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《天津市》(てんしん) 中国4直轄市のうちの一つ(他は北京、上海、重慶)。略称を津といい、華北平原の東北部に位置し、東は渤海に臨む。 春秋戦国時代には小さな漁村にすぎなかったが、隋代に大運河が造営されると、海上輸送と河川輸送の中継点となり、穀倉地帯である江南の食糧を北京へ運ぶための役割を担い、明・清時代を通じて大きく発展をした。 明の建文元年(1399)に燕王朱棣(のちの永楽帝)が北京で挙兵し、この地で黄河を渡り、南下して政権を奪敢すると、「天子の渡った津」の意をとって天津と命名するとともに、永楽2年(1404)に天后宮の西南数十mのところに築城した。現在の南開区の東西南北の4本の馬路(大通り)こそ、その天津古城の城壁の跡である。 第2次アヘン戦争(1956〜60)により、1858年に天津条約、1860年に北京条約が結ばれると、列強諸国は、北京に近いこと、良港を持つことに目をつけ、天津の開港を迫った。その結果、9カ国の租界地をもつ植民都市となった。今も当時の洋館の町並みが残る。 <天津旧租界>(てんしんきゅうそかい) 天津旧城の西から西南へ広がる。 北京への海の玄関口として、早くから列強の注目を集めていた天津に租界ができたのは、第2次アヘン戦争直後の1860年で、最初にイギリス、続いてアメリカ・フランスが租界を獲得した。 その後、日清戦争後ドイツ・日本が、義和団事変後にロシア・ベルギー・イタリア・オーストリアが獲得し、天津には9カ国の租界が存在した。 9カ国もの租界が存在したのは中国では天津だけで、1949年の消滅まで、天津は波乱の時代を経験した。 今でも旧租界地域を歩くと、過日の面影をとどめる石造り・煉瓦造りの建物を見ることができる。 <天津市芸術博物館>(てんしんしげいじゅつはくぶつかん) 解放北路77号にあり、1958年開館。歴代の美術品2万点以上を収蔵・展示する美術館。 歴代書画、歴代工芸品、民間芸術品の三部門から構成される。陶磁器・青銅器・玉器・印璽・書画・美術用品など歴史的に重要な芸術品、現代作家の書画・纂刻・工芸品、更には、泥人形彩塑・楊柳青年画・天津木彫・天津磚彫など地方色濃厚な民芸品を大量に収集しているのが特徴。 <天主教教堂>(てんしゅきょうきょうどう) 和平区浜江道独山路にある。建物は、1914年建立の天主教総堂と、1917年建立の大教堂の2つに分かれる。 大教堂はロマネスク様式を模し、正面に高さ45m、その両側に丈の低い2つの、合計3つの塔楼がそびえ、それぞれ碧緑色のドーム状の頂部をもっている。 文化大革命中から愛国天主教会として国内に限定された宗教活動を続け、現在も天津天主教会の中心となっている。 <清真大寺>(せいしんだいじ) 天津旧城の西北角にある。清の康煕42年(1703)の創建で、保存状態はよい。中国の宮殿建築風のイスラム教寺院(モスク)である。 影壁・門庁・礼拝殿・アホン講堂・耳房・沐浴室などからなる。 中心をなす礼拝殿は東向きで、4組の堂宇が隣接しあい、前のものは巻棚式の抱厦で、後ろは2組の寄棟造りの大殿で、一つの屋根に六角と八角の亭式楼閣が5つ聳え、両側に回廊をめぐらした堂宇がいちばん後ろにある。 南北両側に、「望月」の2字を彫った扁額を揚げた月を観測するための望月楼と、「喧時」の2文字を彫った扁額を掲げた礼拝の時刻を知らせる喧時楼がある。礼拝の場である。 屋根・扉・窓の装飾は、どの磚彫・木彫にも草花か幾何文様を使い、偶像や動物の文様は使わないというイスラム教の戒律を厳守する一方、中国の木造建築の様式をも取り入れている。 現在は、非信者の参観は認められていない。 <三条石歴史博物館>(さんじょうせきれきしはくぶつかん) 天津旧城の北、子牙河河畔の三条石地区にある。 三条石は天津市の民需用工業の発祥地で、70〜80年まえに冶金・鋳鉄・機械製造業が相次いで興り、天津における工業の勃興と発展に大きな影響を与えた。その中でも、福聚興機器廠は1926年の創業で、600u余りの敷地で形削盤・揚水機・金剛砂をはじめ、搾油機・綿打機・綿繰機など20種余りの機器をつくり、河北・河南・山東・山西などに売りさばいた。最盛時には40人余りの従業員のほかに、見習工を大量に雇い入れ、就業時問を延ばすとともに、労働密度をあげ、22年間で資本金を110倍にも増やした。原始的な作業場と機械設備、四方に窓のある独特の帳場はいずれも往時のもので、現存する唯一の三条石機械製造業の遺跡である。現在は歴史博物館の一部となっていて、当時の工場の様子や労働者の暮らしぶりがよくわかるように保存されている。 <天后宮>(てんこうぐう) 天妃宮・娘娘宮ともいい、天津旧城の東北角、南北両運河と海河が含流する三叉河口の西岸にある。 創建は元代初期で、明・清両代に改修・増築を行う。大殿・配殿・鐘楼・鼓楼・山門・旗竿などが現存。 「天后」は航海の安全を守るという伝説中の女神。元代の南糧北調(南方の食糧の北方への輸送)では、当地が海上輸送と河川輸送の中継点をなしたので、泰定3年(1326)に勅命で天后宮を創建し、航海の安全を願った。「暁日の三叉口、檣を連ねて万艘を集む」や「一日糧船 直沽に到り、呉罌越布 街衢に満つ」などは、当時、江南の物資が陸続と運ばれてくる様子を示し天津の繁栄ぶりを詠じたものである。 海祭りの中心をなし、船大工の集会・娯楽の場でもあり、盛大な祭祀や儀式が行われただけでなく、女神に奉納する興行がいつも行われた。天后の誕生日と伝えられる旧暦3月23日に皇会が開かれ、民俗芸能が夜を撤してくりひろげられ、見物客がどっと押し寄せる。この廟に通ずる道が「古文化街」として、清代の商店街を再現しており、特色のある手工芸品を売る店が軒を並べる。 <古文化街>(こぶんかがい) 天后宮に南北に伸びた門前町。街の造りは北京の瑠璃廠を思わせ、売っているものは上海の豫園を思わせる。道の長さは500メートル。楊柳青の年画や泥人形の専門店もあり、ひやかしているだけでも十分に楽しめる。 <呂祖堂>(ろそどう) 呂祖とは呂洞濱のこと。呂洞濱とは、道教で言う八大仙人のひとり。不老不死を達成したとされる。 紅橋区如意庵大街何家胡同18号にある。清代に呂洞賓の塑像を祭った道教寺院。康煕58年(1719)の創建で、乾隆・道光年間に改修。山門・前殿・後殿・五仙堂からなる。 光緒26年(1900)に天津で義和団運動が起ると、乾字団の首領曹福田が団民を率いて当地に総壇口(義和団の基礎的な単位である壇口を地区ごとにまとめて統括するもの)を設けた。張徳成・劉呈祥や「紅灯照」の首領林黒児などもいつもやって来て拝壇・協議を行い、8か国連合軍(義和団鎮圧のために出兵)を迎撃する戦いを指導・指揮した。完全な形で現存する義和団総壇口の1つ。 <南開大学>(なんかいだいがく) 南開区衛津路にある。1919年、教育家の厳範孫と張伯苓が創立。周恩来もかつてここで学び、学生運動を指導した学校として全国に知られる(当時の名は南開中学)。 現在は世界各国の大学や研究機関と交流する総合大学となっている。 また、周恩来が学んだ当時の南開中学のあった地には周恩来トウ頴超記念館が建てられている。 <天津市歴史博物館>(てんしんしれきしはくぶつかん) 河東区光華路にあり、1952年の開館。 天津地方の古代史・近代史・革命史の3部門を基本とし、収蔵品は約10万点である。 古代史部門の原始社会の陳列では、郊外で発見された新石器時代の遺物、奴隷社会の陳列では同じく郊外で発掘された大量の土器・青銅器・石器・骨角器が注目される。 近代史部門では、1859年英仏連合軍に抗戦した大砲や1870年の「天津教案事件(望海楼教堂で誘拐された児童が殺され、憤激した民衆が教堂とフランス領事館を焼き討ちした)」、1900年の義和団事変などの大量の資料があり、民衆の帝国主義侵略や封建専制に対する闘争の跡を見ることができる。 革命史部門では、中国共産党指導下での民衆の闘争と陳潭秋・蔡和森・周恩来・劉少奇・彭真らの天津での業績を陳列する。李大サが1913年編集長を務めた『言治』と天津法政専門学校在学中に書いた論文・詩歌30篇余り、周恩来が南開大学で編集に加わった『校風』『敬業』と五・四運動の時に編集した『天津学生連合会報』、逮捕後書いた『警庁拘留記』と大量の書簡は、収蔵図書10万冊のうちでも最も貴重な資料である。 また、近代人物蝋人形館では、日清戦争や日露戦争など日本と天津の歴史的な関わりがわかりやすく展示されている。 <天津港>(てんしんこう) 元・明以降、北京が首都となってから漕運の中心的な役割を担っていたが、19世紀になり列強の侵略が始まると、新たな展開をみせることとなる。 この地が国際的に重要港となってきたのは、1860年北京条約締結以後、天津税関が列強の支配下に置かれ、輸出入品目が多岐にわたるようになってからである。 また、1860年ごろから李鴻章に代表されるような洋務派官僚があらわれると、軍需工場を主とした各種工場が設立され、近代的なドックが作られ、港湾施設の充実が年々図られた。 第一次世界大戦の時にすでに天津は華北の外国貿易の中心で、1930年代にピークを迎え、全国の4分の1の貿易総額を誇った。 <天津新港>(てんしんしんこう) 天津市から東へ60km、海河が渤海湾に注ぐ河口にある。 1939年、日本軍が中心になって建設を進めたが、1945年までに5隻分の岸壁が完成しただけだった。その後、中華人民共和国成立後から1985年までに、倉庫・貨物置場・鉄道・道路などの港湾設備が拡充され、華北第一の貿易港になっている。 国際航路としては、神戸および韓国・仁川との間に定期便が就航している。 <大沽口砲台>(だいここうほうだい) 市街地の東南60q、海河の河口にある。 「津門の屏」といわれ、北京にはいる水路の喉もとを押え、北方の海防の要害であった大沽口に構築された砲台跡。要塞は明代に築造され、清の咸豊8年(1858)に改修。 それぞれ威・鎮・海・門・高と命名された大砲台が5つあり、周囲に堀を掘り、周壁をめぐらし、木棚を設け、各砲台に大砲を3つずつすえ、後壁の営門に小砲台を25設置した。 第二次アヘン戦争(1856〜60)と光緒26年(1900)の八カ国連合軍の侵攻の際、清朝将兵と義和団の戦士が連合国軍を迎え撃ち激しい攻防戦を行った。光緒27年に清朝政府が八カ国と辛丑条約(北京議定書)を締結し、大沽口炮台と北京から海上に至る通行の障害になる砲台の撤去が定められ、取り壊された。 南岸の「海」砲台だけはいまたお保存され、近代における中国の反侵略戦争の重要な記念物とされている。 砲台は渤海の海に臨み、洋上はるかかなたまでながめることができる。 <独楽寺>(どくらくじ) 唐時代の創建によるという古刹。大仏寺ともいい、薊県の県城西門内にある。一説に,西北部に独楽水があるのにちなむという。また、安禄山(?〜757)が当寺で挙兵して唐朝に叛旗をひるがえし(755〜763年の安史の乱)、独楽を思い民との同楽を考えなかったことに由来するともいう。 中心をなす山門と観音閣はともに遼の統和2年(984)の再建で、中国古代の代表的木造建築。山門は寄棟造りで、軒の出は深く、ゆるやかなカーブをなす。現存最古の山門。 最も有名なのは観音閣。外観は2階建てであるが実際は3階建てで、高さは23m。梁と柱の接合のため位置と機能の相異なる24種類の斗?が使われていて、そのずばぬけた手法で有名。度重なる地震にもかかわらずいまなお巍然としてそびえる現存する中国最古の木造高層建築。 安置されている観音立像は頭部に小さな仏頭が10個あるので十一面観音という。高さ16mで、中国最大の泥塑像の1つ。両側の脇侍の菩薩像は山門内の天王像とともに遼代の彩色塑像の珍品。階下の四周には十六羅漢立像と3頭6臂・4臂の明王像をテーマとする彩色の壁画が描かれ、その間に山林雲水や俗世を題材とするものもあり、明代の作品。 |