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<『三国演義』の舞台──湖北省赤壁鎮>

 旅先で市場を覗くのは旅の楽しみのひとつだ。
 そこで売られているもの、売り買いの姿。見知った町の見知った市場をひやかす楽しみとは、また、別な楽しみがあるものだ。
 いつだったか吉林へ行った時のこと。一月であった。寒いなかでも露天の市が開かれていた。昼間でもマイナス二十五度。肉も魚もコチンコチンになって売られていた。注文に応じ豚肉を切り分けるのだが、ナタのような包丁で、お餅でも切るように上から体重を乗せ押し切る。秤に載せると、カチンと音がした。そのカチンという音を聞いたとき、豁然と覚るところがあった。「なるほど。吉林の人々はこうやって冬を過ごしているのだ」、と。
 同じ冬だが湖北省・赤壁鎮の市場の魚は大きなたらいのなかで跳ねていた。竹の籠のなかの鶏も元気がいい。野菜も青々隆々としている。活気がある。長江流域の温暖と物資の豊かさと田舎田舎した泥臭さと……。
 それにしても魚を売る店が多い。小魚ではなく、四十センチほどもある丸々としたヤツ。鯉だろうか。同行の中国人の友人が言う。「あと二日で春節ですから」。「魚」は「余」と音が同じことから縁起がよいとされ春節には好んで食べられるという。そういえば、正月に壁に貼る年画などにも子供が大きな魚を抱えている図柄があった。「年々有余」なんて書いてあったりして。
 年画といえば、魚を売っているそのすぐ隣に正月用の対聯を売る店がある。「対聯を売る店」というよりも、「対聯を書く店」と言った方がよいだろうか。お年寄りがやってきてくしゃくしゃな紙片を渡す。それには、どこから引っ張ってきたのか、自分の気に入った対句が書いてある。それを見て、赤く長細い紙に、金色の墨で、一気呵成に書き上げる。勢いがいい。で、書かれた字を見るとこれが少しも巧くない。それでもお年寄りは満足そうに金を払い、対聯を丸め大事そうに抱えて帰って行く。いくら払ったのだろう? 尋ねると、五元とのこと。日本円にすると70円。これじゃ文句も言わないだろう。
 辺りには、魚の臭いと墨の匂いの混じり合った不思議なニオイがしていた。
「なるほど」。土地に根を張った泥臭さ。泥臭さの中の華やかさ。家に帰り、孫と一緒に家の入り口に対句を貼るのだろう。貼られるのは白く漆喰を塗られた土の壁だろう。明日の夕食には家族そろって魚を食べるのだろう。こうやって春節を迎えてきた。幾世代も、何百年も。フト思った。「この市場の様子は赤壁の戦いの頃とさほど変ってはいないのではないだろうか」、と。

 赤壁鎮と言えば「赤壁の戦い」。曹操の軍は八十三万、迎え撃つ孫権と劉備の連合軍は三万。連合軍は赤壁に陣を構える。曹操の軍は少し上流の烏林。長江を挟み相対峙する。その三万が東風に乗じての火攻めの策をとり、八十三万に勝つというお話。南岸から上流に向かっての火攻めを成功させるためには南東の風が吹かねばならぬ。ところが、時は冬、十一月の二十日。この時期、風はもっぱら北西から吹く。この時、南東の風を吹かせたのが諸葛孔明。「七星壇」を築かせる。「高さは九尺、三重にして、百二十人の人が旗を手に持ちこれを取り囲む」。斎戒沐浴し道士の服をつけた諸葛孔明が髪を振り乱し懸命に祈ると、何と、突如として……。『三国演義』のなかでもクライマックスである。
 赤壁の河岸へ向かう途中に小高い丘があった。階段を上ると「拝風台」と書かれている。案内の若い女性が言う。ここが「七星壇」の跡、すなわち諸葛孔明が南東の風を呼び起こした場所です、と。
「アレッ、それは物語のことではないの」。
「いえいえ、実際に南東の風は吹き、火攻めは成功したのですから。はい、西暦二〇三年のことです」。
史実もフィクションもゴチャゴチャだ。

 赤壁鎮の市場を歩きながらボーと考えていた。羅漢中が『三国志演義』を完成させるのは十四世紀。赤壁の戦いから千百年経っている。さらに七百年経って私たちがそれを読み夢中になる。赤壁までのこのこやってくる。そのこと自体がどうかしているのだ。「そう、今年でちょうど千八百年だ」。
 魚の臭いと墨の匂いの混じったニオイをかいだのはそういう時だった。一瞬、自分が千八百年前の物語のなかにいるような気がした。あるいは、映画のセットのなかにいるような。これからみんなで「七星壇」で祈っている諸葛孔明を応援に行こうやって……。何かが分かった気がした。赤壁では、歴史と物語がゴッチャになるわけが。

 家に帰って「赤壁」の箇所を読み返すと、以前とは違った臨場感があり、親しみがあった。「やっぱり、一度赤壁の空気を吸うとね」。
 これも、旅の楽しさのひとつか。

(「トコトコ」2004年2月号に掲載)


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