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重慶市
培陵
万州(万県)

===重慶===
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《重慶市》(じゅうけいし)

 1997年に、それまでは四川省の中のひとつの市であったが、培陵や万県などを併せ、四つ目の直轄市になった。他の三つの直轄市は、北京、上海、天津。
 重慶は秦漢以来巴の国と呼ばれてきた。成都を中心とする蜀と併せて四川一帯を「巴蜀」と呼び慣わしてきた。
 長江と嘉陵江が合流する港町。
 長江は全長6300キロだが、河口から重慶までは2500キロ。
 豊かな平野と水に恵まれた穀倉地帯の蜀とは逆に、「山城」と言われるように山に囲まれ、同時に長江によって湖北や江南とも繋がる自然環境のなかで独特の文化を生み出してきた。
 日中戦争時代、日本軍が上海、南京、武漢と侵攻するなかで、蒋介石は首都機能を南京から武漢を経て重慶に移し、抗戦を続けた。それに対して、日本軍は武漢、宜昌の飛行場から爆撃を繰り返した。今でも当時の、日本の爆撃に備えた防空壕が多く残る。

<朝天門>(ちょうてんもん)
 港。重慶は、長江と嘉陵江に挟まれた半島状の丘陵地帯に開けた町だが、朝天門はその半島の先端、長江と嘉陵江がぶつかる所にある。
 重慶は、長江を上り下りする大型船の終着点。上海から長江を遡り三峡を経て上ってくる船の終点でもあり、また、長江を下り三峡を経て上海に向かう船の出発点でもる。その港が朝天門。
 標高は160メートル。市内からは、百段を超える石段を降りて船着き場に向かう。

<鵝嶺公園>(がれいこうえん)
 市内で最も高い所。標高は490メートルである。頂上に楼閣が建つ。楼閣の名は、瞰勝楼。登ると嘉陵江と市内が展望できる。
 日中戦争時代の蒋介石の住居もここに置かれていた。蒋介石は四つの家を持っていたが市内にあったのはここだけという。地下には地下壕の施設もある。

<枇杷山公園>(びわざんこうえん)
 かつては全山が枇杷の木で埋まっていたことから名付けられた。以前は軍閥・王氏の私宅であったことから王園と呼ばれていた。
 山頂からは、南に長江を、北に嘉陵江を望む。重慶は「山城」と呼ばれるように山が多い町であるが、枇杷山公園からみる夜景は美しい。
 山の中腹には重慶市博物館がある。長江を母として独特の文化を育んできた巴の人々の歴史が、陶器や船棺として展示されている。

<紅岩革命記念館>(こうがんかくめいきねんかん)
 中国共産党の中央南方局と八路軍の重慶弁事処の址を記念館にした。
 日中戦争の勃発は1937年7月7日。国民党が臨時首都を重慶に移したのは同年9月。38年には武漢の陥落。そういう緊迫した情勢の中で、38年、八路軍は重慶に弁事処を設置。周恩来、董必武、葉剣英、トウ穎超らがやってきた。
 国共合作のなかであったが、国民党は周囲に警察や特務機関の施設を配置し、厳重な監視体制を敷いた。

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《培陵》(ふりょう)
 四川盆地を流れ、長江に注ぐ四大支流と言えば、岷江、沱江、嘉陵江、烏江である(四川の名は、長江、岷江、沱江、嘉陵江の四つの河があることによるという)。長江と四つの支流が交わる地点には、それぞれ、港があり都会がある。
 培陵は、烏江が長江に注ぐ地点にある町である。
 四川盆地は北が高く南が低い。そのため、河は北から長江に注ぐ。したがって町も、長江の北岸に広がっているのだが、烏江だけは南から長江に注ぐ。そのため、培陵の町は、長江の南岸にある。

<白鶴梁石魚>(はくかくりょうせきぎょ)
 培陵市から長江を遡ること一キロの地点にある。一筋の細い岩礁が流れに沿って1.6キロほど延びている。幅は10メートル。
 古来より、水量を測る目安として利用されてきた。
 岩礁には、幾つもの魚の絵が刻まれている。唐代764年から刻まれてきたとされる。地元では「石魚が水から出ればその年は豊作」などと言い伝えられている。
 魚の他、石には石魚が現れた日付や水位を刻んだ記録や詩文も刻まれている。

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《万州(万県)》(ばんしゅう)

 古来より、物資の集散地として重要な港であった。今でも、港の周りにはさまざま雑多な商品の卸売問屋が軒を連ね港町独特の賑わいがある。以前は万県といったが、重慶市が直轄市となりそれに組み入れられてからは万州となった。
 杜甫の詩に、「衆水会培万、瞿塘争一門」とある。あまたの水は培陵、万県に会し、瞿塘の一門を争う。長江は、培陵万県の上流で四川盆地の岷江、沱江、嘉陵江、烏江の流れを集め、争うように、瞿塘峡の狭き一門になだれ込んでゆく。
 実際、万県を過ぎると周りの景観は一変する。長江は、水を集め蕩々とした水量を擁する流れとなるが、山勢は次第に差し迫り、奉節を過ぎると前面に巫山の山脈が行く手をふさぐ。奔騰する流れと大三脈。両者の相譲らぬ戦いが三峡の流れとなる。

<石宝寨>(せきほうさい)
 忠県と万州の中間にある。ともに40〜50キロの距離。平地に高さ50メートルの岩山が突き出ている。玉印山という。その玉印山に建つのが石宝寨。船の航行の安全を祈念して建てられた。創建は明代。現在残るのは清代の再建。
 山門と楼閣と古刹からなる。山門は煉瓦造り。上に「小蓬莱」と書かれている。楼閣は十二層。山頂には寺院があり、そこからは悠然と流れる長江が一望できる。
 岩山の下は門前町になっているが、新三峡ダムの貯水にしたがい、一部は水没する運命にある。

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