目次
福州
福清
ビン侯
泉州
恵安
アモイ(厦門)
武夷山
土楼

===福建省===
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《福州》(ふくしゅう)
 福建省の省都。ミン江の河口にある。台湾海峡を隔てて台湾と向かい合う。亜熱帯性海洋気候に属し、四季を通じて温暖な気候に恵まれている。最も寒いのは一月であるが、それとても平均温度は10.8度である。
 市の中心鼎立する于山、烏山、屏山の三山と、白塔、烏塔の二塔が市のシンボルである。
 歴史は古く、1988年に「福州建城2200年」の催しが開かれた。これは、戦国七雄のひとつ、趙の国がここに築城したという史書に基づく。
港湾都市としての地位を確立したのは宋の時代、さらに明・清時代には外国との貿易に関する手続きの司る市泊司もが設けられた。清末には中国最大の造船場が設けられ、海軍基地としても栄えた。
 海に面し、また、人々に進取の精神の強いことから昔から多くの人が海外へ雄飛をはかってきた。「華僑のふるさと」などといわれる。一説では、世界中に250万人以上の福州出身の華僑がいるという。

<干山>(うざん)
 戦国時代、于越と呼ばれる民族がここを根城にしていたことから命名された。面積11.9ヘクタール、海抜58.6メートル。大きな山ではないが、福州では最も目立つ存在であり、古来多くの史跡が残されてきた。

──大士殿(だいしでん)
 干山山頂にある。観音閣ともいう。宋代の嘉福院の跡地に、清の康煕52年(1713)、万寿亭が建てられた。乾隆2年(1737)に改築され、名も大士殿に改める。
 辛亥革命では、革命軍は福州を攻撃するための総指揮部を当所に設けた。
 現在では福州市博物館になっている。

──定光塔(じょうこうとう)
 俗に白塔という。干山の西麓にある。八角7層・高さ41メートルの磚塔。唐の天祐元年(904)の建立で、碑記によれば、基壇を築くときに光る珠を発見したことから名が付けられた。初めは外周に木を貼った7層の楼閣式の建築でであったが、明の嘉靖13年(1534)に落雷で焼失したため、同27年(1548)に再建。
 唐代、塔と同時に創建されたのが、南側にある定光塔寺。2年後に朱温(梁の太祖。852〜912。在位907〜912)の即位を祝して万歳寺と改称された。白塔寺ともいう。現存の堂宇は清代の再建である。

──戚公祠(せきこうし)
 干山の白塔寺の東側にある。戚継光(1528〜87)を祀った祠。戚継光は明代、山東の蓬莱県の出身の将軍。倭寇との戦いに功があった。

──干山摩崖石刻(うざんまがいせっこく)
 干山にある宋代から近代までの100余りの摩崖石刻群。

<烏石山>(うせきざん)
 烏山とも道山とも言う。福州市の中部にあり、干山と東西に相対す。屏山を加え、福州の城内三山という。最も高い地点は香炉峰で海抜86メートル。山全体に怪石が林立し、木立が生い茂る。北宋時代に、この地の知事であった程師孟が、この風景を道教に言う蓬莱のようだとして道山と改名した。

──烏石山摩崖題刻(うせきざんまがいだいこく)
 烏石山の麓からの山道のは両側は岩。そこに、200余りの摩崖題刻が彫られている。唐代の書家李陽冰が大暦7年(772)に書いた篆書の「般若台」、宋代の程師孟、陳襄、朱熹など注目に値するものも多い。

<華林寺大殿>(かりんじたいでん)
 福州市の市街の北部、屏山の南麓にある。創建は北宋の乾徳2年(964)。
 唐の滅亡(907)から宋による統一(979)までの間に興亡した諸王朝を五代十国とよぶ。ッ中原で五王朝、周辺で十王朝あった。当時、福州はその十国のひとつである呉越の支配下にあったが、華林寺を建てたのは、郡守であった鮑脩譲。初めは越山(屏山)吉祥禅院といったが、明の正統年間(1436〜49)に現在の名に改名。
 法堂、勉学寮など他の殿は早くにたくなり、現存するのはこの大殿のみである。明と清の時代に改修されてはいるが、唐、宋代の様式を留めており、建築史上貴重な資料である。また、長江以南でもっとも古い木造建築でもある。

<開元寺鉄仏>(かいげんじてつぶつ)
 福州市経院巷にある。寺の創建は548年。はじめは霊山寺といっ たが、唐の開元23年(735)に現在名に改称。
 鉄仏は高さ5.3メートル。金泥で塗られ、手を重ね蓮台に胡坐する。
 明代の中葉までは後唐代(923〜936)に王審知が鋳造した3万斤の銅仏と誤認されていたが、銅仏でなく鉄仏であることが分かった。

<ビン(門のなかに虫)王徳政碑>(びんおうとくせいひ)  福州市慶城寺路のビン王祠にある。王審知(862〜925)は唐代末期に福建を支配し、五代になりビン王に封じられた。治世39年。社会は安定し、経済、文化の発展もあった。そのため、「開ビン王」とたたえられた。その邸宅跡が廟に改められ、現在に至っている。

<厳復墓>(げんふくぽ)
 福州市の郊外の陽岐村にある。厳復は福州市出身の清末の思想家。 中国初の海軍学校である福州船政学堂を卒業し、光緒3年(1877)からイギリスのグリニッジ海軍大学に留学。帰国後天津の海軍学校である水師学堂で教鞭を執り、後に辛亥革命(1911年)後、北京大学校長となった。
 ハックスリーの『進化論と倫理学』などを翻訳。中国の危機、改革の必要を社会に訴えた。
 墓は、清の宣統2年(1910)、本人が生前に築いたもので、石でソファーの形に造ってある。墓碑に「清侯官厳先生之寿城」とある。幾道は字。

<鼓山>(こざん)
 福州市の東南の郊外、ビン江の北岸にある。眉鼓ともいう。山の中腹に名刹の涌泉寺があり、その東側の霊源洞、聴水斎、白猿峡一帯は岩がそびえ、その岩の壁に文字が刻まれている。
 最高峰は海抜969メートル。
 日の出を見ることができる場所でもある。
 涌泉寺の西南に石段の登山道がある。長さ3キロ、2500段余り。

──鼓山摩崖題刻(こざんまがいだいこく)
 鼓山の岩壁に400余りの題刻が彫られている。時代は宋が中心。字体も、楷書、草書、隷書、篆書と揃っている。宋代の蔡襄や朱子学の創始者・朱熹、現代では郭沫若など。

──涌泉寺(ゆせんじ)
 鼓山の中腹、自雲峰の麓にある。908年、ビン王・王審知(862〜925)が創建し、名僧の神晏を招いた。宋の真宗(在位991〜1022)より「涌泉禅院」の額を下賜されたが、明の永楽5年(1407)に現在名に改称。
 1542年にに火災に遭ったが、1627年に再建。現存する天王殿、大雄宝殿、法堂、鐘楼、鼓楼、自雲堂、明月楼、蔵経殿などは清代と民国時代の再建。
 清代末期における福州の五大禅寺のひとつであった。経典とその版木を蔵することで内外に知られ、明代の南京大報恩寺版大蔵経、清代の北京勅版大蔵経、日本の大日本続蔵経など。

──千仏陶塔(せんぶつとうとう)
 合わせて千体を超える仏像が彫られている一対の陶塔が鼓山・涌泉寺の境内にある。
 東西に相対する二塔は北宋の1082年のもの。もともとは福州市の南台島の竜瑞寺にあったが、1972年に移築した。天王殿の前にあり、東側のものを荘厳劫千仏宝塔、西側のものを賢劫千仏宝塔という。
 木造に見せるために、赤銅色の粕薬を施してある。八角9層、高さ6.8メートルの楼閣式。一層ずつ焼き上げてから積み上げた。塔壁にあわせて1078体の仏像が彫られている。
 陶製の大型宝塔は中国では珍しい。

<清真寺>(せいしんじ)
 福州市の安泰橋の下にある。市内唯一のイスラム寺院。寺碑には唐の貞観2年(628)の創建とあるが、史実にあわず、実際にはもう少し後ではないかと考えられている。
 この地はもともと、五代のビン王の王継鵬の太平宮のあったところであらうが、936に万寿院という仏教寺院になり、元代にイスラ ム寺院になった。
 福州が海外との貿易港としての地位を確立した明代以降には、イスラム圏からの商人の礼拝の場になった。
 明の嘉靖年間、1541年に火災で焼失したが、すぐに再建、現在に至っている。建物の様式は、中国の色彩が強い。

<羅星塔>(らせいとう)
 福州市の東南21キロ、馬尾港の羅星山にある。磨心塔ともいう。宋代に柳七娘という女性が建立したと伝える。七娘は嶺南の出身、美貌で知られた。宋氏に嫁いだが、村の有力者・里豪は七娘を奪おうとして夫に無罪の罪を着せビン南に流し死に至らしめた。七娘はこれに抗し、資財をなげうってビン南に塔をつくり夫の冥福を祈った、という。
 明代に倒壊したが、有志により再建。八角7層・高さ31.5メートルの石塔で、港内にある羅星山にそびえる。

<林則徐墓>(りんそくじょぼ)
 福州市の北の郊外、馬鞍村金獅山の麓にある。林則徐(1785〜1850)は清末の政治家。侯官(現、福州市)の出身で、科挙に合格、、巡撫(軍務官)、総督(軍務長官)を歴任。
 イギリスなどからのアヘンの流入に対する危機感を強め、アヘンの輸入禁止を力説し、それが、道光帝に認められ、1839に欽差大臣(特命をもって任じられた大臣)として 当時唯一の対外貿易港であった広東に赴く。
 1839年、赴任した林は、アヘンの販売と吸飲を禁止、外国商人にアヘン提出を厳命するとともに外国商館を封鎖、さらには、アメリカ商人ととイギリス商人のアヘン二万トンを押収し、虎門(広東省)で大衆の面前で焼却した。このためにイギリスとの間でアヘン戦争が勃発。
 清朝内では和平論が主導権をにぎっており、林則徐は罷免され、新彊に追放される。再登用の後、1850年、潮州で病死。
 墓は、林則徐が父母のめに造ったもの。林則徐の両親のほか、林則徐夫婦と弟夫婦が合葬されている。

<林則徐祠堂>(りんそくじょしどう)
 福州市鼓楼区にある。正門に「林文忠公祠堂」という扁額が掲げてある(文忠は死後清朝より贈られたおくりな)。
 1905年、林則徐の子孫により建てられた。
 正門をくぐり、石を敷いた参道を行くと、碑亭がある。碑亭には林則徐が死亡した際に下賜され聖旨、御賜祭文、御賜碑文を彫ったもの。碑亭の北側にある祠庁は周りを壁でめぐらし、なかに林則徐の遺像を安置してある。
 1982年に林則徐紀念館となり、林則徐に関する資料も展示されている。

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《福清》(ふくせい)
 福建省の東部沿海にある。福州市の東南67キロ。黄檗山万福寺の所在地として知られる。

黄檗山万福寺(おうぽくさんまんぷくじ)
福州市の東南、漁渓鎮の聯華にある。唐の貞元5年(789)の創建で、明代に一度戦火で焼失したが、僧の隠元(1592〜1673)によって崇禎10年(1637)に再興。かつては広大な規模を誇ったが、現在は法堂が残るだけである。
 九世紀の後半、唐末にこの寺から出た黄檗希運は新しい禅法を開き、彼の弟子臨済義玄は、希運の教えをもとに臨済宗を開くことになる。
 隠元は日本に招かれ宇治に中国と同名の黄檗山万福寺を建てる。

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《ビン侯県》
<雪峰寺>(せっぽうじ)
正式には雪峰崇聖禅寺という。福州市から77キロ。僧の義存(822-908)が唐代の870年から建立にとりかかり、六年後に完成し。876年、天雪峰禅院の名を下賜される。五代十国の時代にはビン王の信仰も受け、全山に堂宇を建立。
 清代末期の福州五大禅寺のひとつ。現存する堂宇の多くは清の光緒年間(1875-1908)のもの。  また、雪峰寺の近くには雪峰枯木庵(せっぽうこぼくあん)ある。一本の枯木であるが、枝はすでになく、幹に大きな空洞が空いている。広さは、10人余りがはいることができるほど。

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《泉州》(せんしゅう)
 南宋から元の時代には中国随一の貿易港であった。アラビア、インドなど世界の各地域との貿易が行われ、一大国際都市であった。マルコ・ポーロがベネチアへ帰る船は泉州から出航をした。マルコ・ポーロは「東方見聞録」のなかでは「ザイトン」とこの町を呼んでいる。「ザイトン」とは町中に植えられていた刺桐がなまったものと言われる。
 港が土砂で埋まってしまったこともあり、今は貿易港の面影はない。ただ、町に残されたモスクや開元寺に往時の栄光と反映が偲ばれる。
 いまでも、刺桐の木は多い。刺桐は真っ赤な花を付けるマメ科の植物。

<開元寺>(かいげんじ)
 泉州市の西街にある。唐代、686年の創建。当時は桑園であり、桑に白蓮花が咲いたので、園主の黄守恭が寺を建てて蓮花寺と命名したと伝える。
 唐代開元年間に現在名に改称。宋代には子院が100余りにのぽり、元の1285にそれらを纏め、朝廷より「大開元万寿禅寺」の勅額を下賜された。
 伽藍は3.4ヘクタール、福建省最大の広さを誇る。大雄宝殿の創建は、寺の創建とほぼ同じ時期とされ、基壇をはじめ、各箇所に往時の姿を残している。建物の各所に古代インドの神話をモチーフにした彫刻が施されている。大雄宝殿のほかは、甘露戒壇(や東西両塔などが現存。

──双塔(そうとう)
 200メートルほどの間隔で東西に相対す。東塔は鎮国塔ともいい唐代の865年に建立。当初は木造であったが、南宋時代にに磚塔に改め、その後、1238年から1250年にかけて、木造を模した花崗岩の石造りにした。八角五層の楼閣式。高さ48メートル。
 塔身は心の詰まった八角形で、塔壁の仏龕の周辺にあわせて80体の仏像のレリーフ、基壇には釈迦牟尼の説話のレリーフを施す。
 西塔は仁寿塔という。五代の王審知(ビン王。在位909 -925)が木塔を建てて無量寿塔と命名。その後、磚塔に、そして磚塔から石塔に改築。完成は東塔より10年ほど早い。高さは44メートル。

<泉州海外交通史博物館>(せんしゅうかいがいこうつうしはくぶつかん)
 市内で二カ所に分かれて設置されている。ひとつは、開元寺の東側にある。もうひとつは、市の東の郊外。古くから貿易港として栄えた泉州の歴史を物語る貴重な資料が多く展示されている。
 開元寺東側の建物に展示されているのは1974年に泉州湾で発見された宋代の沈没船。
 また、東の郊外の建物には、「泉州宗教石碑陳列館」というコーナーがあり、泉州で発見された宋、元代以降のイスラム教、景教、マニ教、バラモン教などの墓石や石刻が展示されている。墓石には、「全ては滅ぶ、死は人々がみなのむ一杯の美酒のようなものだ(「コーラン」55:26)」とか「al-Balashafuniの息子」などと彫られている。アラビアやペルシャから海を越えてやってきて、異境で没した人々の墓石である。

<清浄寺>(せいじょうじ)
 市の中心部にある。現存する中国最古のイスラム寺院。現在は、寺院としては機能はしていない。
 現在残っているのは、高さ二十メートル、アラビア風のアーチ型の入り口をもつ大門、内側の壁にはめ込まれた石刻の「コーラン」などである。
 アラビア語の碑文によれば、創建は1009年。1310年にイスラム教徒キン・アリによって改修された、とある。  泉州がとアラブ、ペルシャと深く結ばれていたことの証である。

泉州府学(せんしゅうふがく)
 泉州市の三教鋪にある。北宋の976年に、孔廟であった場所に府学を建てたことに始まる。
 福建は、江蘇などとならび多くの科挙合格者を輩出してきたが、その養成機関として久しく機能してきた。
 現在の建物は、清朝乾隆26年(1761)に実施された大改修によるもの。

<イスラム教聖墓>(イスラムきょうせいぽ)
 市の東門外。聖墓村の霊山にある。三賢・四賢墓ともいい、『ビン 書』の伝えるところ、、唐の武徳年間(618〜626)にマホメット(?一632)の四人の弟子(大賢)が中国にやって来て、一賢は広州で、二賢は揚州でそれぞれ布教をし、三賢と四賢が泉州で布教に努め、当地で没しここに葬られた、という。
 花崗岩のイスラム式の墓がふたつ並び、周りには歴代の石碑が五つ並ぶ。

<老君岩>(ろうくんがん)
 老子の石像彫刻。市の北の郊外三キロの清源山にある。宋代のもので、天然の岩を彫り上げたもので高さ5.1メートル、幅7.3メートル、厚さ7.2メートルと巨大。
 宋の時代には、この辺りに、道教の寺院が集中していたが、現存しているのは老君岩のみ。

<洛陽橋>(らくようきょう)
泉州市から東へ10キロ、恵安県との境を流れる洛陽江に架かる。北京の盧溝橋、河北省の趙州橋、広東省の広済橋と共に中国古代4大名橋と呼ばれる。
 最初に石橋がかかったのは、北宋時代、六年の歳月をかけ、1059年。幅5メートル、長さ1200メートル、橋脚が46本。橋上には28個の石獅、七つの石亭、九つの石塔が置かれていた。
 河口に位置し、川幅が広く、流れが深い箇所での架橋工事であり、工法に際だった特徴がある。まず、石で筏型の基礎を造り川に沈め、川底に一筋の通路をつなげる。その上に橋を築いてゆく。さらに特徴的なのは、基礎同士の石や、基礎と橋脚を接着させるために生きた牡蛎を使っている。
 その後、歴代、度重なる改修が施され、現在の橋は、長さ834メートル、幅7メートル。橋脚の数はが31本。
 非常に美しい橋である。

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《恵安》(けいあん)
 女性たちの独特の衣装で知られる。頭からネッカチーフをかぶり、丈の短い上着で臍をだし、短めのズボンを穿く。一見エキゾチックで少数民族のように見えるが、漢族である。
 なんでこの地方だけ女性がこんな格好をするようになったかというと、明の時代、倭寇が頻繁にこの辺りの海岸を侵した。浜辺で働く女性たちが男に見間違えられるように、という。

<崇武城>(すうぶじょう)
 恵安県東南部の崇武半島にはがある。明代、1387年の建築。これも、倭寇の侵入を防ぐために造られたものである。それ以前には、福建省の辺りでは、町を城壁で囲むことはなかったという。

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《厦門》(アモイ)
 福建省の東南沿海部。台湾海峡を隔てて台湾と向かい合う。明代から貿易港として栄えた。南は航路を通じ、潮州、汕頭、香港に通じ、さらには南洋諸島に繋がった。華僑の故郷と言われる所以である。
 現在も経済特区として発展を続けている。

<廈門大学魯迅紀念館>(アモイだいが くろじんきねんかん)
 廈門市の廈門大学の集美楼にある。廈門大学に在職していた1926年9月から翌年1月までの四ヶ月、魯迅(1881〜1936)が家族とともに起居していた建物。
 1952年に廈門大学魯迅紀念室を設が設けられ、1976年10月、生誕95周年・逝去40周年・廈門大学赴任50周年を記念するために、全面的に整備して、廈門大学魯迅紀念館とした。正式に対外的に開放したのもこの時からである。
 あわせて五室からなり、一室は魯迅の旧居、残り四室は展示室として600点余りの資料と写真で、魯迅の一生を説明している。

<胡里山砲台>(こりさんほうだい)
 清の時代の砲台の跡。
 市の東南、胡里社の海浜にある。福建水師提督の彰楚漢が清の 光緒17年(1891)に着工、後任の提督の楊岐珍が引き継ぎ、同22年に完成をさせた
 泥と砂を烏樟樹の汁や石灰、濡米などでこねて築いた。
 廈門港を見下ろす高台に築かれており、現在残っているのは一門、ドイツのクルップ社製の大砲である。砲身の全長が14メートル、砲口の内径が28センチ、重量が60トンである。

<コロンス島>(鼓浪嶼)
 幅700メートル余りのコロンス峡を隔てて海に浮かぶ。面積はわずか1.84。島全体が岩で出来ている。海岸の洞壁が海風に打たれ洞穴となり、波の音がコロンコロンと響くので、コロンスいう名になったという。
 島中にブーゲンビリヤの赤紫の花が咲き乱れ、ガジュマロの木が大きく枝を広げ、「海上の楽園」の名にふさわしい。
 気候の温暖さ、風光の明媚さから、多くの別荘が建てられてきた。最初の別荘が建てられたのは1844年、イギリス人によってであった。特に、1903年南京条約で租界地になったあとは、スペイン、フランス、ドイツ、日本など、13カ国の外国人が競うように別荘を建てるようになった。小さい島に、1600軒もの別荘が建てられたという。

──日光巌(にっこうがん)
 コロンス島の最高峰。高さ90メートル。頂上は見晴らしがよく、大海原に浮かぶ大担島、二担島、主嶼、青嶼などの島々を遠望することが出来る。
 鄭成功(1624〜62)は明の滅亡後も清に降伏せず、台湾を根拠地として清軍に反抗した現代中国の所謂民族英雄であるが、ここで軍隊を駐留させ水軍の訓練をしたことがあり、当時の砦の遺構が残っている。鄭成功の母親は日本人で鄭成功は平戸で生まれた。南明の唐王から明室の姓である朱姓をあたえられたので国姓爺と称した。近松門左衛門の「国性爺合戦」の和藤内のモデルでもある。
 山麓には日光寺がある。日の出のときに朝日が境内にさしこむのが命名の由来である。

──鄭成功紀念館(ていせいこうきねんかん)
 鼓浪嘆の日光巌の北麓にある。1962年2月、鄭成功(1624〜62)による台湾奪回300周年の記念日に開館した。
 明の滅亡は1644年。鄭成功はその後もアモイ、金門を根拠に反清興明の抵抗を続ける。1658年に南京を攻撃して失敗するが、61年には当時オランダの植民地となっていた台湾を攻め、オランダ勢力の一掃に成功する。しかし、その直後、南進計画をすすめようとしていた矢先に39歳で病死した。台湾奪回とは、そのオランダとの戦いを言う。
 紀念館は七つの陳列室からなっていて、青少年時代、反清活動、オラソダとの戦いなどの鄭成功の生涯を文献、写真、図表などで紹介している。

──菽荘花園(しゅくそうかえん)
 台湾の豪商、林爾嘉が造営した庭園。清の光緒21年(1895)に日本が台湾を領有すると、林は一家春族をあげてコロンス島に移住してきた。
 岩と海を造園に取り入れた大きな構図を持つ。
 2000年には邸内に「ピアノ博物館」が出来ている。ピアノ博物館というのは、胡友義というオーストラリア在住の華僑が個人で収集した世界各国のクラシックなピアノを展示するために造られたもの。現在八十数台が展示されている。

<南普陀寺>(なんふだじ)
 アモイしの五老山の麓にある。五老山は五峰が魏然とそびえ、そこに寺が建てられたのは唐の時代である。はじめ普照寺といったが 宋、元、明と興廃をくりかえしながら清に至った。
 清の康煕年問(1662〜1722)に南普陀寺と改称、それ以来、福建省南部の仏教の聖地となる。
 現在では、前殿、大雄宝殿、大悲殿、蔵経閣などを揃える堂々とした大寺院である。
 境内には、台湾における18世紀の林爽文と荘大田の蜂起に関する乾隆帝の御製碑など、明・清時代の多くの石碑・石刻がある。

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《武夷山》(ぶいざん)
 烏龍茶と蛇と筏下りで知られる。
 烏龍岩茶は烏龍茶のなかでも特に高級品であるが、その中でも清代に大紅袍と名付けられた茶の木がある。新芽が赤いため大紅袍と名付けられたと言うが、現在、当時のもので残っているのは四本だけである。この四本の一年の生産量は350〜400グラムであるが、これには20グラムで18万元もの値が付く。

<筏下り>(いかだくだり)
 筏下りで知られる。「山は環(めぐる)六六峰(三十六峰)、渓は曲(まがる)三三水(九曲渓)」と言われる。奇山怪山の間をくねるように渓流が流れる。流れる川は、九曲渓は三保山に源を発し、全長62.8キロ。筏下りの終点である一曲で崇陽渓に流れ込み、崇陽渓はやがてビン江に注ぐ。
 筏下りは、このうちの9.5キロ、九曲から始まり一曲で終わる。早い流れ有り、深い淵有り。遠くかすむ山有り、近く迫る岩有り。仙郷と言われる幻想的な景色をたっぷりと楽しめる一時間四十五分である。
 筏は孟宗竹で組み、その上に竹で作った椅子が六つ固定されているもの。それだけに桂林の漓江下りなどとは違った、水に近い、川下りが楽しめる。

──天游峰(てんゆうほう)
 武夷山第一の景勝地。武夷山の五曲の隠屏峰の後方にあり、周りの群峰を押さえ、ひとり巍巍としてそびえている。頂上に登ると、武夷三十六峰と九曲する渓流を一望することが出来る。明代の著名な旅行家・徐霞客(1586-1641)は、「其の渓に臨まずして能く九曲の勝を尽す。此の峰もとよりまさに第一なるべし」と書き残している。

──舟棺(せんかん)
 古代の棺が幾つも絶壁の洞窟に置かれている。四曲辺りから見ることが出来る。大木をくり抜いたもので舟の形をしていることから舟棺と呼ばれるが、懸棺などとも言われる。
 炭素一四の鑑定によると3400年前のものである。
 3400年も昔に、誰が、なぜ、どのようにして絶壁に掛けるように木棺を置いたのか詳細は分かっていない。

──大王峰(だいおうほう)
 天柱峰ともいい、九曲渓の入口にそぴえる。武夷山に来て、まず目にはいるのがこの峰である。

──玉女峰(ぎょくじょほう)
 二曲の南岸にある。峰が三段になっていて形に特徴があり、武夷山のみならず福建省のシンボル的存在である。優美な姿は女性的で玉女峰の名にふさわしい。流を隔てて大王峰と相す。
 玉女峰の麓にある浴香潭は玉女が沐浴したところ、その近くにある円形の石は玉女が化粧をした鏡台。大王と玉女は相思相愛の仲であったが、両峰の間にある鉄板嶂という青黒い岩が二人の恋路を邪魔をして会うことが出来ない。ようやく、鏡台に映る姿を見合うことが出来るだけであった。こんな言い伝えが残る。

──考亭書院(こうていしょいん)
 朱熹が住み、学を講じたところ。建陽県考亭村にある。
 朱熹(1130- 1200)は南宋の儒学者。北宋の儒学の諸学説を総合し、て朱子学として大成させた。生前は時の権力者から疎まれ、講義の禁止、著書の禁書という扱いを受け、不遇のうちに71歳の生涯をおえたが、死後、儒学の正統とされ、特に元代以降は官学として採用されたため、四書尊重の風など後世に大きな影響を及ぼすことになった。
 宋学というのは、従来の儒教に飽きたらず、仏教、道教など幅広い世界観を取り入れ儒教の再解釈を図ったものであるが、その代表が朱子学である。宇宙の存在原理、道徳規範としての理と、物質、現象としての気の二元論による宇宙論・存在論、格物致知を基とした実践論を説く。
 日本には鎌倉時代に伝えられ、江戸時代に普及して、官学として封建社会の中心思想となった。藤原惺窩、林羅山、貝原益軒などが朱子学派と呼ばれる。

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《土楼》(どろう)
 福建省には「土楼」と呼ばれる独特な形の客家の住居が数多くある。客家というのは、黄河流域など北方から戦乱などを避けて移住をしてきた漢民族である。中国ではそれほど珍しい存在ではなく、孫文、ケ(トウ)小平、台湾の総統であった李登輝も客家の出身である。
 先住者などの攻撃に備え、要塞のように造られている。形は円形か方形。周りを土で固めてある。三階建てか四階建てであり、一族の数家族が一緒に暮らす。一階はそれぞれの家族の台所、二階は穀物倉庫、三階と四階が住居、こんなふうになっている。

 土楼が多く残るのは、アモイから西へ二百キロの永定県、龍岩。その途中にある船場などである。

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