目次
承徳
遵化
易県
保定
曲陽
正定
井ケイ県
平山
石家荘
邯鄲
趙県
臨ショウ県

===河北省===
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《承徳市》(しょうとく)
北京の北東230キロメートル、燕山山脈の一角にある。北京にも近く、また、周りを山に囲まれて夏も比較的涼しいことから、清代には夏の御所となり、避暑山荘や外八廟などの華麗な建築が建てられた。  1928年には熱河省の省都となったが、55年熱河省の廃止により河北省に編入された。

<避暑山荘>(ひしょさんそう)
 承徳離宮・熱河行宮ともいい、承徳市の市街地の北にある。
群山に抱かれ、地勢が峻険で、気候に恵まれ、清代には皇帝の避暑と政務処理の場であった。
 清の康煕42年(1703)に着工し、乾隆55年(1790)に竣工。北京の頤和園の2倍、故宮の8倍にあたる564万uの敷地に110余りの建物があり、中国の現存最大の皇帝の別荘である。周りを取り囲む城壁の長さは10qという。
 宮殿区と苑景区の2つの部分に分れ、苑景区はさらに湖沼・平原・山地の3つの部分に分れる。
 苑景区には、浙江寧波(現・浙江省寧波市)の天一閣を模した文津閣がある。かつて、『四庫全書』と『古今図書集成』を収蔵し、北京故宮の文渊閣、円明園の文源閣、瀋陽故宮の文溯閣とともに「四閣」と総称される皇室の蔵書楼であった。
 また、平原には康熙帝・乾隆帝が各民族の王公貴族や諸外国の特使を接見した万樹園があり、かつて帝が宴を催した民族色あふれるも演しを楽しんだ光景を思い描かせる。清朝が、諸民族統治のために避暑山荘が巧みに使用されていたことを示す資料でもある。
 宮殿区は、清朝の皇帝が毎年夏の数ヶ月を過ごし、政務を執ったところである。避暑山荘が夏宮と言われる所以である。避暑山荘の正門である麗正門を入り北へ向かうと正宮があり、さらに北に進むと皇帝の寝宮であった「煙波致爽」(えんはちそう)がある。広大な建物で室内には華麗な装飾が施されている。1820年に嘉慶帝はここで亡くなった。また、第2次アヘン戦争がおこると、1860年に咸豊帝がここに逃れ翌年亡くなり、その後は西太后が垂簾聴政を行った建物でもある。
 避暑山荘内には、康煕帝の定めた「康煕三十六景」と乾隆帝の定めた「乾隆三十六景」があり、各景とも四季を通じ変化に富み、山荘をとりまく外八廟とあいまって絶景をなす。

<外八廟>(がいはちびょう)
 清朝が避暑山荘の東側と北側に建立したチベット仏教寺廟の総称である。「外」とは避暑山荘の外側の意味である。当時、チベット仏教は、モンゴル族やチベット族などに深く浸透しており、チベット仏教を通じての諸民族の融和は、清朝にとって重要な政策であった。そういったことから、この地に多くのチベット寺院が建てられ、また、多くの高僧がチベットやモンゴルから招かれた。

──溥仁寺(ふにんじ)
 清の康煕52年(1713)の創建で、承徳の「外八廟」で最古の寺院。
 康煕帝が康煕52年に60歳を迎えたので、モンゴル族の多数の部族が朝賀に訪れ、寺を建てて祝った。塑像や彫刻はいずれも清代初期の優秀な工匠の傑作で、きわめて芸術性が高い。この地では初期の建物であり、中国の伝統的な様式で造られている。

──普楽寺(ふらくじ)
 清の乾隆31年(1766)の創建。
 西北の各民族と清朝政府との関係が日ましに密接になり、バルハシ湖付近にいたハザク族とパミール高原以北にいたキルギス族がたえず代表を朝見のために送ってくるので、それを迎えるためにこの寺が建てられた。  伽藍の配置は前後に分れ、前部は山門から宗印殿までで、漢族の伝統的な寺院様式をなす。宗印殿には三世仏(阿弥陀仏・釈迦牟尼仏・燃燈仏)を祀る。宗印殿の背後は闍城(壇城)で、そこは一転、チベット様式の建築になる。一番内側は旭光閣が建つ。北京の天壇の祈年殿の形を模し、柱間24間で、黄色琉璃瓦葺きの重檐で傘の形をした宝形造り。頂部は大型の円型斗八藻井で、双竜が珠に戯れ、精美な造りで金色燦然として、きわめて芸術性が高い。

──安遠廟(あんえんびょう)
 清の乾隆29年(1764)の創建。
 1955年、乾隆帝は新疆ジュンガル部に親征をし反乱を平定したが、その時に平定されたモンゴル族が承徳に移り住むことになった。そのモンゴル族の信仰ために建てられたチベット仏教寺院である。  中央に3層重檐の普渡殿が建つ。1辺柱間7間の方形で、黒色琉璃瓦葺きで、緑渡母の塑像を安置。第1層の四方の壁画は絢燗たる色彩で生きいきとしている。階上に乾隆帝の甲冑、殿前に乾隆帝筆の碑があり、満州語・漢語・モンゴル語・チベット語の文字が彫られている。

──普寧寺(ふねいじ)
八廟の中で最も北にある。大きな木彫りの仏像があるので、大仏寺ともいう。清の乾隆20年(1755)の創建。
 敷地は広大で、2万3000uに達し、漢族とチベット族の寺院様式を折衷する。漢の寺院様式の中心をなすのは、大雄宝殿で巨大な三世仏を祀る。
 また、チベット様式をもつ大乗之閣は高さ36.7m・重檐6層で、千眼千手観音菩薩の泥金立像を安置。立像は松・柏・楡・杉・木橦の寄木造りで、高さ22.23m、腰回り15m、重さ約110t。木彫りの仏像としては世界最大である。
 東西に清朝の皇帝が読経を聴いたり休んだりした妙厳室・月光殿・日光殿・講経堂などもある。高閣がそびえ、塔台が並び、松柏が天をつき、眺めはきわめてよい。

──普佑寺址(ふゆうじし)
 普寧寺の東側にあったが、1964年に落雷のために焼失してしまった。

──須弥福寿之廟(しゅみふくじゅしびょう)
普陀宗乗之廟の東側にある。八廟中最も遅い清の乾隆45年(1780)に創建。「須弥福寺」とは「タシルンボ」の漢語訳。(タシ=福寿、ルンポ=須弥・山)敷地は3万7900uで、漢族とチベット族の特徴を折衷した独特の様式。
 乾隆帝の70歳の誕生日を祝うため、パンチェン6世が朝見に訪れ、すこぶる厚遇され、当廟を宿舎とした。漢族とチベット族の様式をもつ大伽藍群である。

──普陀宗乗之廟(ふだそうじょうしびょう)
須弥福寿之廟の西にある。清の乾隆36年(1771)の創建。「普陀宗乗」とはチベット語の「ポタラ」の漢語訳なので、小布達拉宮ともいう。
 乾隆帝の60歳(乾隆35年)と皇太后の80歳(乾隆36年)の誕生日を祝うさい、各民族の王公貴族をもてたすために建てたもの。乾隆32年(1767)に着工し、4年余りの歳月をかけ、チベットの拉薩の布達拉宮を模して建てた。外八廟のうちで最大である。
 伽藍の配置は地勢を利用し、建物があちこちに点在し、南から北へだんだん高くなり、きわめて変化に富む。殿閣楼台が雑然と建ち並ぶが、当寺の中心をなす大紅台は雄大で、高さ42.5m間口柱間59.7mもあり、天空を凌ぐ感がある。

──殊像寺(じゅぞうじ)
 普陀宗乗之廟の西にある。  清の乾隆39年(1774)の創建。
 乾隆帝が乾隆26年(1761)に皇太后の70歳の誕生日を祝って五台山を訪れた。五台山は文殊師利の道場で、文殊の化身と伝える殊像寺があり、同寺の文殊の塑像が荘厳な法相をしていたので、乾隆39年にまた承徳の避暑山荘の北測に当寺を建てた。
 漢族の寺院様式で、主殿は天王殿の北側の35段の基壇に建つのが会乗殿で、文殊・観音・普賢の3菩薩像を安置。

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《遵化県》(じゅんか)
 北京の東、125キロ。清朝は歴代の陵墓を北京の東西二カ所に造った。その東の陵墓、すなわち東陵があるのが遵化県である。一方、西のそれは西陵と呼ばれ、易県にある。

<清東陵>(しんとうりょう)
 遵化県の馬蘭峪にある。広大な丘陵地帯に清朝の帝室の陵墓が点在する。ここに葬られているのは、順治帝(孝陵)・康熙帝(景陵)・乾隆帝(裕陵)・咸豊帝(定陵)・同治帝(恵陵)の5人の皇帝、西太后、東太后をはじめとする14人の皇后、136人の妃嬪が葬られている。
 創設は康煕2年(1663)。昌瑞山を中心に南北約125q、東西20qの広さを誇る。

──孝陵(こうりょう)
 東陵の中心にある。清の初代皇帝・愛新覚羅福臨(順治帝)の陵墓。順治帝は満州族の入関(山海関をへて中原へ進出)後の最初の皇帝であり、孝陵は東陵の最初の陵墓で、その中心をなす。昌瑞山の主峰の南麓に位置し、両側に康煕・乾隆らの帝・后の陵墓が並ぶ。
 陵園の入口は大紅門、それをくぐると、赤壁が連なり、厳粛典雅である。ついで聖徳神功碑楼、石像生、竜鳳門、神(墓)道石橋、神(墓)道碑亭、東西の朝房、東西の値房、隆恩門、隆恩殿、東西の配殿、三座門、二柱門、石五供、方城の明楼、宝城の宝頂と並び、宝頂の下が地下宮殿で、霊枢を安置する。この一連の建造物の間を幅12m・長さ5q余りの磚・石敷きの墓道が貫く。そのほかに更衣殿・焚帛炉(死者に捧げる帛を焼く炉)や供物を作る神厨庫などもある。隆恩門の後ろが塀をめぐらした陵院で、一面に松柏を植えた築山が両側にある。建造物のひさしには彩色の装飾を施し、屋根と塀の頂部は黄色琉璃瓦で葺かれ、雄大である。

──裕陵(ゆうりょう)
 孝陵の西側にある。清の高宗愛新覚羅弘暦(乾隆帝)の陵墓。乾隆帝は第三代の皇帝である。
 墓道がすべての建造物を貫くとともに、孝陵の主墓道に連なる。石彫の翁仲・麟麟・獅子・馬・象など8対が墓道の両側に並ぶ。いずれも造型が優美で、姿態が生きいきとしている。
 奥に進むと、他の帝陵と同じように牌楼・神道碑亭・隆恩門・隆恩殿・方城明楼などを配す。地下宮殿は奥行柱間54m・のべ床面積337uで、すべて石造りのアーチヴォールト構造。明堂・穿堂・金堂の3つの堂からなり、それぞれ長方形をなし、全体で「主」の字形をなす。石造りの出入口が4か所あって、8枚の門扉は菩薩の立像のレリーフを施されている。この地下宮殿の規模は、明の十三陵の定陵に匹敵すると言われる。

──定東陵(ていとうりょう)
 有名な西太后は、第9代の咸豊帝の皇后。もう一人の皇后である東太后と一緒に定東陵に葬られている。西太后の墓の壁面の透かし彫りには金箔が施され豪華絢爛であり、彼女の権勢をしのばせる。

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《易県》(えきけん)
 北京の南西へ120キロ。清西陵と戦国時代の燕国の副都の遺跡で知られる。また、秦の始皇帝を暗殺せんと、荊軻が西に旅立った地でもある。「風蕭々として易水寒し」。その易水が流れる。

<清西陵>(しんせいりょう)
 易県の県城の西15q、北京の西南120q余り、永寧山の山麓にある。清朝の皇室の陵墓群のひとつ。周囲に群山が連なり、地勢が険しい。西に紫荊関、南に易水、風水に恵まれまさに陵墓の地としてふさわしい。また、易水を隔てて狼牙山と相対し、東に燕下都遺跡がある。
 清朝はまず遵化県(河北省)馬蘭峪に陵(東陵)を造営したが、雍正8年(1730)に永寧山の山麓の太平峪を陵墓の地に選定し、翌9年、泰陵(雍正帝とその后妃の陵墓)の造営を始めた。
 乾隆年間(1736〜95)に「父子一地不葬」(父と子を同じ場所に葬らない)の制度を定め、東西両陵に交互に分葬することとして以来、清朝の皇室の陵墓は東陵と西陵に分れることになった。
 帝陵が泰陵(雍正帝)・昌陵(嘉慶帝)・慕陵(道光帝)・崇陵(光緒帝)のあわせて4つ、后陵が泰東陵・昌西陵・慕東陵のあわせて3つ、妃陵が3つ、王公・公主の園寝(墓)が4つ、合計14の陵墓に76人を葬る。建造面積は延50万uの広さに達する。
 中心をなすのは永寧山の山麓の中央に位置する泰陵で、その東西に他の陵が点在する形になっている。陵墓は明代の様式を継いでおり、建物の屋根の瑠璃瓦は、皇帝・皇后が黄色、妃・公主(皇族の娘)は緑色に葺き分けられている。

──泰陵(たいりょう)
 西陵の中心をなす雍正帝の陵墓。孝敬皇后・敦粛皇貴妃も合葬されている。雍正8年(1730)に着工、乾隆2年(1737)に竣工。
 雍正帝は即位するとただちに大臣らに陵墓の地を選定させ、初めは東陵の九鳳朝陽山と定めたが、のちに易県の県城の西、永寧山の山麓に改めた。西陵の最初にして最大の陵園。
 前方に精美高大な石牌坊が3つ並び、幅10m余り、長さ2.5qの墓道が貫通し、大紅門をはいると具服殿、その奥に高さ30mの聖徳神功碑亭がある。刻まれている文字は、満州文字と漢字である。
 さらに進んで橋を渡ると、西側に翁仲(墓前に建てる石像)・石獅子・石象などが並ぶ。いずれも精細な彫り。さらに進むと蜘蛛山という小山があり、その裏が竜鳳門。四壁三門で、壁は琉璃の雲竜と草花で飾る。門内に神道(墓道)碑亭・神厨・神庫・井亭があり、東西の朝房(控室)の正面が隆恩門で、左右に焚帛炉が1つずつ、奥に東西の配殿があり、東殿は祝版(祭文を記すもの)の置場、西殿はラマ僧の読経所であった。
 正殿の隆恩殿はその奥にあり、殿内の中央の柱、頂部、梁桁は金色や極彩色に彩られ、その色彩の調和はよすばらしい。隆恩殿の後ろに三座門・二柱門・石五供・方城・明楼と並び、宝城に通じる広い道があり、宝城の上に宝頂、下に地下宮殿がある。雍正13年(1735)に亡くなった雍正帝を、乾隆2年(1737)3月に皇后・貴妃とともに葬った。

──慕陵(ぼりょう)
 泰陵の西5q、西陵でもっとも西にある。道光12〜16年(1832〜26)に造営され、道光帝と孝穆・孝慎・孝全の3后を葬る。道光帝の陵墓はもと東陵の宝華峪に7年の歳月をかけて造られ、竣工後に孝穆皇后を葬ったが、翌年地下宮殿に浸水したため、道光12年に西陵の竜泉峪に造りなおすことになったもの。
 規模は小さく、大碑楼・石像生・明楼などはないが、堅固精細な造りが印象に残る。特に特徴的なのは龍のレリーフ。殿内の藻井・舟肘木・母屋桁・扉・窓に数千尾の雲竜と幡竜を彫り、竜頭に透彫り、竜身と雲文に深浅両相のレリーフを使い、変化に富む。俗に、東陵の地下宮殿が浸水をしたのは龍の群れが水を吹いたためであると考え、東陵においては、楠に龍を彫り、龍を天に昇らせるよう道光帝が工匠に命じたので、隆恩殿の彫物は独特の様式をしているという。
 竣工ののち、まず孝穆ら3人の皇后を葬り、咸豊2年(1852)に道光帝の改葬を行った。

──崇陵(すうりょう)
 泰陵の東北5qにある。西陵でもっとも新しく、清の宣統元年(1909)から1915年にかけて造営し、光緒帝と孝定皇后を合葬する。
 着工当初、清朝が辛亥革命(1911年)でくつがえされたため、工事は一時中断し、退位後清朝皇室経費から費用を捻出してやっと完成させたので、規模が小さく、大碑楼や石像生などがない。桐材と鉄材を使い、俗に「桐梁鉄柱」ともいう。銀松や犬槙の木立に囲まれ、周囲に広大な果樹園がひろがり、景色はよい。造営年代が新しいだけに、梁枋の絵画はいまなお新しく、金色燦然と輝く。

──崇妃園寝(すうひえんしん)
 崇陵の東側にある。光緒帝の崇妃・珍妃・瑾妃の墓。1912〜15年に造営。
 珍妃と瑾妃はタタラ氏の同腹の姉妹で、満州紅旗の出身である。珍妃(1876〜1900)は政治に関心を寄せ、清朝の主権喪失・国威失墜・政治腐敗に不満を抱き、光緒帝の変法維新を支持したため、西太后に排斥され、光緒26年(1900)に8か国連合軍に北京が占領され、西太后が光緒帝を連れて西安に逃亡するさい、西太后の命を受けた宦官によって八角琉璃井(珍妃井)に投げ込まれて殺された。遺骸は翌年取り出されて西直門外の畑に葬られたが、1915年にここに改葬された。

<燕下都遺跡>(えんかといせき)
 易県(えきけん)の県城の東南、北易水と中易水の間にある。燕(戦国七雄のひとつ。前323〜前222。秦滅ばされる)が南方の拠点として紀元前4世紀に建設したの副都のひとつ。
 東西約8q、南北約4qの長方形で、中央を運糧河の古い河道が南北に横断し、流れの東岸沿いに隔壁が走り、東西両城に二分する。西城は東城の安全強化のために築いた防御的な付城で、居住と活動の中心をなす東城は、周囲18.5qの凸形をなし、南は中易水、北は北易水、東西はそれぞれ古河道と城濠に臨み、四面を水に囲まれていた。
 遺跡の分布情況から、東城は宮殿区・工房区・居住区・墓区・古河道の5地区に分けられる。
 宮殿区は東北部にあり、武陽台の東北(小平台)・東南(路家台)・西南(老爺廟台)の3か所に分布する3組の建築群からなる。工房区は宮殿区をめぐる西北から東南に至る弧線上に分布し、居住区は西南部・中部・東部・東北部にあり、墓区は西北隅に設けられ、九女台と虚糧冢の2つの墓地がある。
 近年の調査と出土した遺跡・遺物からみて、築城年代は戦国時代中期の昭王の時代(前312〜前279)を下らず、燕の南方における重要な門戸で、軍事上の要衝でもあった。
 燕の太子丹が荊軻(?〜前227)を送り出したのも、燕の中興の祖昭王が黄金台を築いて天下の賢士を招いたのも当地であった。歴代の文人墨客に当地を詠じた詩がきわめて多い。なかでも名高いのは、荊軻が始皇帝暗殺のために咸陽へ旅立つときに歌ったという詩である。「風蕭々として易水寒し 壮士ひとたび発ってまたかえらず」。

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《保定市》(ほてい)
河北省の中部にある。人口45万。面積46ku。1958年までは河北省の省都であった。北京からは京広線の特快で一時間五十分。

<古蓮花池>(これんかち)  保定市の中心部にある。元の時代、当時名将の誉れ高かった汝南王張柔(1190〜1268)が開削。当初、雪香園と名付けられたが、蓮の花が咲き誇るので蓮花池ともいった。
 金代の詩人元好問(1190〜1257)が訪れ、「荷?は繍の如く、水禽は上下に飛鳴し、君は遊人と其れ楽しみて去る能わず」ということばを残している。
 明の万暦年問(1573〜1620)に大規模な拡張が行われ、建物の配置を調整し、完壁なものとし、水鑑公署と改称し、高官や貴族の行楽・宴飲の場とした。
 清の雍正11年(1733)に西北に蓮池書院が設けられ、のちに行宮となり、乾隆帝・嘉慶帝・西太后らの河北巡幸のさいに使われ、乾隆帝だけでも6回も訪れた。そのため、規模がだんだん大きくなり、ますます美しくなり、畿内第一の景勝を誇った。濯錦亭・寒緑軒・藻咏庁など「蓮池十二景」があり、総面積2万4000u余り、そのうち池が7900u余り。池の中央に臨?亭、周囲に景勝を配し、配置が厳整で、亭台楼閣と曲径回廊、建物と庭園が一体となっている。

<大慈閣>(だいじかく)
 保定市の中心部にある。
 南向きで、前方に間口柱間3間の門、東西に間口柱間3間の鐘楼・鼓楼と回廊があり、前に石段が付いていて基壇をへて登ることができる。通高31mで布瓦葺きの三重檐入母屋造り。
 元代の将軍・汝南王張柔の創建で、清の康煕年問に改修、乾隆年間に焼失して再建、真覚禅寺と改称。石造りの基壇は高さ20mで、大理石造りの欄干をめぐらし、巍峨として気迫がみなぎる。
 雄大な外観で、数十里さきからもみえたとされ、むかしの詩人が、「燕市の珠楼 樹梢に看、祇園の金閣 碧雲の端」と詠じ、「畿南上谷八景」のひとつにあげられている。

<満城漢墓>(まんじょうかんぼ)  満城県の県城西南約1.5q、陵山の主峰の東斜面にある。
 前漢の中山靖王劉勝とその妻竇綰の墓。劉勝の墓の北側に竇綰の墓があり,ともに東向き。山を穿って陵とし、岩肌沿いに墓を造り、宮殿建築を模した配置をなし、玄室が大きく、副葬品が豪華奢侈で地下宮殿を形成。
 劉勝の墓は全長51.7m、幅は最大37.5m、高さは最大6.8m容積2700立法mで、羨道・車馬房(南耳室)・庫房(北耳室)・前堂(中室)・後室からなる。
 前堂は瓦葺き・木造りにして雄大華麗で、墓主が生前に宴会を催した大ホールを象徴。後室は石門・門道・主室・側室に分れ、主室は内寝を象徴し、漢白玉石製の棺台を置いてその上に棺椁をのせていた。主室の南側の小さな側室は洗面所を象徴し、墓内は排水系統を完備。羨道は栗石でふさがれたのち、出入口の外側に版築の壁が二重に築かれ、壁の間に溶銑を注いで密封していた。
 竇墓は劉墓とだいたい同じ大きさであるが、副葬品に武器が殆どなく、生活用品が多く、女性らしい愛玩すべき細緻なものが多い。
 ふたつの墓からは金・銀・銅・鉄・玉・石・陶・漆造りの副葬品をはじめ、絹織物・銀鳥篆壷・医学用金製針などあわせて1万点余りが出土。そのうち、高さ48pの長信宮灯は、全体に鍍金がなされ、宮女がひざまずいて灯火をかかげる形で、灯光の明るさと方向を調節でき、使用中に生ずる煙と灰は胴体内で処理でき、また分解して洗うこともでき、65字の銘文が彫られている。
 鑞金博山炉は香炉の1種で高さ26p、金線で精致な装飾を施し、香料を入れて燃やせば、薫煙が蓋にある多数の小さな穴からたちのぼり、部屋中にたちこめる。蓋が高く尖り、群れが折り重なる形に鋳て、海中の博山を象徴しているので、博山炉といい、入念な造りは他にあまり例をみない。
 墓主の2組の完全な形の金縷玉衣(古代に貴人の死体を包むために使った衣装)は内外に名をはせた重大な発見で、玉片を金糸で連ねたもの。劉のものは長さ1.88mで、2498枚の玉片と約1100gの金糸を使い、頭・上衣・ずぼん・手袋・靴の5つの部分に分れる。竇のものは長さ1.72mで、2160枚の玉片と約600gの金糸を使い、構造は同じである。
 長信宮灯、金縷玉衣などの出土品は石家荘にある河北省博物館に所蔵されている。

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《曲陽県》(きょくよう)
太行山の東麓にある。宋代五大名窯の一つに数えられる「定窯(ていよう)」のあったところとして名高い。定窯の白磁は高度に洗練され、宮廷にも数多く納められたという。

<北岳廟>(ほくがくびょう)
 旧称を北岳安天王聖帝廟、略称を北岳真君廟といい、曲陽県の県城にある。  北魏の宣武帝のときの創建で、北岳(山西省東北部の恒山)を祭る。 規模が広大で、南から北へ神門・御香亭・凌霄門・三山門・飛石殿・徳寧之殿などが並ぶ。
 中心をなす徳寧之殿は琉璃瓦葺き・重檐四柱。周囲の漢白玉石の手すり、その柱頭の獅子、窓の連子の磚彫はいずれも元代のもので、精巧で真に迫る。殿内に大きな壁画があり、東西両壁は高さ8m、幅18mの「天宮図」で、図中の人物の高さは3mに達する。西壁のもっとも高いところに描かれている飛天の神は、顔つきが凶暴、頬ひげともみあげが連なり、勇ましくて力強く、矛を携え、非凡な気迫を感じさせる。唐代の呉道子(?〜792)の直筆と伝えるが、実際には元代に唐代の技法を模して描いたものらしい。
 隋代末期に竇建徳(1573〜1621)が農民軍を率いて曲陽に進駐したが、軍の規律が厳正で人心を得たので、峰起軍を記念して徳寧之殿を竇王殿と呼んだと伝える。廟内に北斉・唐・元・明・清各代の碑碣が137枚あり、そのうち大魏王府君碑は康有為(1858〜1927)の編纂した『広芸舟双楫』で「神品」と評され、拓本がきわめて多い。そのほか、宋代の韓g(1008〜75)、元代の趙孟?(1254〜1322)、明の洪武帝朱元璋らの碑も芸術的価値を有する。

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《正定県》(せいてい)
北京の南、260キロ。石家荘市からは北へ15キロ。四、五世紀以来長らく中国北方の政治、軍事、経済、文化の中心であり、保定、北京と合わせて「北方三雄鎮」と言われてきた。それだけに、特色のある名勝古跡が数多くある。三国志の英雄「趙雲」の故郷として知られる。現在は石家荘市に属する。

<隆興寺>(りゅうこうじ) 正定県の旧城にある。隋の開皇6年(586)の創建で、初めは竜蔵寺といったが、宋代初期に竜興寺、清の康煕年間に現在名に改称。銅鋳の大仏で知られ、大仏寺ともいう。
 境内に保存されている建物、彫塑、壁画、書などはいずれも逸品で、まさに宋代の文化芸術を集大成した宝庫だと言っていい。
 伽藍は約5万uで、主要な堂宇は南北の中軸線上に配され、3路の単孔石橋から北へ、天王殿・大覚六師殿(現存するのは遺構のみ)・摩尼殿・戒壇・慈氏閣・転輪蔵閣・康煕御碑亭・乾隆御碑亭・大悲閣・弥陀殿が並ぶ。そのうち、天王殿・摩尼殿・転輪蔵閣・慈氏閣は宋代の様式と特徴を留める。
 摩尼殿は中国現存の古代建築にあまり例をみない特殊な様式で、宋代の泥塑仏像を5体安置し、後壁に明代の彩色背座観音像がかかる。 新中国成立後、同じ県内にあった崇因寺の明代に建てた毘蘆殿と殿内に安置していた多層銅鋳仏像を当寺の後方に移し、石家荘地区で発見された碑碣・造像・墓志なども当寺に集められているものが多い。

──大悲閣(だいひかく)
 仏香閣・天寧閣ともいい、隆興寺の中心をなす堂宇の1つ。高さ33mの5檐3層、間口柱間7間、奥行柱間5間、緑色琉璃瓦葺きの入母屋造りで、荘厳重厚端正な外形。
 北宋の開宝4年(971)大悲閣が建立され、銅鋳の大悲菩薩像を安置した。慈悲に満ちた表情の菩薩像。この菩薩像を安置していることから大悲閣と呼ばれている。高さ22m余りで、高さ2.2m余りの石造りの須弥壇に鎮座する。中国現存の銅像のなかでもっとも高いもののひとつである。
 臂が42本あるので、千手千眼観音ともいう。胴が繊細で長く、バランスがよく、衣紋がなめらかで、とりわけ腰部がすばらしい。宋代の様式の特徴が色濃くにじみ出ている。この仏像と滄州の鉄獅子・定州の塔(開元寺塔)・趙州の大石橋が「河北四宝」と呼ばれている。
 3階まで登れる階段があり、正定古城の絶景を一望できる。むかしから詩によく取り上げられ、元代の詩人薩都刺(1300年〜1348年)は、「眼中に楼閣見ること稀なるべし、鉄鳳楼檐にありて勢飛ばんと欲す。天半の宝花飄りて道を閉ざし、月中の桂子僧衣を落す。玉露を高くフげるは仙人の掌、銀河の上を礙げるは織女の機。全超堂堂として遺物在り、山川の良きこと是なるも昔人は非なり」と詠じている。

──摩尼殿(まにでん)
 北宋の皇祐4年(1052)の創建。平面は十字型で、間口柱間7間、奥行柱間7間の重檐入母屋造り。
 その「平面は十字型」という造りは、独特であり、現代の建築界でも高く評価されている。一般の仏殿は正方形や長方形を呈しているのに対し、方形殿の四面の真中にそれぞれ一つずつ部屋が設けられているという構造になっている。屋根も多様性があり、赤い壁に緑の瓦、漢白玉の階段、ひさしに施された様々な装飾と、荘厳で秀麗な出来映えである。
 四方の壁に明の成化年間の西方勝境・四十八願・二十四諸天など仏教説話に材をとった絵を描き、中央の台座に泥塑仏像を5体安置しているが、そのうち釈迦牟尼・阿難・迦葉の3体は宋代のもの。背後の南壁にある須弥山の壁塑は精緻である。
 明代の彩塑観音像もあるが、頭に宝冠をいただき、肩に要塔瓢帯をかげ、胸と膏をはだけ、きわめて円潤豊満である。一方の足で蓮を踏み、他方の足を曲げ、両手で膝をなで、落ちつきのある顔つき、端正良雅な姿勢で生きいきとして真に迫る。芸術品としても一級品である。

<開元寺>(かいげんじ)
 正定県の旧城にある。須弥塔で知られる。県誌と寺内にかつてあった碑刻の記事によると、東魏の興和2年(540)の創建で、唐の乾寧5年(898)に再建し、代々改修を重ねたが、現存するのは鐘楼と須弥塔のみ。
 鐘楼は間口柱間3間・奥行柱間3間の正方形で、高さ14m。二階建ての楼閣式建築。青瓦葺きの入母屋造りで、磚と木からなり、建坪135u。古朴な様式で、唐代建築の特徴を具える。2階に銅鐘があり、高さ2.9m・口径1.56mで澄んだ音色を出す。  須弥塔は磚塔煉瓦造り。9層の密檐塔で、高さは48m。最下層に円形の出入口があるが、登ることはできない。第2層以上はいずれも小窓がある。明・清両代に改修を重ねたが、なお唐代の様式を留める。

<広恵寺華塔>(こうえじかとう)
 多宝塔ともいい、正定県の旧城の生民街の東側にある。唐の貞元年間の創建で、金・明・清代に改修。高さ40.5m、独特の造型で、構造が変化に富む。
 塔の第一層は八角形で、もとは4つの正面に俗に小塔という六角の亭のような単層の付属があった。各正面と套室の外側に円形アーチ形の出入口があり、斗?は独特の配置をなす。
 第二層は正八角形をなし、各面の間口は柱間3間で、回り縁と斗?をもつ。各面の中央の柱間は出入口、両側の柱間は方形格子の飾り窓と長方尖形の煉瓦造仏龕である。  第三層の高欄ははなはだ大きいが、塔身はきわめて小さく、四方は方形の出入口と斜め連子の飾り窓がある。第三層以上は八角錐形をなし、八面八角の垂線に虎・豹・獅子・象・竜・仏像などの浮彫りを施した壁塑で、排列が錯綜し、もともと彩色の絵があったが、いまは剥落した。座の八隅には力士がいて支える。壁塑部分からさらに上は八角形の屋根があり、上は塔刹であったが、今はすでにない。
 もとは広恵寺の堂宇で、この塔があったので広恵寺は華塔寺ともいった。清の乾降帝が何度も参拝に訪れ、塔に臨んで風景を楽しみ、「妙光演教」という題額をかいている。

<臨済寺>(りんざいじ)
 臨済宗の発祥の地。東魏の興和2年(西暦540年)の建立。 晩唐時代の住職、義玄がここで臨済宗を始めた。九階建て、高さ33mの青塔が境内にある。

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《平山県》(へいざん)
「県誌」には、五台、太行の両山を経て、ここに至ると平坦になるために平山と呼んだと記されている。

<西柏坡>(せいはくは)
 1948〜49年の中共中央の所在地。平山県内、太行山東麓の柏披嶺の下、石家荘市から90q余りのところにある。
 毛沢東(1893〜1976)・劉少奇(1905〜69)・周恩来(1896〜1976)・朱徳(1886〜1976)・董必武(1886〜1975)らの旧居、人民解放軍総司令部や中国共産党第7期中央委員会第2回総会(1949年3月5〜13日)会場などの建物がある。
 1947年春、解放戦争の進展にもとづいて、劉少奇・朱徳・董必武らからなる中共工作委員会がまず当地にやって来て、中国共産党全国土地会議(1947年9月)を開催し、「中国土地法大綱」を採択し(9月13日)、公布した(10月10日)。1948年5月、毛沢東・周恩来らと中央直属機関が西北の戦場から黄河を渡り、中共中央工作委員会と合流し、政治局9月会議・政治局拡大会議、そして有名な第7期中央委員会第2回総会を開催するとともに、内外を震憾させた遼瀋・准海・平津の3大戦役の作戦を練り、指揮をとった。1949年に北平(北京)を解放すると、中共中央と解放軍総司令部は北京に移った。
1958年、崗南ダムを築いたため、旧址は水没した。1971年に旧址 の北方にほぼ原状どおりに復元。

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(せいけい)
太行八徑(太行山脈を越える八本の要道)の第五徑にあたり、秦、漢以来軍事上の重要地となっている。

<福慶寺>(ふくけいじ)
 石家荘の東北約70kmにある。
 寺の建物はすべて山の斜面に沿ってぐるりと張り付くように配置されており、山深い峡谷に架けられた石製のアーチ橋の上に立てられている特異な造り。
 蒼岩山上に隋の煬帝の長女南陽公主が出家して尼になったと伝える。一説に隋の文帝の娘妙陽公主の修業の地ともいう。
 群峰が連なり、断崖絶壁が折り重なり、柏の老木が天をつき、樹木が生い茂り、建物の多くは老木に覆われている。麓から谷沿いに山にはいると、奇岩怪石が折り重なり、白檀が生い茂り、むき出しの木の根が岩石にからまり、盆景をみるような奇景を呈す。
 山門をくぐると石段。石段は360段で、一段登るごとに雲間に入っていく感じがする。山門に「殿前に灯無く月照に憑り、山門は銷さず雲の封ずるを待つ」という対聯がある。門前は絶壁と対峙し、南北方向に単孔アーチ石橋が架かり、その上に橋楼殿が建つ。上を仰ぎ見ても、絶壁にはさまれて線のように細い青空がみえるだけ。「千丈の虻橋 望めば徴に入り、天光の雲彩 楼と共に飛ぶ」とその奇景をたたえた詩がある。山上にはほかに蒼山書院・万仙堂・峰回軒・蔵経楼・公主祠などや、「岩関鎖翠」・「風泉漱玉」・「陰崖石乳」・「山腰綺柏」・「峭壁嵌珠」・「尚書古碣」・「炉峰タ照」・「竅開別天」・「空谷鳥声」など16景がある。由緒ある禅房、小道のあちこちにある碑碣,瀑布から飛び散る泉水が人々を引きつける、「五岳の奇秀 一山に撹め、太行の群峰 唯だ蒼岩のみ」と名声を博す。

──南陽公主祠(なんようこうしゅし)
 福慶寺の主要な堂宇のひとつ。東向きで、翠壁百丈に相対す。間口柱間3間、奥行柱間1間で、単檐入母屋造りで、黄緑色琉璃瓦葺き。軒先にはすべて風鐸を吊るし、谷底から吹き上げる風に悠揚たる響きを聞かせる。
 祠内に仏龕が3つあり、公主の塑像が安置されている。その両側に楽伎の立像があり、楽器を手にして演奏する表情が自然で、きわめて神秘的な形象である。側面の壁に公主の修身得道・済世救人の説話を彩りゆたかに描く。仏龕の背後の北側にある洞は公主の寝殿で、公主の木製の側身臥像を安置。祠の南に高さ約10m・八角5層の磚塔がある。基壇が高く、各層の軒の隅部分から木角梁が突き出ており、明代末期の作。

──橋楼殿(きょうろうでん)
 福慶寺の本殿。長さ15m、幅9m、地上52mの単孔アーチ石橋の上に建つ。橋は365個の石を積んで造られているいう。
 石橋は断崖の間に架かり、長い虹のようで、雲を吹き飛ばす感じがする。橋の下に300段余りの石段があり、その石段を登れば橋楼殿に達する。
 間口柱間5間、奥行柱間3間で、側柱の外は廊を廻らした重檐入母屋造り。黄緑色の琉璃瓦葺きで、金色燦然と輝く。屋根は傾斜が緩やかで、軒先がはね上っているが、柔和かつ自然で、清代初期の建築の特徴をそなえる。周囲は緑の山が折り重なり雲霧がたちこめ、のびやかな気分になる

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《石家荘市》(せっかそう)
 河北省の省都。北京からは特快でも高速道路でも約三時間。

<河北省博物館>(かほくしょうはくぶつかん)
 石家荘市内にある。展示面積1万uを有する省博物館。
 河北省を中心に古代から近現代まで幅広く歴史文物と美術作品が収蔵されているが、その中でも平山県の中山王墓と満城県の前漢中山靖王劉勝墓からの出土品が素晴らしい。
 双方に共通して見られる美しい象嵌の施された青銅器や満城漢墓出土のの金縷玉衣などは逸品である。

<毘盧寺>(びろじ)
 石家荘市郊外の上京村にある。
『方輿匯編』などの文献と境内に現存する碑碣によると、唐の天宝年間(742〜756)の創建。釈迦殿と毘盧殿のみ現存。
 釈迦殿は間口柱間3間、奥行柱間2間、切妻造りで、前に巻棚がある。釈迦坐像を1体安置し、四面の壁に仏教説話に材をとった絵を描く。
 正殿にあたる毘盧殿は釈迦像の背後の高さ1mの基壇に建ち、間口柱間3間、奥行柱間2間で、前後に抱厦があり、前のは奥行柱間1間、後ろのは中央の柱間より小さく、全体で十字形をなす。大棟の西端に竜の頭と鳳鳳の巻尾をもつ鴟尾があり、その他に走獣が並び、旗竿が建つ。軒の出が深く、屋根は傾斜が緩やかなので、外観はのびやかな感じを有す。きわめて特殊な様式で、俗に五花八角殿という。元の至正2年(1342)の再建。殿内に毘盧遮那仏の塑像、その両側に香花菩薩の石刻像を安置し、壁に護法金剛像を2つ、背面に大きな背座観音像を描く。四面の壁には2段に分けて天国・地獄・人間・羅漢・菩薩・城隍土地・帝王后妃・忠臣良将・賢婦烈女など、仏教・儒教・道教の各種の人物説話を500余り描き、いずれの絵にも題字があり、瀟洒流麗な筆法、華麗な配色で、瀝粉によって金をもりあげ、熟達した技法。芸術性が高く評価されている。

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《邯鄲市》(かんたん)
 戦国時代の雄、趙の国の都として栄えた。最も隆盛を極めたのは「胡服騎射」の軍事訓練で知られる武霊王の時代。「胡服」とは袖筒の北方民族の衣装、「騎射」とは馬に乗りながら矢を射ること。ともに匈奴などの北方民族の習慣である。『史記』に「趙の武霊王も、習俗を変え蛮族の服装を採用して騎馬の射術を訓練させ、北に向かって林胡と楼煩をうち破り、長城を築いた」と書かれる。
 また、邯鄲は秦の始皇帝ゆかりの地でもある。始皇帝の父親は子楚。子楚は秦が趙に差し出した人質として、邯鄲に居た。その時生まれたのが政、後の始皇帝である。
 中国に古い町は多いが、数千年来その名を変えずに現代にいたっている町というのは少ない。その少ない町のひとつが邯鄲。
 それだけに多くの故事熟語に「邯鄲」の名が残る。「邯鄲の夢」「邯鄲の歩み」など。

<趙王城跡>(ちょうおうじょうあと)
 邯鄲市にある。『春秋穀梁伝』(嚢王27年(前625))にあるのが「邯鄲」という地名の初見。まず衛に属し、ついで晋、戦国時代には趙に属す。幽穆王遷の8年(前228)に秦に占領されるまで、8代あわせて158年間、趙の都城であった。漢代の5大都市のひとつ。
 発掘調査によれば、邯鄲故城は趙王城と大北城からなる。趙王城の旧址は市の中心都から西南約4qに位置し、東・西・北の3城に分れ、「品」字形をなす。総面積512万uで、北は渚河に臨み、太行山の余脈を背にし、高さ3〜8mの版築の城壁が蜿蜒と起伏し、雄大である。城内は竜台・北将台・南将台など版築の土台がきわめて厳正に配され、地中にかなり広範囲にわたって版築の基壇が残る。もっとも大きいのは竜台で、東西265m、南北285m、高さ19mで、中心をなした宮殿の遺構。これら版築の土台と基壇によって、中国の封建社会初期の都市建築の様相が明らかになった。大北城の大部分は現在邯鄲市の下になっている。

<武霊叢台>(ぶれいそうだい)
邯鄲市内にある。戦国時代に趙の武霊王が軍事操練と歌舞の観閲のために築造。
 台名の初見は『漢書』高后記で、高后元年(187)の「夏五月丙申、趙王宮叢台災ゆ」とある。顔師古(581〜645)の注に「聚を連ねて一に非ず。故に叢台と名づく。蓋し本もと六国の時の趙王の故台ならん。邯鄲城中に在り」とある。
 歴史的に有名で、題詩もきわめて多い。台の前方、緑したたる柏の木立のなかに小径が通じ、台に登る石段がある。入口の壁に「?水東漸、紫気西来」の大きな8字をはめこみ、台に登ると東に?陽河、西に紫山が望める。台は高さ7m、東西59m、南北22mで、南側に幅10m、長さ50mの突出しがある。
 東側にある如意軒は、漢の高祖9年(前198)に趙王如意を記念して建てたもの。北側に武霊館ともいう趙王宮、西側に回瀾亭、東側に門楼があり、門楼をはいって階段沿いに南側に登っていくと台頂に達する。台頂は直径19m、高さ13mの円形の平坦地で、もと武霊台といった。明の嘉靖13年(1534)に台上に拠勝亭を建てた。古城を一望すれば、楼閣園林・湖光山色がことごとく目にはいる。台の西方にある小さな湖の湖心に望諸樹がある。戦国時代の燕の将軍楽毅が(趙に逃れて)封じられた望諸君に由来する。東北方の七賢祠に藺相如(趙の名臣)・廉頗(趙の名将)など趙の先賢を祭る。

<黄梁夢 呂仙祠>(こうりょうむ ろせんし)
 呂翁祠ともいい、邯鄲市の市街北方10qにある。「黄梁夢」の故事は、唐代の沈既済(約750〜800)の小説『枕中記』に由来する。
 盧生が邯鄲の旅館で道士の呂翁に出会い、長い貧乏暮らしと志を得ないのを嘆き、金をもうけて榮耀栄華を極めたいというと、呂翁が青磁の枕を与えて、この枕を使えばなんでも思いどおりになるといった。ちょうどそのとき、旅館では黄梁(粟)のめしをたいていた。盧生がその枕をして寝ると夢をみた。故郷の山東省に帰り、美しい崔という妻をめとり、のちに科挙にも合格し、監察御史となり、浮沈と曲折をへて中書令(宰相)に任ぜられ、燕国公に封ぜられ、5人の子どもはみな官界入りし、名望のある一族と結婚し、孫も十数人生まれ、50年余りで位人臣を極め、80歳を越して病床に身を横たえ――が、そこで寝返りを打って目がさめた。呂翁が傍らで徴笑しており、黄梁のめしはまだたけていない。盧生は悟りを得て、呂翁とともに旅館を後にした。広く日本人にも知られる故事である。
 祠の創建年代は不明であるが、県志には金代の元好問(1190〜1257)の題詩がのっている。敷地は1万3000u余りで、西側の祠門をはいると、八仙楼閣が目にはいる。南側に「蓮莱仙境」という大きな字のある影壁、北側に丹房・蓮池があり、池に橋が架かり、橋の中央に八角亭が建ち、さらに北に進むと三大殿に至る。前に鍾離殿、両側に鐘楼と鼓楼があり、中央が呂祖殿で、前方に拝殿、テラスの東西に配殿がある。後殿が盧生殿で、左右に回廊、殿前に碑碣がある。殿内の盧生の石彫の臥像は寝台とともに大きな青石を彫りあげたもので、寝台は高さ2尺・長さ5尺で、盧生は方形の枕をして横たわり、両足をやや曲げ、きりっとひきしまった顔つきで目をうすく閉じ、悠然たる表情をしている。北壁に黄梁夢の故事が描かれている。

<響堂山石窟>(きょうどうざんせっくつ)
 邯鄲市峰峰鉱区にある。洞内で袖を振ると銅鑼や太鼓のような音が響くといういわれがある。
 南北2つの石窟からなり、南響堂は西紙坊の鼓山の南麓、北響堂は和村西方の鼓山の山腹にあり、15qほど離れているが、ともに窟内の優美な石彫で内外に知られる。
 史料によると、北斉代の創建。北斉朝の政治の中心は?都(現・臨?県)と晋陽(現・山西省太原市)であったが、当地は両都の往来の途上に位置し、山紫水明であったので、文宣帝高洋が別荘を造営し、石窟を穿ち寺を建てた。のちに、隋・唐・宋・元・明代に拡張・改修された。
 南北あわせて石窟が16、大小の仏像が1400体余りあり、幽玄で、配置もすぐれ、石像も造形がすぐれ、飛禽・走獣は生きいきとしてほんものそっくり。付属の建物も規模が大きく、殿閣・亭楼が山肌沿いにひろがり、下から上へ層をなし、混然一体となっており、広大壮観で、中国の建築・彫刻・書法・絵画の貴重な遺産である。

──北響堂山石窟(ほくきょうどうざんせっくつ)
 邯鄲市峰峰鉱区和村の西方、鼓山の山腹にある。地勢が険しく断崖絶壁が多い。石窟は絶壁に穿たれ、南・北・中央の3組に分れ、それぞれに大洞が1つあり、大業洞・刻経洞・二仏洞・釈迦洞・嘉靖洞・大仏洞など、あわせて9洞からなる。中央の石窟の外側には2層の軒が彫られ、外観は2階建ての楼閣にそっくりである。窟内は整然華麗で、草花と珍禽異獣のレリーフが施され、仏像がきわめて多く、古朴な様式。
 大仏洞は幅13.3m、奥行12.5m。基壇上の坐仏像は高さが4mちかくあり、端荘渾厚・肌肉豊溝・線条柔和・神気秀逸。顔面はなんの装飾も施されず、1000年以上も風や日の侵蝕にさらされながら、彫ったばかりのように円潤光潔である。
 刻経洞の内外の壁面にはぎっしり経文が彫られ、傍らに北斉の天統4年(568)から武平3年(572)にかけて唐?が維摩詰など4部の経典を書写した経過を記した碑が建つ。隷書の大字で、筆鋒犀利・剛勁挺拔である。山上に東西の天宮、山麓に常楽寺の遺構があり、後者には宋代と金代の石幢が残る。傍らの古塔は八角9層で、第7層に「皇祐6年(1054)重修」と彫った石碑をはめこむ。

──南響堂山石窟(なんきょうどうざんせっくつ)
 石窟は山肌沿いに穿たれ、上下両層に分れ、上層に5つ、下層に2つ、華厳洞・般若洞・空洞・阿弥陀洞・釈迦洞・力士洞・千仏洞のあわせて7つの洞があり、最大のものは問口・奥行とも6.3m。仏像は千差万別でみごとな造型を呈す。
 千仏洞の壁面は仏像がところ狭しと彫られ、あわせて1028体ある。洞頂に飛天のレリーフがあり、琵琶を弾いたり、笙管を吹いたりして、飄帯揺曳にして精緻典雅である。また、いくつかの石窟にある華厳経(華厳洞)・般若経(般若洞)・妙法蓮華経(阿弥陀洞)・無量義経・維摩詰所説経(ともに刻経洞)などの仏教経典の石刻もみごとである。石窟の傍らに正殿・配殿をはじめ、山肌沿いの楼閣、八角形の磚塔などがある。

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《趙県》(ちょうけん)
<趙州陀羅尼経幢>(ちょうしゅうだらにきょうどう) 俗に石塔といい、趙県の旧城にある。もともと開元寺の堂塔の1つであったが、同寺は廃滅し、この経幢のみ現存。北宋の景祐5年(1038)に地元出身の王徳成が建立。 高さ18mの7層で、中国現存の石幢でもっとも高い。 八角形で、方形の基壇に建ち、基壇の腰羽目部分に「門を閉じる婦人」の図案、四隅に強健かつ美麗な金剛力士像を彫り、基壇の上に八角形で羽目板のある須弥壇がのり、周囲に伎楽・神仏・菩薩・蟠竜・蓮華などを彫る。 経幢の第1〜3層には陀羅尼経、他の各層に仏教にまつわる人物や説話・故事などの浮き彫りが施され、極めて装飾性に富む。幢頂は銅製の火焔宝珠を用い、輸郭は荘厳清秀で、宋代の造型芸術の高さを示す。

<安済橋>(あんさいきょう)
 石家荘の南東38キロの趙県にあるアーチ型の石橋。趙県はかつて趙州といったので趙州橋ともいい、地元では俗に大石橋という。隋代大業年間(590〜608年)の架設で、すでに1400年掛かっていることになる。
 単孔アーチ石橋で、長さ50.82m、幅9.6m、28本の独立したアーチを綴り合せて、スパンが大きく、橋面は水平にちかい。両端の肩の部分にそれぞれ小アーチが2つずつある。橋台に近いほうのスパンは3.81m、内側のほうは2.85m。水かさが増したときの水流の衝撃力を少なくするとともに、大アーチと橋台にかかる荷重を減じ、橋の美しさを引き立て、世界の橋梁史上でもきわめて偉大な成果のひとつと言える。この形式の橋がヨーロッパで建設されるのは、その後700年もの時が経ってからであり、美しさの点でも、技術の高さの点でも、古代の橋のなかでずば抜けた存在である。
 河北四大名勝のひとつに数えられている。

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(りんしょう)
三国時代、魏の曹操が都をおいたのがこの地であった。それだけに魏に関わる遺跡が多い。

(ぎょうじょういせき)
 臨ショウ県の県城西南約15qにある。有名な古城遺跡で、南北両城に分れる。
 北城は春秋時代の斉桓公のときに造営されたと伝える。曹操(155〜220)が後漢代末期に袁紹(?〜202)に敗れてから都城とし、金鳳・銅雀・冰井の3台を築き、城内に宮殿・衙署・苑囿などを設ける。十六国の時代には、後趙(319〜351)・冉魏(350〜352)・後燕(1384〜1407)の国都となり、後趙の建武帝石虎が宮室を造ったときには、塀に上等の石、柱に金、高欄に銀、簾に珠、壁に玉を使い、銅雀台の東北に宮殿を9つ建てて九華宮と命名し、男女の民夫を16万人、車を1万輛徴発して華林苑を造ったと伝える。
 それらの大半は北朝末期の戦乱に焼かれ明代の洪水のため廃滅し、銅雀・金鳳両台の遺構が現存するのみ。長年にわたる調査で城址の規模が明らかになり、遺物が大量に出土し、中国の古代都市研究に貴重な手がかりを提供している。

──銅雀台(どうじゃくだい)  曹操が築いた「三台」のひと1つ。
 後漢の建安15年(210)に曹操(155〜220)が子の曹丕、のちの魏の文帝(187〜2226)を登らせて賦を作らせたところ、「飛閣崛として其れ特り起り、層楼儼として以て天を承く」という句をつくった。
 後趙の建武帝石虎が5階建て・高さ50mの楼を建て、飛んでいるかのように翼をひろげた高さ5mの銅雀を屋根にすえつけ、井戸を2つ掘り、その間に命子窟という鉄梁の地下道を掘り、珍宝と食品を貯えた。
 北斉の天保年(550〜559)に工匠を30万人徴発して「三台」の大改修を行い、元代末期に台上に永寧寺を建てたが、明代末期に台の大半が河の洪水で破壊され、残骸のみ現存。実測によると、南北60m、東西20m、高さ5m。「三台」は内外に名をはせ、代々の名士の題詠も多く、『臨ショウ県志』だけでも65篇の詩文を収録。

──金鳳台(きんぽうだい)
 もと金虎台といい、曹操が築いた「三台」のひとつ。90mほど北にある銅雀台とはかつて浮橋式の閣道で結ばれ、冰井・銅雀両台と通じ、3つの台が一体となり、335間の殿宇が建っていた。
 後趙の建武帝石虎が台頂に金製の鳳鳳をすえつけて金鳳台と改称し、北斉の天保7年(556)に3つの台に大規模な宮殿を造り、聖台と改称。元代には台上に洞霄宮があった。
 あいつぐ氾濫で破壊され、残骸のみ現存。実測によると、南北122m、東西70m、高さ12m。

──―冰井台(ひょうせいだい)
 曹操が築いた「三台」のひとつ。台上に氷を貯蔵する井戸があった。
 後漢の建安19年(214)に曹操がギョウ城の西壁の北部に城壁を基礎に築いたもので、90mほど南に銅雀台があり、3つの台は閣道で結ばれ、一体となっていた。高さ26m余りで、台上に3つの氷室を設け、それぞれ深さ50m余りの井戸を掘り、氷塊・石炭・食糧・食塩などを貯蔵した。後趙の建武帝石虎は氷を貯えておき、夏に群臣に分け与えた。後趙・冉魏・後燕代に大改修が行われ、北斉の天保年間(550〜559)に民夫30万人を動員して3つの台の大改修を行い、冰井台を崇光台と改称。北宋代にはいぜん魏による創建時の鉄梁が残っていたとういう記録が残っている。

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