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<秦嶺山脈を越え、漢中を訪ねる>

 クイズをひとつ。「漢字」とか「漢土」とか「漢民族」とかいう。なぜ中国のことを「漢」というのでしょうか? もちろん、これは誰でも分かる。漢王朝の「漢」である。さて、次の問題。これはチョット難しい。その漢王朝はなぜ「漢」になったのでしょうか? 
 答えはこうである。漢中という土地から来ている、と。
「反秦」の狼煙が全国に上がり、諸侯が立ち上がったとき、こんな約束が交わされた。「最初に関中を平定した者を関中の王としよう」、と。関中は秦の地。渭水と大平野に恵まれた「沃野千里」の地。また、函谷関という自然の要塞に守られてもいる。この地を獲れば天下をおさめることができる。秦がそうであったように。そういう土地である。
 果たして、秦を破り最初に関中に入ったのは劉邦であった。意気揚々たるものがあったであろう。しかるに、項羽は力に頼りその約束をほごにする。自らを西楚の覇王と称し、諸侯を各地の王に封じてゆく。そのなかで、劉邦を関中から追い出し、蜀巴・漢中の土地を与え漢王としたのである。これが、「漢」の始まりである。
 勿論劉邦は不満であった。約束が守られない上に、漢中は、関中から秦嶺山脈の険を越えて行かねばならぬ辺鄙な土地であった。戦うべきか従うべきか。劉邦は迷う。しかし、今戦っても万に一つも勝ち目はない。劉邦は泣く泣く漢中へ下ってゆくのである。紀元前二〇六年のことである。
 その漢中へ行ってきた。春浅い二月の初旬。西安は秦嶺山脈の北。漢中は南。西安から宝鶏まで車で二時間。宝鶏から夜行列車で七時間半。秦嶺山脈の険阻を避け、ぐるりと大回りしなければならない。
 それでも当時に較べどれほど楽なことか。劉邦の軍は三万。命がけの秦嶺越えであった。途中、谷底に落ちた者の数は知れない。逃げ出した者の数も知れない。
 馬と荷車の軍隊が山道を越えることはできない。古来、関中と漢中・巴(今の重慶)・蜀(今の成都)を結ぶものは桟道であった。秦の桟道、蜀の桟道という。実際に見て感動をした。ほとんど奇跡のような道である。あれを「道」というのだろうか。山のなかを河が流れる。褒河という。河に沿って断崖がある。その断崖に穴を穿つ。その穿った穴に柱を差し込む。その差し込んだ柱の上に板を敷く。それが桟道である。何ともうまく考えられたものだ。しかも、実際にそれを作るエネルギーは膨大なものである。宝鶏から漢中にいたる間の桟道の長さは二百三十五キロという。
 劉邦の軍はその桟道を伝って漢中へ辿り着く。桟道を進みながら、過ぎた桟道を焼いた。再び関中へ出る意志のないことを項羽に示すためであった。
 時代は四百年下って三国時代。諸葛孔明が宿敵・魏を撃つべく北へ進軍をするのも、漢中から桟道を伝ってのことである。更に五百年下って唐、玄宗皇帝が安禄山の乱を避け四川へ下る時に通るのもこの桟道である。古来、陝西と四川を結んできた唯一の道がこの桟道なのである。

 さて、劉邦は漢中に滞在すること半年。むろん関中のような広大さはない。それでも、秦嶺の南、気候は温暖であり豊かな土地であった。この地で軍を休める。食糧を得る。戦う意志がまた身体に満ちてくる。さらに、彼はこの地で韓信を得て大将軍に抜擢する。その韓信こそは、やがて天才軍略家の名をほしいままにし、項羽との戦いに決定的な役割を果たすことになるのであるが……。
 そして再び桟道を作り、関中へ向かっての進軍を開始する。
 劉邦が宿敵・関羽を垓下の戦いに破り、漢王朝が全国を統一するのはそれから四年後のことである。関中の中心、長安を都にするのである。まさに、漢中は、漢を育んだ母の懐のような地であった。
 さて、最後の問題。では、なぜ漢中は漢中というのでしょうか? 答えは、漢水の中流にあるからだ、という。実のところ、ここで注目していただきたいのは、この漢水というのは長江の代表的な支流であるということである。武漢で長江に注ぐ。一方、前日に西安から宝鶏の間で渡った河は渭水。これは黄河最大の支流である。
 中国大陸は北に黄河があり、南に長江がある。これが二大水系。秦嶺山脈はこの二大水系の分水嶺である。山の北の河は黄河に注ぎ、南の河は長江に注ぐ。
 西安から漢中への旅はこの二大水系をひとまたぎするスケールの大きな旅である。そのスケールの大きさの中に、桟道があり、桟道をめぐる歴史がある。心に染みる旅であった。

(写真の桟道は漢中ではなくさらに南に下った広元のもの)

(「北京トコトコ」2003年4月号に掲載)


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