<寧夏回族自治区・トンゴリ砂漠>
砂漠へ行きましょう、と中国の友人に誘われた。ラクダに揺られてトンゴリ砂漠を二泊三日行くのだという。「危険じゃないの」。「縁を行くだけですから。携帯電話だって使えますよ」。
実際に行ってみると、「縁」といってもトンゴリ砂漠。行けども行けどもただただ砂漠。唖然とする広さだ。夜は、野営をして砂漠に伏す。朝は、砂漠に昇る陽を見る。昼は、砂漠に炙られて進む。砂漠に包まれ砂漠に埋もれるようにして過ごした。
「こんなに魅力的なところだったのか」。大の砂漠ファンになって帰ってきた。
砂の丘が果てしなくうち続く。その描く曲線は美しい。官能的ですらある。その砂丘という砂丘には風紋が刻まれている。砂丘が大きな波なら、風紋はそのなかのさざ波。
そして、あの静寂。何の音もない。風の音も鳥の鳴く音も。あるのは、ラクダが砂を踏む音だけ。キュッキュッキュッと鳴る。しかし、その音も砂漠という静寂に吸い取られるように消えてゆく。その音がなければ静寂さえもないだろう。
砂に吸い取られるのは音だけではない。何時間も行くうちに、視線や思考も砂に吸い取られるような気がしてくる。砂漠に酔った、と言ったらよいだろうか。
ラクダに揺られながら、かつてシルクロードを行き交った隊商を想った。二十世紀初頭、遺跡を求めタクラマカン砂漠をさまよったヘディンや橘瑞超を想った。砂漠というのは癖になるのではないか、と。酒に酔うように砂漠に酔う。アルコール中毒になるように砂漠中毒になる。
仕事も忘れ家も忘れこのままずっと砂漠を歩き続けていたい。いつの間にか、こんな思いに駆られているのは私だけではないはずだ。砂漠は人の旅心を呼び起こす。
(中日新聞・東京新聞の2002年7月21日日曜版に掲載)