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《西安》(せいあん) 関中平野の中心に位置する。北には渭水が流れ、南には秦嶺山脈が連なる。西周が初めてここに都を定めたのは紀元前1134年のこと。以来、十一の王朝がこの地を都としてきた。その間およそ2000年、古都と呼ぶにふさわしい歴史を持っている。 シルクロードの東の起点でもある。早くも漢の時代、絹は砂漠を越え、遙かローマの都にまで運ばれていた。 また、日本との関わりの深い町でもある。阿倍仲麻呂、空海、多くの日本人が遣隋使、遣唐使の時代から足跡を残している。 <西安城壁>(せいあんじょうへき) 隋・唐の長安城の皇城の基礎の上に明代初期に城が築かれた。それが、今残る西安の城壁である。中国の中世後期の代表的な城壁のひとつである。たたし、面積は唐の時代の九分の一に縮小されている。逆に唐の時代の長安城の大きさが知れる。 黄土をつき固めて築かれており、最下層は石灰・土・濡米を混ぜあわせて強固にしてある。 城壁の長さは、東面2590メートル、西面2631メートル、南面3441メートル、、北面3244メートル。高さは12メートル。頂部の幅12〜14メートル、底部の幅は15〜18メートルである。120メートルおきに見張り台が作られ、城壁の外周には98の敵楼を設けられ、その上に櫓が築かれている。城壁の四角に角楼が設けられている。城壁の外側には堀がめぐらされている。 城門は4つあり、東門を長楽門,西門を安定門、南門を永寧門、北門を安遠門といい、それぞれに闕楼・箭楼.・正楼からなる三重の門楼を設けている。 城壁の美しさ、門の美しさはいまなお人々を魅了してやまない。 <西安碑林>(せいあんひりん) 西安市三学街にある。孔子廟をそのまま博物館としてた。多くの碑石を保存するところから碑林と呼ばれる。 創設は北宋の元祐2年(1087)。唐の開成年間(836〜840)に彫られた「十三経」を保存するために設けられたのが始まりだと伝えられる。その後、歴代とも数を増やし規模も大きくなってきた。碑林と称せられるようになったのは清代初期という。 展示されている石碑や墓碑碑文は三千点余り。漢〜清代の名家の精華を網羅しており、中国の書の宝庫と言われる。書道に関心のある人には必見の場所。楮・草・隷・纂の各書体の珠玉がそろい、とりわけ唐代の欧陽詢・虞世南・チョ遂良・李陽冰・顔真卿・柳公権・張旭・懐素・智永・李隆基・史維則らの真筆の刻石がきわめて貴重である。 また、米フツ・蔡京・蘇賦・董其昌・林則徐ら宋〜清代の名家の墨跡も注目すべきものである。 このほか、七世紀に中国に伝来したキリスト教ネストリウス派の布教団との交流を記述した「大秦景教流行中国碑」、空海の師匠である恵果のそのまた師匠にあたるインド僧・不空和尚の一生を記した「不空和尚碑」や漢語とネパール語による唐代の陀羅尼経幢は貴重な史料でもある。 <興慶宮公園>(こうけいきゅうこうえん) 日本人には阿倍仲麻呂記念碑がある公園として記憶されている。717年、遣唐使として入唐し科挙の試験にも合格をする。玄宗皇帝の厚い信頼を得て、唐王朝に仕えること三十有余年、望郷の念押さえがたく、ようやく玄宗皇帝の許しを得て帰国の途につく。その時の歌が、「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」である。ところが嵐に遭い船はベトナムに漂着する。再び長安に戻り、ついに日本へ帰ることなくこの地に七十三年の生涯を閉じる。 石碑にはこの歌とともに、仲麻呂遭難の報を聞いた李白が友の死を悼み詠んだ「晁衡を哭す詩」が刻まれている。 興慶宮は大極宮、大明宮とならび唐代三大宮殿のひとつ。唐の玄宗(685-762、在位712-756)が即位するまえに住んでいた邸宅を改築したもの。 玄宗皇帝が政務を執ったり、日本を含む外国からの使節との接見に利用した宮殿でもあり、また、楊貴妃を住まわせたところでもある。 玄宗皇帝と楊貴妃が遊んだ沈香亭、中秋の名月を愛でたという花ガク相輝楼などが復元されている。 <鐘楼>(しょうろう) 西安市の東・西・南・北の4大街が交差するところにある。明の洪武17年(1384)に現在の西大街の広済街口に建立された。当時は、鼓楼と東西にあい並び建っていたが、万暦10年(1582)に改修し、現在の位置に移された。 基台は耐火煉瓦で築かれ、35.5メートル四方の方形で、高さは8.6メートル。四面に高さ・幅とも6メートルのアーチ形の通路が通じている。地上から楼頂まで高さは36メートル。木造二階建て、屋根は三重の構造になっている。 鼓楼と相対照しており、「晨(朝)鐘暮鼓」の言葉通りに、それぞれの時を告げていた。 <鼓楼>(ころう) 西安市西大街の北側にある。鐘楼の少し西に建つ。かつては楼上に大太鼓があり、毎日夕刻に時を告げていたという。明の洪武13年(1380)の建立であるから、鐘楼の創建よりも四年早く、また六百年の歴史を有することになる。清の康煕13年(1674)と乾隆5年(1740)に改修されたが、楼身は建立時の特徴をそのまま留めている。 高さ33メートルの堂々たる建物である。屋根は三層。楼閣を支える基台は耐火煉瓦で築かれ幅38メートル、奥行き52.6メートル、高さ7.7メートルである。南北に高さ・幅とも6mのアーチ形の通路がある。 <西安事変旧祉>(せいあんじへんきゅうし) 1936年12月12日。共産党討伐のため西安を訪れていた蒋介石を張学良や楊虎城が捉え、共産党との内戦を停止し、抗日のための統一戦線を築くことを説いた事件が西安事変である。これによって、第二次国共合作が成立した。 張学良公館と楊虎城記念館からなる。張公館は建国路にあり、1932年の建設。煉瓦と木で造られた三階建ての西洋風の建物が三つ東西に並ぶ。東楼が機要楼、中楼が応接室と会議室、西楼が張学良の居室であった。西安事変が発生すると、中国共産党代表団を率いてやって来た周恩来(1898〜 1976)と葉剣英(1897〜1986)は東楼を宿舎とし、中共代表団と張学良・楊虎城(1893-1949)や南京政府の代表との交渉の多くは中楼で行われた。 止園とも呼ばれる楊虎城記念館は北大街青年路にあり、1933年の建設。西安事変の前夜、張学良と楊虎城が兵諌の発動を密議したのがここである。 1982年に張学良公館に西安事変紀念館が開設された?。 <小雁塔>(しょうがんとう) 西安市の市街南方約1一ロの薦福寺にある。薦福寺は唐の文明元年(684)に高宗(在位649-683)の献福(追福)のために創建し、それより献福寺と命名されたが、武則天が690年にこれを改修し薦福寺とした。 景竜年間(707-710)に塔を建立したが、その目的は、義浄がインドから持ち帰った経典を収蔵するためであった。 同様の目的で建てられた慈恩寺の大雁塔よりも小さいことから小雁塔と命名された。 初めは十五層であったが、何度か地震にあって頂部が崩れ落ち、現在は十三層になっている。基台は11.83メートルの方形。高さは43メートル。秀麗な姿である。 また、同じ敷地内に西安博物館があり西安市の管理のもとに文物の展示が行われている。陝西省博物館のような大規模ではないが、その分纏まりのある展示となっておりなかなかの見応えがある。 <大雁塔>(だいがんとう) 南門から南へくだること2.5キロ。大慈恩寺の院内に建つ。大慈恩寺の前身は隋代創建の無漏寺。唐の648年、三代皇帝の高宗(628〜683)が太子であった時、母である文徳皇后を供養するために増改築して大慈恩寺と改称した。 645年、三蔵法師玄奘がインドから大量のサンスクリット語の経典を持ち帰えると、大慈恩寺で漢訳の仕事を始めた。訳出された経典は75部1335巻に及ぶ。その経典を収蔵するために院内に建てられたのが大雁塔である。652年のこと。 高さは64メートル。四角七層である。創建当時はインド洋式の五層の仏塔であったが、その後改修が行われ、明代に現在の姿になった。 最上階まで上れば市街が一望できる。 塔の南入り口左右には、太宗の「大唐三蔵正教序」と高宗の「大唐三蔵正教序記」の碑がある。ともにチョ遂良の筆になる。 <大興善寺>(だいこうぜんじ) 創建は西晋の武帝(司馬炎)の時代だとする。隋唐時代には慈恩寺、薦福寺とともに、インドなどから高僧が布教に訪れた際の経典翻訳の一大センターであった。なかでもインド僧不空和尚(705〜774)の業績は大きく、中国密教の発祥に地となった。日本からの留学僧で、ここで密教を学んだ者も多い。 院内には山門、天王殿、大雄宝殿、鼓楼、鐘楼、観音殿、方丈殿などが残っている。 <清真大寺>(せいしんだいじ) 西安には八万人以上のイスラム教徒がいるという。その信徒たちの信仰の拠り所になっているのがここ清真大寺。一日五回の礼拝が行われ、金曜日の礼拝には千人から二千人の信徒が集まる。礼拝殿は二千人を収容できる。入り口には「臨下有嚇」(臨めばおそれあり)と書かれている。一切を忘れひたすらアラーに祈る。それが礼拝だという。
寺があるのは化覚巷。この辺りはイスラム教徒が多く住む。彼らの祖先がペルシャやアラビアから中国へ移り住んでくるのには何度かの大きな波があったが、ここに暮らす人々の祖先は唐の安史の乱の頃にやってきた人々だという。千二百にわたり祖先の信仰を守り続けてきたと言うことになる。 第一展覧室は藍田猿人の化石から秦代まで。西周時代(紀元前11〜8)の青銅器がみもの。第二展覧室は漢代から魏晋南北朝時代まで、第三展覧室は隋、唐、宋、明、清の各時代の文物が展示されている。 通常展示されている文物の数は三千程度である。 <阿房宮遺跡>(あぼうきゅういせき) 秦の宮殿の遺跡。西安市の市街西方約7.5キロの阿房村にある。 秦の始皇帝(在位前247〜前210)は紀元前212に咸陽の宮城が手狭になったとし、70万人を動員して渭水の南岸の上林苑に新しい宮殿の造営を始めたが、存命中に完成したのは前殿の阿房宮のみであった。 『史記』秦始皇本紀に「前殿の阿房、東西五百歩、南北五十丈にして、上に万人が坐すことができる」とある。秦の始皇帝の死後、秦二世(胡亥。在位前210〜前207)が造営を続けたが、入関した楚の項羽(前232〜前202)によって焼かれた。 現在でも、大規模な土の土台だけは残っている。 <漢長安城遺趾>(かんちょうあんじょういせき) 前漢の都城の跡。西安市の市街西北5キロにある。 漢の高祖の5年(前202)に劉邦(高祖。在位前206〜前195)が秦朝の興楽官を改修して長楽宮と改称し、ここに遷都した。ついで、未央宮を造営し(前200)、その十年後に、はじめて長安城の城壁を築いた。版築で築き、周囲23キロ、高さ8メートル、底部の幅16メートルであった。各面に城門が三つずつ設けられ、城門ごとに三つの通路があり、城内に大通りが三本通じていた。 武帝の時代に、北宮・明光宮・建章宮を造営するとともに、西部の上林苑を拡張し、昆明池を開削した。 このように、漢の長安城の完成には90年余りが費やされた。 東と西の城壁と未央宮・長楽宮・建章宮・太液池・承露殿などの遺構が現存している。
──長楽官遺趾(ちょうらくきゅういせき)
──未央宮遺趾(びおうきゅういせき) 西安市の東三十キロ。臨潼県にある。秦の始皇帝(前259〜前210,在位前246〜前210)の墓で、高さ55メートル、周囲2000メートル。 始皇帝は前247年、十三歳で即位、前221年に全土を統一し「皇帝」の称号を名乗った。 即位間もなく自らの陵墓の造営に着手し、36年の歳月と70万人の使役を費やして完成させた。 『史記』の記載によれば、墓室は宝石をちりばめた宮殿や楼閣があり、盗掘者が侵入すれば矢が放たれる仕掛けが備えられ、水銀を流した海や川が造られているという。 1980年陵の西、約20メートルの地点で実物を二分の一に縮小された青銅製の馬車が二両発見され、内一両は復元されて兵馬俑博物館に陳列されている。 <兵馬俑博物館>(へいばようはくぶつかん) 秦始皇陵の東にある。秦朝の将兵を模して造られた陶塑(泥人形)群。現在は、一号坑から三号坑まで公開されている。三つの坑の面積の合計は2万平方メートルに及ぶ。 一号坑は1974年、近くの農民が井戸を掘っているときに偶然発見した。東西230メートル、南北62メートルの坑から六千体の兵俑が馬俑が出土し、今も発掘が続けられている。兵俑の高さは1.8メートル、馬俑は1.5メートル。これが六千体、方形の陣形で、実戦の軍陣に基づいて並んでいる。弓や弩を持つもの、長い槍や矛を持つものなど当時の兵士の姿をそのまま映し出したものである。 二号坑は車陣、戦車、騎兵、歩兵の四つの兵種の混成で陣容を形成する。三号坑は戦車一台と衛兵俑64体が置かれ、一・二号坑の軍隊を統率する司令部を表すと考えられている。 1979年に、一号坑の上に長さ200メートル、幅70メートルのアーチ形展示ホールを設置、兵馬俑博物館を開設させた。 <華清池>(かせいち) 西安市の北東30キロ。秦嶺山脈の支脈である驪山の麓にある温泉地。玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスの舞台になった。白楽天の長恨歌に言う、「春寒くして浴を賜う華清池 温泉の水滑らかにして凝脂を洗う」。 楊貴妃が入ったという「海棠湯」や玄宗皇帝が入ったという「蓮花湯」など唐代の浴槽も発掘、復元されている。 近代においては、西安事変の舞台にもなった。1936年、蒋介石が華清池に宿泊中、張学良の軍隊が蒋介石を襲った。蒋介石は寝室を脱して裏山へ逃れるが、その中腹の亭で捉えられる。 <藍田猿人遺跡>(らんでんげんじんいせき) 藍田県の陳家窩村と公王嶺にある。1963〜66年にこの2か所で猿人の下顎骨と頭骸骨の化石を発見し、併せて藍田中国猿人・藍田直立猿人と名付けた。略して藍田人ともいう。北京原人よりもさらに原始的と考えられるが共通点も多い。98〜100万年まえのものとされる。 <草堂寺>(そうどうじ) 西安市の西南30キロ。秦嶺山脈の北麓に位置する。 この寺は、西域・クチャ出身の名僧鳩摩羅什(くまらじゅう)がサンスクリット語の仏典を漢訳した場所として世に知られる。四、五世紀のこと。 請われて長安にやってきた鳩摩羅什は、仏法を講じつつ、経典の漢訳に着手した。三千人の僧が参加をし、97部427巻の仏典が漢訳された。これにより、中国仏教は初めて正確な中国語になる経典を得ることになった。中国仏教史上ひとつのターニング・ポイントになった場所である。 また、ここから眺められる終南山は古来多くの文人墨客を魅了してきた。「草堂煙霧」という言葉がある。煙霧が立ちこめる中で、草堂寺から終南山を見渡すのが良いとされてきた。 <前漢の陵墓群陵>(ぜんかんのりょうぼぐん) 西安の西北、咸陽市の北原に前漢の皇帝の陵墓が一直線に並んでいる。前漢の皇帝は十一人であるが、そのうち、文帝劉垣(在位前180一前157)の覇陵と宣帝劉諭(在位前74〜前49)の杜陵を除く九つの陵墓は渭水北岸の北原に東西50キロにわたって並んでいる。 西から武帝の茂陵、昭帝の平陵、成帝の延陵、平帝の康陵、元帝の渭陵、哀帝の義陵、恵帝の安陵、高祖(劉邦)の長陵、景帝の陽陵の順である。このうち、長、安、陽、平、茂を五陵と呼び、漢代には陵邑(陵を守るための村)を設けていた。 <長陵>(ちょうりょう) 漢の高祖劉邦(在位前206〜前194)の陵墓。咸陽市の市街より東に20キロの地点にある。土を長方形につき固め、長さ180メートル、幅175メートル、高さ80メートル。西側に皇后の呂后塚、さらに西側に恵帝劉盈(在位前195〜前188)の安陵、東側に景帝劉啓示(在位前157一前141)の陽陵がある。 また、周辺には貴族の墓も多く、東西50キロにわたって塚群がひろがる。 <昭陵>(しょうりょう) 唐の二代目の皇帝・太宗李世民(在位626〜649)の陵墓。西安市の西北60キロ。礼泉県の県城東北22qの九峻山にある。 中国の歴代の陵墓の造り方は、大きく分けて二つある。ひとつは、秦、漢の時代に行われたように、土を盛り塚を造るやり方。もう一つは、唐の時代に行われた、山をそのまま陵にする、つまり自然の山の峰を利用して、それを陵墓の塚にしてしまうというやり方である。昭陵は、その後者の嚆矢であるとされる。 周囲60キロというスケールは、その自然の山を利用するという造営方法から可能になったものである。 史書によると、墓内はおびただしい装飾品で飾られ、あたかも地下宮殿の観を呈していたという。山の下には、建物はいずれも現存しないが、南面の山麓に朱雀門と献殿、北斜面の玄武門や祭壇などがあり、現在でも土台は識別できる。玄武門には太宗に帰順をした、東突蕨、吐蕃、高昌、焉耆ら十四ヶ国の君長の石刻像を並ぺてあったが、現存するのは台座のみである。 太宗は造営に着手するさい、功臣、親族などに陪葬を許すと詔した。その結果広大な陵園に200余りの墓家がある。 1978年に昭陵博物館を開設。墓前碑、墓誌、石彫などを展示する。 <茂陵>(もりょう) 西安市の北西40キロ、興平県の県城東方15キロにある。漢の武帝劉徹(在位前141〜前87)の陵墓で、前漢の皇帝の陵墓ではもっとも大きい。 武帝の即位の翌年から造営に着手し、53年の歳月と毎年の税収の三分の一の費用をついやして完成させた。 武帝は前漢の最盛期を創りあげた皇帝で、中央集権の強化、儒教の国教化、塩・鉄の専売化による財源の充実、また、対外的には匈奴へ対する全面的な開戦、西域への積極的な進出など、その後の古代中華帝国の規範的な姿を現出させた。 陵は正方台形で、底部の一辺は230メートル、頂部の一辺は40メートルである。 『漢書』貢禹伝には、金銭財物のほか生きた馬、虎、豹なども埋蔵された、とある。 近くに李婦人、霍去病などの陪葬墓がある。 1978年に霍去病の墓に茂陵博物館を開設。
──霍去病墓(かくきょへいぽ) 西安の西北40キロ。興平県の馬嵬坡にある。 安禄山の乱に追われ長安を脱出した玄宗の一行は蜀(成都)を目指して西へ向かう。しかし、馬嵬坡までくると軍隊は反乱を起こす。行軍をやめ、楊国忠(?一756)を殺害し、さらに玄宗に楊責妃を迫る。玄宗はやむを得ず、ここで楊貴妃を縊死させた。 面積3000平方メートルの陵園で、墓は煉瓦を円形に積み重ねてある。前に「楊貴妃之墓」という墓碑が建てられている。 <乾陵>(けんりょう) 唐の三代目皇帝・高宗李治(在位649-683)と女帝武則天(在位690〜705)の合葬墓。西安の西北80キロ。乾県の県城の北方の梁山にある。標高1048メートルの梁山の北嶺を地形を利用して造られた代表的な唐朝の陵墓である。 武則天は中国史上唯一の女帝。高宗の死後自ら皇帝の地位に就く。 朱雀門外の西に建つ碑は述聖紀碑。高宗の文治武功を称える。武則天が文章を作り、中宗が揮毫した。碑文は八千文字、碑の高さは6.3メートル。 また、東側に建つのが、武則天が建てた「無字碑」。一字の文字も書かれていない。「自分の功徳は無量で文字に示せない」という意味である、という説と、「自身は論ぜぬ、後世の人の判断にゆだねる」の意味であるという説がある。 参道には唐帝国が支配をしていたシルクロードの諸族の首長をかたどる石人61体が拱手する姿で立つ。武則天が高宗の葬儀に参列した諸族の首領と外国使節をかたどって彫らせたと言うが、後世の破壊で首はない。 <懿徳太子墓>(いとくたいしぼ) 西安の西北80キロ。乾県の県城西北3qの韓家堡にある。懿徳太子李重潤(687〜701)は中宗の長子で、高宗と武則天の孫にあたるが、701年武則天より死を賜う。神竜2年(706)に洛陽から移して乾陵に陪葬した。 墓の内部は墓道・過洞・堅坑・小龕・甬道・墓室からなり、全長100.8メートル。壁画や陶磁器、石刻など1000点余りを出土している。特に注目されるのは壁画である。唐時代の墓に描かれた壁画の中でも最も優れたものとされる。現在は、陝西歴史博物館に移されている。 <永泰公主墓>(えいたいこうしゅぽ) 西安市の西方77キロ、乾県の北原にある。永泰公主(684〜701)は唐の中宗の七女で,高宗と武則天の孫にあたり、武延基(武則天の甥武承之の子)に嫁すが、大足元年(701)に17歳で夫とともに武則天より死を賜った。神竜2年(706)に乾陵(高宗の陵墓)の陪葬墓として夫の武延基と合葬された。 1960〜62年に発掘され、墓内は全長87メートル、墓道は傾斜し、四方の壁には入り口から後室までくまなく壁画が描かれている。特に有名なのは、侍女図で、庭を逍遙する女官、如意や小箱をもつ女官などが優雅に、そして生き生きと描かれている。このほか、唐三彩の陶俑や石刻、陶磁器など1000点余りを出土した。墓前に展示室を設け、乾陵博物館が開設されている。 <章懐太子墓>(しょうかいたいしぽ) 乾県の県城北方3qにある。章懐太子と妻の房氏の合葬墓。章懐太子 (654〜684)は高宗と武則天の次男。学問に優れ『後漢書』の注釈を行ったことで知られる。上元2年(675)太子に立てられたが、母である武則天の専横への不満を隠すことが出来なかったことから680年に武則天によって廃されて巴州(四川省)に流され、684年に自殺を強いられた。706年に乾陵に陪葬され、711年に章懐太子に追封された。 1971-72年に発掘が行われた。全長71メートル、幅3.3メートル、深さ7メートル。盗掘されてはいたが、墓内の壁画の保存状態は良く、狩猟出行図、馬球(ポロ)図は、熟練した筆致、伸び伸びとした人物の彩象、出色の出来映えである。その他、侍女図、観鳥捕蝉図、迎賓図など50幅余り、のべ400平方メートルにのぼる。 <法門寺>(ほうもんじ) 西安から西へ100キロ。扶風県の県城の北方10キロの法門郷にある。 創建は二世紀、後漢の時代である。当時の名は阿育王寺。この寺には昔から舎利(仏骨)が伝わったと言い伝えられていた。二千年前、インドのアショカ王が仏舎利を八万四千に分け全世界に送った。そのひとつがこの寺にもたらされたという伝承である。 名が法門寺に改名されたのは唐代初期。 唐代から現在まで塔は何度か再建されてきたが、1987年、倒れかかっていた塔を解体したところ、塔の基壇部に地下室が発見され、なかから伝承の仏舎利と大量の宝物が見つかった。 それらは敷地内に建てられた法門寺博物館に展示されている。 《五丈原》(ごじょうげん) 諸葛孔明の終焉の地。岐山県の県城南方約20キロにある。 三国時代、蜀漢の宰相諸葛孔明は、234年、関中に軍を発し斜峪関から五丈原にいたり渭水南岸に陣を張る。前後六度目の北伐であった。一方北岸に陣取るのは魏の司馬仲達。対峙すること百余日、諸葛孔明はこの地に病滅する。 のちに諸葛孔明を記念して祠廟が建てられた。諸葛亮廟または武侯祠という。今のものは元代に建てられ、明清時代に修復が加えられている。献殿の壁に岳飛(1103〜41)が筆写した前後両篇の「出師の表」(諸葛亮撰)を彫った清代の石版がはめこまれている。 《韓城》(かんじょう) 西安から北東に300キロ。黄河の西岸の町。東は黄河を隔て山西省と隣接する。『史記』の作者司馬遷の生まれ故郷でもあり墓があるところでもある。
──司馬遷祠(しぽせんし)
──龍門(りゅうもん) 陝西省北部、延水の中流に当たる。1937年から47年まで中国共産党中央の所在地となり、中国革命の根拠地となった。革命の聖地と呼ばれる所以である。
<鳳凰山麓革命旧趾>(ほうおうさんろくかくめいきゅうし)
<楊家嶺革命旧趾>(ようかれいかくめいきゅうし)
<棗園革命旧日趾>(そうえんかくめいきゅうし)
<延安宝塔>(えんあんほうとう)
<王家坪革命旧趾>(おうかへいかくめいきゅうし)
<黄帝廟>(こうていびょう) 陝西省の西南部にあり、漢水上流域の盆地。秦嶺山脈の南、広くはないが温暖な気候と漢水の水に恵まれた地。 漢の高祖劉邦は項羽に追われるようにこの地を封ぜられるが、ここで兵を養い再び項羽に戦いを挑むことになる。また、三国時代には、蜀の諸葛孔明が魏を撃つための根拠地にしたところ。
──漢台(かんだい)
──拝将台(はいしょうだい)
──張騫墓(ちょうけんぼ) 漢中市から西へ50キロ。三国時代の古戦場、あるいは、諸葛孔明が魏討伐のために軍隊を鍛錬した地として知られる。
──定軍山(ていぐんざん)
──武侯墓(ぶこうぼ)
──武侯祠(ぶこうし)
──馬超祠墓(ほちょうしぼ) |