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<福建省・土楼>
「土楼には入り口はひとつしかないですよ」。
ガイドさんのそんな説明を聞きながら入る。入ると石畳の庭になっていた。入った途端、「アアッ」と思った。実際に声を上げていたかも知れない。夕方に近い午後の光が赤く、斜めに差し込んでいた。逆光のなかで鶏が十数羽チョコチョコと餌をつついていた。アヒルがやはり十数羽座り込んでいる。老婆や野菜を干している。子どもたちがビー玉に興じている。それらがワッと一度に目の中に飛び込んできた。
でも、「アアッ」と思ったのは、何よりも、その時嗅いだニオイだった。農家のニオイというのか、家禽家畜のニオイというのか、日に当たった飼料のニオイというのか……。
その時、突然に、「土楼」に来たのは初めてではなく二回目であることを思い出した。十年ほど前。忘れていたわけではない。ただ、意識をしていなかっただけなのだが。なぜ、突然に思い出したかというと、ニオイだ。ニオイの記憶が、その時の光景を呼び出してきたのだ。
十年前に案内してくれたガイドさんの顔も浮かんできた。名前は林さんだ。同行の人たちの顔も思い出される。その時も、今回と全く同じだ。入り口から入る。「アアッ」と思った。ニオイだ。農家のニオイというのか、家禽家畜のニオイというのか、日に当たった飼料のニオイというのか……。そう、その時は、一瞬、長野県小諸の昔の庄屋さんの庭先を思い出していたのだ。高校生の時だ。その頃、「学生村」という、信州の農家が空いた部屋を勉強用に都会の学生に提供するという仕組みがあり、友人と二人で行ったことがあった。確か前田さん、というお宅だった。小諸から田舎道をバスに揺られて一時間ほど。千曲川のほとりの小さな村であった。三週間ほど泊めてもらったのだろうか。農家のニオイを嗅ぎながら夏休みを送った。初めて土楼に入ったとき、そのニオイ、人をわけもなく懐かしい想いにさせるそのニオイに、突然、数十年前に嗅いだ小諸の農家を思い出していたのだった。
今回、ニオイは、十年前の記憶を呼び覚ました。そして、同時に、十年前にこのニオイが、そのさらに三十年前の記憶を呼び覚ましたのだ、ということを思い出させた。ニオイの記憶は重層的に積み重なって行く?
老婆の話を聞いた。劉含笑さん、七十歳。現在、九家族、五十人ぐらいが暮らしているという。「随分多いですね」と言うと、怒ったように「いやいや昔は百人以上いた。今は、町に行きたがるから」。
「この土楼は建ててから何年経っています?」
「ちょうどワシが嫁に来たときに建てたものよ。十九で来たから……」
「何年ぐらいモツものですの?」
「ワシの実家は二百年たっとる……」
「ご実家も土楼ですか」
十キロほど先の永定というところからお嫁に来たのだという。男が残り、女が出て行く。逆はない。そういうしきたりなのだそうだ。子供が生まれる。やがて女は嫁に出て行く。代わりに嫁が来る。孫が生まれる。やがて女は嫁に出て行く。代わりに嫁が来る。そうやって代々この土楼で暮らしてきた。劉おばあちゃんの曾孫は十九人。そのうち三人がここで暮らしている。
なるほど。土楼で生まれ。土楼から土楼にお嫁に行き。土楼で子供を育て、土楼で孫のお守りをする。そして土楼で死に土に返る。人の一生が土楼の中で重層的に積み重なっている。
ニオイの記憶も重層的に積み重なって行く。人の一生も思い出も重層的に積み重なって行く。そういう場所として、土楼はピッタリだ。帰り際、土楼を見上げながら、フト、そんなことを思った。
(「トコトコ」2003年12月号に掲載)
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