<湖北省・武漢>
大巴山の山並みを激流となって越え下ると、江漢の大平野に入る。武漢で最大の支流である漢水を併せ、まさに大河の容貌に変貌しつつ東へ東へと流れてゆく。
長江をまたぐ史上最初の橋は武漢で架けられた。一九五七年のこと。長江は東西に上海と重慶を結び、鉄路は南北に北京と広州を結ぶ。大きな構図の中で、その十字路が武漢である。
黄鶴楼はその武漢長江大橋のすぐ南に建つ。中国に楼閣は数限りなくあるが、これほど気迫に溢れた楼は珍しい。悠々たる長江の流れに相対する地元の人々の心意気が現れていて気持ちがいい。黄鶴楼で思い出されるのは李白。高校の漢文の教科書にも載っていた。「故人西のかた黄鶴楼を辞し 煙花三月揚州に下る」。
登ると長江のゆったりとした流れと、それをひとまたぎする長江大橋が見渡せる。
創建は三国時代、孫権が劉備の攻撃に備えた物見櫓だったという説もあるというがつまびらかではない。ともかくも千六、七百年の間、破壊されては再建され、焼かれては再建され、現在のものは六代目になる。ここには長江を見渡す楼閣がなければならぬ、そういう人々の執念を感じさせる場所であり、長江の流れであり、黄鶴楼である。
帰り際、長江大橋を渡りながら、右手、河下を見てアッと息を呑んだ。何という圧倒的な水量。そして、色は赤茶色。橋のところは狭いがその先は河幅を拡げ、視力の尽きるところでは二キロほどにもなっていようか。その水平線に向かって、滔々と流れる。遮るものは何もない。行き着く先は遙か東シナ海。揚州までは八百余キロ。李白の詩の下の句を思い出した。「孤帆の遠影碧空に尽き 唯だ見る長江の天際に流るるを」。
舞台が大きいと、別離の情感のスケールも大きくなるものなのだろうか。
(中日新聞・東京新聞の2002年3月31日日曜版に掲載)