けんすい)
昆明から南へ220キロ。雲南省、すなわち中国の最南端。漢の時代からベトナム(安南)への交通の要衝の地として栄えた。特に清代は、近くの個旧での錫の掘り出しが盛んになると、その東南アジアへの輸出の窓口として栄えた。
<朝陽楼>(ちょうようろう)
建水城の正門。北京の天安門と似ており、「もう一つの天安門」などと呼ばれる。創建は明代、1389年。北京の天安門よりも28年早い。扁額には「南東鎮雄」の文字が掛かる。安南(ベトナム)鎮静の願いが込められている。
<文廟>(ぶんびょう)
孔子廟のこと。規模において曲阜の孔子廟に次ぐ中国第二の大きさである。創建は元の時代、1325年。明・清両代に曲阜の孔廟の配置を模して拡張し、現在の規模になった。面積は7.6ヘクタール。
廟の正殿は明の弘治年間(1488-1505)の再建。
<朱家花園>(しゅかかえん)
清朝末期の豪商の邸宅。建水には古い建物が多く残るが、朱家花園はその代表的なもの。1905年前後より、朱廣福、朱成章の父子が六年を要して建てた。敷地面積は二万平方メートル、建築面積は五千平方メートル。園林と住宅を巧みに組み合わせ「花園」の呼び名にふさわしい住宅にしている。
この邸宅の豪華さからも、清朝当時のベトナムとの交易の盛んな様をかいま見ることが出来る。
<双龍橋>(そうりゅうきょう)
建水の西5キロ。瀘江河とトウ衝河の交わるところ、中国のアーチ式石橋の傑作といわれる双龍橋が架かる。石造りで全長148メートル。清の時代のものである。橋の下の孔の数は十七。俗に十七孔橋という。
橋の中央に方形三層の楼閣がある。高さは20メートル。
橋のアーチ型の曲線と楼閣の直線の対比が美しい。
<建水古井>(けんすいこせい)
建水は水の良さでも知られる。元の時代に掘られた井戸が今でも枯れることなく使われている。なかでも有名なのは西門大板井。朝になると、大勢の人が、夜のうちに貯まった水を先を争って汲んでゆく。なかには、水を売ることを生業とする者も多い。そのままでも売れるし、お茶を沸かしても売れるという。
その良質の水を使った豆腐作りも盛んである。
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《元陽》(げんよう)
建水から南へ100キロ。美しい棚田で知られる。
元陽県は総面積は150平方キロメートル。人口35万。ハニ族、イ族、ミャオ族、タイ族などの少数民族が住む。最も多いのはハニ族で80%を占める。
棚田の総面積は22万ヘクタールで、主には米が作られている。作っているのはハニ族で、棚田は「ハニ族の雲の梯子」などと呼ばれる。勾配が急な斜面に大小様々の大きさ形の棚田が、谷の底から海抜2000メートルの山の上まで、美しい段々を描きながら繋がっている。なかには、段数が5000段にも達するものもある。
他の地域と同様、少数民族は標高によって棲み分けがなされている。海抜100メートルから2000メートルの間に、低い順にタイ族、チワン族、イ族、ハニ族、ミャオ族、ヤオ族と住んでいる。
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《シーサンパンナ》(西双版納)
ミャンマー、ラオスと国境を接する。正式にはシーサンパンナタイ族自治州。亜熱帯に属し、雨期(6〜10月)と乾期に分かれ、熱帯植物、野生動物の宝庫である。
州には、景洪、モンハイ、モンラーの三つの県があり、人口は60万。州都は景洪。
<橄欄パ(土偏に覇>(かんらんぱ)
景洪県から東南へ40キロ。タイ族的な風景が広がる。瀾滄江(メコソ川の上流)沿いにある。地形が楕円形をなし、オリーブに似ていることから地名がついた。
河に覆い被さるように熱帯の樹木が生い茂り、その間に俸族の古い寺院や竹造りの家が見え隠れする。そこに、色鮮やかな鳥が飛び交い、熱帯特有の景観をなしている。
タイ族の正月の行事として毎年4月13日から15日に水かけ祭りが行われ、人々は互いに水をかけあい、新年を祝い、幸福と長寿を祈る。
<曼飛竜塔>(まんひりゅうとう)
景洪の南70キロ。曼飛竜村の背後の山にある塔。大小九つの塔からなり、塔身は純白で、尖塔が金色に輝き、地上に頭を出した筍のようにみえるので、筍塔とも呼ばれる。泰暦の565年(1203)の創建。典型的な小乗仏教の建造物。
高さ3.9メートルの円形の基壇の上に建ち、中央に高さ16,29メートルの主塔がそびえ、それを梅の花弁状に取り囲むように高さ8.3メートルの小塔が並ぶ。
南面の仏龕の下の岩にある足の跡は釈迦牟尼のものと伝え、そのためにこの塔が建立されたとされる。
<景真八角亭>(けいしんはっかくてい)
景洪から西へ75キロにある仏教寺院。泰暦の1063年(1701)の建立で、1978年に改修。高さは12.42メートル、幅8.6メートル。基壇と亭身と頂部からなる。基壇は煉瓦を積み上げ、亭身は煉瓦で壁を築き壁の内外に薄赤色の漆喰を塗り、その上からさまざまな色のガラスが嵌め込まれ、金粉と銀粉でさまざまな花、動物、人物が描かれている。目を奪わんぱかりに華麗である。
頂部は木造りで八角形をしており、屋根は八方にそれぞれ軒を折り重ね、魚鱗で覆ったようにみえる。また、棟には花や鳥の装飾が施され、軒には銅鈴を吊される。
華麗で優美な造形は、タイ族の仏教建築の傑作と言われる。
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