<湖南省・韶山──毛沢東の生家と唐辛子>
1966年8月18日。天安門広場は百万人の紅衛兵と大衆で埋め尽くされていた。
毛沢東がゆっくりと天安門の楼上に姿を現す。軍服を身に着け紅衛兵の腕章を巻いていた。
彼は言う、紅衛兵運動を支持する、と。革命を忘れ資本主義の道を歩む党内の実権派を打倒せよ。造反には理がある。革命を永遠に継続されよ。これが彼のメッセージであった。広場は歓呼の声で沸き返った。
これを機に、紅衛兵たちは街へ繰り出すようになる。王府井のデパートや宝石店、写真館などの看板をとり外し、東方紅、紅旗、文革などの「革命的」看板に取り替えた。教会を破壊する。鮮やかな色のスカートや旗袍を身につけた女性を見つけると、鋏で服を切り裂いた。老幹部の家に押し入り、三角帽子をかぶせ街を引回した。
運動は燎原の火の如く全国に広がり、中国じゅうが「革命的」な熱狂の坩堝のなかに呑み込まれて行く。そんな昔の話ではない。ほんの、二十数年前の出来事だ。
いま天安門広場に行っても、もちろん、革命的高揚も階級的情熱もない。三人家族が子供を真ん中にして記念写真を撮っているだけである。平和なものだ。誰もが革命家であった時代から誰もが平凡な小市民の時代になった。
湖南省の韶山と言うところに毛沢東の生家がある。
行ってみると、蓮の池の畔に土壁の農家が建っている。貧しい家ではない。夫婦の部屋をはじめ毛沢東や三人の兄弟の部屋など十三の部屋がある。国民党に没収され破壊されたものを50年代に復元したのだという。
党内の権力闘争を勝ち残り、長征に耐え、延安で軍隊を立て直し、不撓不屈の精神で国民党に挑み、ついには勝利する。1949年天安門楼上から世界に中華人民共和国の成立を宣言する。その十数年後、同じ天安門の楼上から、紅衛兵に向け、かつての同志、劉少奇やトウ小平への闘いを煽動する。波瀾万丈。
そんな一生が嘘のように、一代の英雄の生家は静かであった。
その夜、地元の友人がご馳走してくれた。
「辛いもの大丈夫ですか?」。「もちろん」。北京の四川料理で鍛えてある。
ところが、湖南料理というのは、本当に辛い。泣きたいぐらいに。パンパンに熱したフライパンに真っ赤な唐辛子をひと握り投げ込む。どの料理でも、先ず、そこから始まる。フライパンの上で、辛さが弾けて空中に飛ぶ。舌が辛いだけでない。目も喉も辛い。
「何でこんなに辛いのでしょう」。
「毛沢東は、唐辛子を食べないと革命はできない、と言いましたよ」。
湖南省は多くの革命家を輩出した。毛沢東ばかりではない。劉少奇もそうだ。彭徳懐も。友人は言う。そのことと、唐辛子の料理と関係がないはずがない、と。なるほど、これを毎日食べていれば、気も荒くなろうというものだ。
天安門を埋め尽くした何千何万という赤旗の林立が脳裏に浮かんだ。100万人の紅衛兵が100万冊の紅い『毛主席語録』を打ち振った。
それにしても、あのエネルギーは何だったのだろう。あの情熱はどこへ行ってしまったのだろう。
それも唐辛子のせい? そうではないだろう。
文革時の武闘や迫害による死者は400万人という。毛沢東に呼びかけに応じ貧しい農村へ下放していった知識青年は1600万人という。被害者の総数は一億人という。
1981年、中国共産党は、文革を「まちがいであった」、と断罪をする。それにしても、「被害者一億人」という政治運動とは何だったのか。それが「まちがっていた」とはどういうことなのか。死んだ人たちは何だったのか。
そこに費やされた膨大なエネルギー。執念。情念。無念。そして、人間というものの不可思議さ。
たまには平穏な日常を離れ、毛沢東の生家を見て、泣きたいくらいに辛い湖南料理を食べて、革命について情熱について想いを巡らすのも悪くはない。
(「トコトコ」2004年5月号に掲載)