《蘭州》(らんしゅう)
甘粛省の省都。黄河上流域に開けた町。漢代には金城と呼ばれた。武帝の西域経営の拠点として開かれた。河西回廊という。シルクロードの黄河以西の地域を指す。シルクロードの東端をなす東西交通の要地で、古来、漢民族と遊牧民族の争奪の焦点であったが、その東の始まりが蘭州である。
東西の文明が交差をしたところであり、漢民族と西域の異民族が出会った町でもある。
唐の時代、三蔵法師玄奘がインドへの途上、黄河を渡ったのもこの地である。文成公主がチベット王に嫁ぐ途上、青海湖へ向かう道筋で通ったのもこの地である。元の時代、マルコポーロが大都(北京)へ目指し、東へ東へと向かった途上通った町でもある。
町は、黄河に沿って両岸に長く延びる。東西35キロ、南北5キロ、という。
<甘粛省博物館>(かんしょうはくぶつかん)
蘭州西駅の近く、七里河区にある。大楼は中央が5階、両翼が3階。後方が大展示場、さらにその後ろが円形の講演ホールで、のべ床面積が2万平方メートルとかなり大きい。
収蔵品は八万点に及ぶ。多くは考古発掘品で新石器時代の彩色陶器、前漢の銅・木器、魏晋隋唐の時代の仏教石刻、西夏の文字などである。
嘉峪関で出土した魏晋時代の壁画墓が移築されている。発掘された六基のうち一基を移送し復元展示している。農耕、牧畜、養蚕、狩猟などの墓主が過ごした日常が描かれていて興味深い。
もうひとつ見逃せないのが、武威の雷台の漢墓から出土した「馬踏飛燕」と名付けられた青銅の馬である。躍動感溢れる造形は、二千年を経た今も見るものを惹きつける。その他、シルクロードの歴史を凝縮したような貴重な文物が多い。
<白塔山>(はくとうざん)
黄河の北岸、中山橋を渡ったところにある。標高1700メートル。市街が一望でき、かつては軍事上の要衝であった。黄河の流れを見るにも、最も適した場所である。この辺りはまだ上流域、青みを帯びた青年期の黄河が、若いなりにも悠々と流れる様は、頼もしくもあり微笑ましくもある。
山頂には、山の名の由来となった白塔がそびえる。七層、八角、高さ17メートル。創建は元代。チベットからチンギス・ハーンに遣わされたチベット僧がここで病死をしたためその供養に建てられたという。上部は中国様式、下部はインド様式の混交。
<黄河鉄橋>(こうがてっきょう)
蘭州市の白塔山の麓にある。長さ240メートル。
漢の古くから河西回廊の要衝で、戦役であれ隊商であれ、シルクロードを通る者にとってはの必経の地であった。厳冬期には黄河が結氷して厚さ数尺にも達するため、車馬はその上を渡ることができるので、前漢代以
後は氷橋と言われた。のちに明代になると、大きな船を28艘連ねて浮橋とし、その上を渡ったとある。それを鎮遠橋と呼んだ。春になると架設し、冬になると撤去した。
ここに、鉄橋が架けられたのは、清代の1907年、ドイツの「泰来洋行」が請け負って完成させた。黄河に架かる初めての鉄橋であった。
1942年、孫文(中山)を記念して、中山橋と呼ばれるようになった。
1954年に大幅な補強工事が加えられている。今では黄河に架かる橋の数は増えたが、素朴な美しさを持つ橋である。
<五泉山>(ごせんざん)
蘭州市の南部、皋蘭山の北麓にある。海抜1600メートル。甘露、掬月、、摸子、恵、蒙の5泉があるので五泉山という。
武帝の時代、霍去病が匈奴との戦いで西征した際、ここに至ったが士卒は渇きに苦しんでいた。その時、霍去病が鞭で地面を打つと泉が湧き出てきたという物語が残る。
中心をなす建造物は明の洪武5年(1372)創建の崇慶寺。金代の1202年鋳造の鉄鐘がある。高さ3メートル、径2メートル、重さ5トン。銘文に「仙聞かぱ喜を生じ、鬼聞かぱ凶を停む。地獄を撃破し、苦を救うこと無窮」とある。
<雁灘>(がんたん)
蘭州市の市街の北東部。もとは黄河に浮ぶ十八の砂洲で、大雁が棲息していた。1958年に周囲20キロ及ぶ環状の土の堤防とアスファルトの舗装路を築き公園とした。
<羊の皮の筏>
「羊皮筏子」という。内蒙古でもチベットでも見られる光景であるが、羊の皮でつくった筏で河を渡る。ここで見ると、黄河の大きさと筏の頼りなさの対照が印象的である。
町の中心では、観光用に浮かべている「羊皮筏子」もある。
<炳霊寺石窟>(へいれいじせっくつ)
蘭州市の南西100キロ。黄河北岸の積石山に彫られた石窟群である。実際に行くには、蘭州から南西75キロの地点にある永靖県から船に乗り劉家峡ダムから黄河を遡って行く。
「炳霊」とはチベット語、千仏・十万仏という意味。西秦時代(385〜431)から北魏、隋、唐、明、清代にかけ、千六百年にわたり彫られてきた。シルクロードを行くには、ここから烏鞘嶺などの険しい嶺嶺を越えて行かねばならない。旅の安全を祈り仏像を刻む。あるいは逆に、シルクロードの長旅を終え、安全を感謝する。古来、こうして石像を刻まれてきた。
南北の絶壁に長さ2キロ、上下4層にわたって石窟と造像が彫られている。その数、石像が694体、泥塑像が82体、壁画がのべ900メートル。
炳霊寺のシンボル的存在は第171窟の摩涯大仏。彫られたのは803年。高さ27メートル。上半身は石彫、下半身は石芯塑造で、歴代の修復を経ながらも唐の時代のゆったりとした作風を今に残している。岩を削った桟道を進んでゆくと壮大な絵巻物の中にはいってゆくような不思議な気分になる。
また、船に乗り黄河を遡って行くときの、両岸に岩岩がそそり立つ風景もすばらしい。
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《夏河》(かか)
大夏河の上流にあたる。青海省に隣接。ラプロン寺によって知られる。蘭州からは黄河を越え、大草原を越えて西南へ五時間。
<ラプロン寺>
チベット仏教ゲルク派の六大寺院のひとつ。他の五つは、ラサのガンデン寺、デフン寺、セラ寺、シガツェのタシルンボ寺、西寧のタール寺。
清の康煕48年(1709)の創建。敷地面積は80万平方メートル。外周3.5キロ。そこに、大伽藍が建ち並ぶ。弥勒仏殿、釈迦牟尼仏殿、大経堂等々。いずれも、屋根は金色か朱色の瓦で輝き、壁や塀は赤色と黄色で塗られている。きわめて壮観である。
大経堂では、かつては、毎朝3000人の僧が読経をしていた。付設の台所には大釜が五つ並んでいる。ひとつで千人分のお茶を沸かせるという。現在でも、11名の活仏、700名の僧を擁している。
また、ラブロン寺は、チベット仏教学の殿堂としても名高い。仏教理論、天文、医学、芸術などを学ぶ六大学院を境内に付設している。
参拝の信者も後を絶たない。甘粛省のみならず、内蒙古、チベット、青海からも押し寄せる。マニ車を回し、五体投地をし、それぞれの殿于を巡礼し、外周の3.5キロを巡礼している。
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《天水》(てんすい)
甘粛省の南部。黄河の支流・渭水の南岸。古来、甘粛、陝西、四川のを繋ぐ交通の要衝であった。
<伏羲廟>(ふくぎびょう)
伏羲は、日本では、「ふくぎ」または「ふっき」と読む。中国の古伝説上、最初の帝王を三皇という。伏羲、女カ、神農である。その筆頭が伏羲である。
その伏羲が生まれたのが天水とされ、廟が建てられている。
人首蛇身で、文字、八卦を考案し、婚姻の礼を定めた。また、網を作って漁労を、火種を与えて動物の肉を焼くことを人類に教えたと伝える。
創建は明代、1490年。本殿にあたる太極殿は高さ36メートル、幅26メートルの堂々たる建物で、精緻で美しい装飾が施された殿内には彩色された伏羲の塑造が納められている。天井には、卦を組み合わせた計64の図形が描かれている。太極殿の近くには鼓楽亭という亭があるが、かつてはこの殿と亭の間に64本のコノテガシワの古木が植えられており、伏羲が考案した八卦の思想をもとに64の方位に従い植えたものだと言われている。ただし、現在では37本しか残っていない。
天水はまた、神農の率いる部族が住んでいたところとも言われ、太極殿の後ろにある先天殿には神農の象が安置されている。
境内には、柏や槐樹の老木が生い茂り、厳粛にして原始的な雰囲気を醸し出している。
<玉泉観>(ぎょくせんかん)
道教寺院。俗称を城北寺といい、天水市の市街の北部、天靖山の麓にある。元の大徳3年(1299)の創建で、現存する殿宇は明・清代の再建。
元代に陸と馬という二人の真人がここで修行を積み、ついには羽化登仙したと伝える神仙洞。眼疾にはすこぶる効きめがあるという玉泉。明代に皇帝に取り入り絶大な権力を握った宦官・魏忠賢の生祠(生存中の人物を祭った祠)と伝える小廟。道教の神秘的な雰囲気を味わえる寺である。
また、山頂からは天水市が一望できる。
<李広墓>(りこうぽ)
天水市の市街南方1キロ。南山の麓の石馬坪にある。塚は高さ約2メートル、「漢将軍李広墓」という墓碑が建る。李広の衣冠塚(遺体はなく、生前身につけていたものを葬った墓)と伝える。
李広は前漢の将軍。天水に生まれ、騎射に優れ、文帝(在位前180〜前157)のときに将軍となる。匈奴との戦いに生涯を尽くし戦い続けること40年、匈奴からは「飛将軍」と恐れられた。しかしながら、元狩4年(前119)、大将軍の衛青に従った戦いで、途中道に迷い、約束の日時に合流できなかったことを責められ自害した。栄光と悲運に彩られた生涯であった。
<南郭寺>(なんかくじ)
「杜甫ゆかりの寺」という言われ方をする。759年。大飢饉の陝西を逃れようと杜甫は官職を捨て、杜甫はこの地へ甥の杜佐を頼ってやってくる。ここも安住の地とはなり得ずわずか半年足らずの滞在で、さらに成都への流れて行くことになるのだが、その間に「秦州雑詩二十首」を詠んだ。天水は当時秦州と呼ばれていた。
その中で杜甫は、玉泉観(当時の城北寺)や南郭寺を題材にしている。
山頭の南郭寺 水は北流泉と号す
老樹を空庭に得 清渠ひとむらに伝う
秋花は危石の底 晩景は臥仏鐘の辺り
俯仰身世を悲しむ 渓風も為めに颯然
(危石とは、背丈の高い石の意)
<麦積山石窟>(ぱ<せきざんせっくつ)
天水市の東南約50キロにある。麦石山は秦嶺山脈の西の端、高さ150メートル余りの孤峰で、遠くから見ると、麦藁を積み上げたような形をしている。
中国三代石窟と言えば、莫高窟、雲崗石窟、竜門石窟であるが、それらに劣らぬ芸術的価値を持つ。
文献によると、後秦代(384-417)に石窟を開削して像を彫り、仏寺を創建し、西魏の文帝(在位535〜551)のときに崖閣を改修して寺院を再興したとある。以後、清の時代まで開鑿は続けられた。
何面の切り立った絶壁に代々窟を開削し、像を彫り、蜂の巣のようにみえる。北魏から清代まであわせて194の洞窟、7000体余りの泥塑像と石像、のぺ1300平方メートルの壁画が現存している。
<仙人崖>(せんにんがい)
天水市の東南60キロ。古来、神仙が出没するとの言い伝えより仙人崖という。大きな岩穴が三つある。東庵、西庵、南庵という。岩山が二つ。宝蓋山、ケン珠山という。
東庵と名付けられた岩穴は、幅約70メートル、深さ8メートルで、洞内に明代建立の蓮花寺があり、仏陀と十八羅漢の塑像が並ぶ。
西庵は幅約90メートル、深さ10メートル余りで洞内にあわせて14棟の殿宇楼閣が並び、その広さは一万人の人を収容できるという。
東西の両庵の間にあるのが、ケン珠山。羊腸のように曲りくねった道を80メートルほど登ると頂上に至る。
南庵には、魏代後期の4体の塑像、宋代の影塑と壁画が現存する。
<石門>(せきもん)
天水市の東南70キロ。風光明媚な風景で知られる。ふたつの峰が門のようにそびえるので石門といい、虎や豹が出没すると言い伝えより俗に臥虎台ともいう。『秦州志』に「石門山の東南百余里、其の山壁立つこと千仞、蒼翠滴らんと欲す。四周峭壁にして径無く、中路を通じて門の若し、因りて石門と号す」とある。
山頂からは、南に隴山を、北には秦嶺を望む。古くから道士の修行の地でもあった。
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《会寧県》(かいねいけん)
甘粛省の東部。黄河の支流・祖脂ヘの上流に当たる。
<会師楼>(かいろう)
会寧県には西門(西津門)と南北両面の城壁が47メートルずつ残っている。その西門は、二層の楼閣になっている。門はアーチ状。その門を会師楼という。県城は明代に築かれたものだが、会師楼は清代のもの。
長征の開始は1934年10月。中国工農紅軍第一方面軍の始動によって始まった。それが、延安に辿り着いたのは一年後。ただ、第二方面
軍と第四方面軍とは国民党との戦いながらの行軍で、更に一年遅れの1936年10月に、この地で、迎えに来た第一方面軍と合わせ、三軍が合流できた。それを記念し、門楼を「会師楼」に改めた。元の名は、西津門といった。
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《隴西県》(ろうせいけん)
甘粛省の東部。蘭州の東南210キロ。隴海鉄道が通る。
<威遠楼>(いえんろう)
旧称を雄鎮楼、通称を鐘鼓楼という。瀧西県の県城の十字街の中心にある。楼閣の創建は1023年。北宋の時代。その後、元、明、清の時代に補修が加えられている。
基台の上に建つ木造三層の堂々たる楼閣。10キロ先からも見ることが出来るという。その姿にも、「威遠」という名にも、西域と境を接する緊迫感が伺える。
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《成県》(せいけん)
甘粛省の南部。陝西省との境に近い。
<西峡頌摩崖>(せいきょうしょうまがい)
成県の県城西方10キロ。天井山の麓にある。黄竜碑ともいう。
後漢の建寧4年(171)の開削。武都郡太守の李翕が大衆を率いて天井道を切り開いた事績を記してある。その右側に彫られているのが「五瑞図」。五つの目出度いものを彫るが、ここに彫られているのは、竜、白鹿、穀物など。
吉祥のしるしとして人気が高く、拓本が広く流布している。
<杜甫草堂>(とほそうどう)
成県の県城東南4キロ、鳳凰山の麓、飛竜峡の入口にある。
杜甫(712〜770)は唐の758年に長安での官職を捨てに秦州(現、天水市)に至るが、滞在すること半年、その地も安住の地でないことを知り、759年、同谷(現、成県)にやって来る。
しかし、この地でもまた生活は困難で、
客有り 客有り 字は子美
白頭の乱髪 垂れて耳を過ぐ
(字は子美:杜甫の字を子美という)
で始まる、悲痛な歌を残し、わずか一ヶ月の滞在で成都へ向かって発つことになる。
草堂が造られたのは、北宋の時代。明の万暦46年(1618)に改修し、現存のものは清代の再建。
成県は、三国時代、諸葛孔明が魏を攻めるときの通り道に辺り、杜甫草堂の前を流れる河を利用して物資を運んだと伝えられる。
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《西峰市》(せいほうし)
甘粛省の東部、いわゆる「隴東」の中心的な都市。周りには、広大な黄土高原が広がる。
<北石窟寺>(はくせっくつじ)
甘粛省四大石窟のひとつ。他の三つは、莫高窟(敦煌)、麦積山(天水)、炳霊寺(永靖県)。
西峰市の西南25キロ、寺溝川、蒲河、茹河の三つの河の合流点にある。北魏の時代に開削が始められ、清代まで彫られてきている。窟龕が295、塑像が2100体、石刻と墨書の題字が150、碑刻が7つ現存する。時代から見て最も多いのは唐の時代のもの。
最も注目されているのは、俗に「仏洞」と呼ばれている165窟。もっとも大きく、保存状態がよい。窟の大きさは、幅21.7メートル、奥行き17.9メートル、高さ13.2メートル、。そこに、高さ8.1メートルの仏陀の像が7体、高さ3〜4メートルの脇侍菩薩像が10体、高さ5.8メートルの交脚菩薩像が2体置かれていて、見るものを思わず仏の世界に引き込む魅力を持っている。
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《華池県》(かちけん)
甘粛省の東部にある。陝西省と隣接する。
<双塔寺造像塔>(そうとうじぞうぞうとう)
華池県の県城の東60キロの王台村にある。小さな台地に、二つの塔が8メートル離れて並んで建つ。かつては寺院があったが、今は、3体の仏陀の石像の残骸と寺院の遺構を残すだけである。
仏塔は砂岩を研磨して積み上げたもの。東塔を一号,西塔を二号という。一号塔は、八角11層。各層に大小あわせて3500体余りの仏像のレリーフが施されている。
二号塔も、一号塔と同じ形であるが、第1〜3層の各面に小仏、説法図、比丘を彫り、第4層はひとつの面にのみ龕を設け一仏二弟子を彫ってある他の面にはなにもなく、第5層以上は大小あわせて600体余りの仏像のレリーフが施されている。
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《武威》(ぶい)
蘭州市からは西北へ290キロ。祁連山の北麓、石羊河の上流である。河西回廊の東部。かつては匈奴の根拠地であったが前漢の武帝の時代、匈奴を駆逐し、河西回廊に四つの郡を設置した。今で言う、武威、酒泉、嘉峪関、敦煌である。その武威である。
漢以降も、中国と西域の接点で有り続け、シルクロードを往来する商人たちが雲集し、中国に仏典を伝えた鳩摩羅什なども滞在をしている。また、史跡も多く、特に、雷台から出土した「飛燕を踏む馬」は名高い。
<大雲寺銅鐘>(だいうんじどうしょう)
大雲寺暁鐘ともいう。明け方に撞かれた。今は、武威市の市街の東北隅の鐘楼にある。鐘楼は明代に建てられたもの。
大雲寺はもともと宏藏寺と言ったが、武則天(623-705、在位684-705)が皇帝となり、全国に大雲経を供奉させたさい、この寺も名を大雲寺と改
称した。大雲経というのは女帝の出現を予言した経典とされ、武則天はこれを大いに喧伝したが、実際には、武則天におもねった者の偽作であった。
鐘は銅の合金による鋳造で、淡い黄色をしており、上が細くて下が太く腹部がふくらみ、高さ2.4メートル、口径1.45mメートル、厚さ10センチ。鐘の外側の図案は三層に分かれ、上から、飛天、天王と鬼、竜と天王の順に描かれている。
<文廟>(ぶんびょう)
武威市の市街の東南隅にある。文廟とは孔子廟のことである。明の正統2年(1437)の創建。南向きで、東西二列の建築群からなり、南北170メートル、東西90メートル、面積1万5300平方メートル。西側は大成殿を中心
に、東は文昌祠を中心に建物が配されている。
敷地内に武威市博物館が置かれ、河西回廊から出土した貴重な文物が展示されている。特に注目されるのが西夏碑と高昌王世勲碑である。
西夏碑は、正式には「重修護国寺感応塔碑」というが、涼州(今の武威)の護国寺塔が地震で傾いたが自然に元に復したという内容のことが、表裏に西夏文字と漢文で彫られている。
西夏はトルコ系タングート族が1032年に建国した国であるが、一時その勢力は、現在の寧夏回族自治区から敦煌に及んだ。漢字を元に独自の西夏文字をも創った。1227年、チンギスハーンに滅ぼされるが、西夏人も、西夏文字も一緒にこの世から消えてしまった。歴史上の謎とされている。この碑は、中国でもっとも大きく、もっとも保存のいい西夏文字の石碑と言われ、西夏文字を解読する上で貴重な資料となっている。
また、高昌王世勲碑は、高昌王の世勲の功績とウイグル人の起源と世系について書かれており、ウイグル族の歴史を研究する上での貴重な資料となっている。かつて県城北方15キロの永昌府石碑溝にあったものを移設してきた。
<海蔵寺>(かいぞうじ)
武威市の市街西北2キロにある晋代創建の古寺。規模の大きさの点で、武威随一。現存の牌楼、山門、大雄宝殿は清代に再建されたもの。後方に一辺50メートル、高さ6メートルの霊均台があり、その上に無量殿と天王殿が建つ。無量殿は明代の建物。
霊均台はもともと水中の小島に上に築かれ、その上に建てた寺であるゆえに海蔵寺と命名されたと伝えられている。
<雷台>(らいだい)
明代に雷神を祭るために雷祖廟が創建された。それ故に、雷台という名が付いている。
1969年10月に台の下から後漢代末期の大型の煉瓦の室墓が発見され、230点余の出土品が発掘された。なかでも、飛燕を踏む青銅製の奔馬は見事な造形で一躍雷台の名を世界に広めた。現在は、蘭州の甘粛省博物館に展示されている。
武威市の市街の北1キロにある。雷祖廟が造られる前には、前涼王の張茂(在位320-324)が霊均台を築いて宮殿を造営した場所であると伝えられている。
<羅什塔>(らじゅうとう)
武威市の市街の北大街にある。後秦代(384-417年)の亀茲(キジ)国の高僧鳩摩羅什(344〜413)が経典を講じたところとされるので、羅什塔という。かつては羅什寺があったが、1927年の地震で倒壊した。羅什塔も半分だけが残った。1934年に修復したが、そのときに塔の下から発見された石碑から唐代の建立か再建と判明した。
八角12層、高さ32メートル。
鳩摩羅什は、中国への仏教伝来へ最も貢献のあった僧のうちのひとりである。インド人を父、亀茲国王の妹を母として亀茲に生まれた。その高名は遠く中国にもおよび、前秦の符堅は将軍呂光を西域に派遣しその地の討伐と鳩摩羅什を連れ帰ることを命じた。ところが、呂光は帰路、前秦の滅亡を知ったため涼州(現、武威)に留まり後涼国を建てた。そのため、鳩摩羅什は401年に長安に行くまでの16年間をこの地で暮らした。長安では、草堂寺に拠り、三千人の僧が参加させ、97部427巻の仏典を漢訳することになるのである。
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《張掖》(ちょうえき)
河西回廊の中部にある。武威どうよう以前は匈奴の根拠地であったが、武帝が霍去病を遠征させ、郡を置いたところから中国の版図としての張掖の歴史が始まる。
祁連山を南に望み、祁連山に源を発する黒河に潤され、シルクロードの豊かなオアシスとして栄えてきた。古来、「金の張掖、銀の武威」という。
また、河西回廊のみならず、東へは内蒙古、南へは青海に通じ、交通の要衝でもあった。四世紀、法顕が仏法を求め西に向かうも、また、十三世紀マルコポーロが大都を目指し東へ向かうにも、張掖を経由してのことである。
<大仏寺>(だいぶつじ)
旧称を迦葉如来寺、別称を宏仁寺、俗称を臥仏寺という。西夏の永安元年(1098)の創建で、明・清代に改修を重ね、現存の大仏殿・蔵経閣・土塔は清の乾隆年間(1736〜95)の再建。
山門を潜ると、牌楼、大仏殿、蔵経閣、土塔が一直線上に並んでいる。中心は大仏殿で幅48メートル、奥行き25メートル、高さ20メートルの堂々とした建物で、なかに大きな涅槃像が安置されている。身長34.5メートル、肩幅7.5メートル、木の心の泥塑像で、朱色に金彩を施した法衣を身にまとい静かに横たわる。背後には十代弟子の塑造が並び、左右には喜怒の表情をそれぞれ異にする十八羅漢が控える。また、周囲の壁面には仏伝や「西遊記」に題材を採った壁画が描かれている。
「西夏の創建」と言うことの意味は、中国の王朝は北宋であったが、この地を支配していたのがベット系のタングート(党項)族が建てた西夏国(1038- 1227)であったということで、西夏以外にも、唐の時代の吐蕃(チベット)や五代の回鶻(ウイグル)など、この地を支配した異民族は多い。
マルコポーロは、張掖に一年近く滞在したが、この寺について感嘆の言葉を残している。
<万寿寺木塔>(まんじゅじもくとう)
中国では珍しい木塔。張掖市の第一中学の校内にある。
『甘鎮志』と『重修万寿寺石碑」によると、万寿寺は隋の開皇2年(582)の創建で、唐、明、清にそれぞれ改修されている。清代末期に強風のために木塔が倒壊したが1926年に再建。
高さ1メートル、一辺15メートルの基壇の上に建つ。八角9層の楼閣
式、高さは32.8メートル。一層から七層までは、塔身は煉瓦、外周は木造、八層九層はすべて木造である。木造の箇所は釘やかすがいを使わずに木組みだけで造られている。
もともとは万寿寺の塔であったが、万寿寺そのものはすでに失われている。
<鼓楼>(ころう)
市の中心にある。張掖のシンボル的な存在でもある。旧称を靖遠楼という。
「重修甘州吊橋及靖遠楼記」碑によると、明の正徳2年(1507)の創建で、現存のものは清代康煕年間に修築されたもの。基壇はは32メートル四方の方形で、高さ9メートル。各面の中央に通路が通じ、東西、南北の大通りが貫通・交差している。その上に建つ、総高25メートルの二層の楼閣。
なかに、高さ1.3m、口径1.1mの銅鐘を吊すが、唐代のものと言われる。
<黒水国漢墓群>(こくすいこくかんぽぐん)
漢代の古墓群。黒水鍋漢墓群ともいい(国と鍋は同じ発音)、張掖市の市街西北15qにある。黒水河のほとり。東西2キロ、南北2.5キロの規模に墓が密集している。墓室は煉瓦造りで、塚は風蝕によってみな50センチ以下に削られている。地表に漢代の灰色陶片や縄文陶片が露出している。発掘調査をし、大量の陶壺や五銖銭が出土している
この古墓群なかに故城がある。黒水国城堡遺趾という。シルクロードの駅站であったとされる。ふたつの城塁が南北に2キロ隔てて相対し、その間を蘭新自動車道路が通っている。それぞれ、東西約250メートル南北約220メートルの方形で、城壁は黄土をつき固めて築かれている。
城内は全くの廃嘘であり、建築物や通りの配置も風化と流砂の堆積で見分けが付かない。地表に瓦や磁器の断片が露わになっている。
「黒水国」という名は史書にはみえず、誰が住んだのか、何時のものなのか、詳細は分かっていない。
<焉支山>(えんしざん)
山丹県の県城.東南50qにある。臙脂山ともいう。臙脂とはほお紅のこと。
漢の武帝の時代、この辺りは、霍去病と匈奴との死闘の舞台であった。『史記』に言う。「漢は霍去病に一万の騎兵を統率させ、隴西から進発し焉支山を過ぎて一千里あまりの地点で匈奴を攻撃させた。首級と捕虜の騎兵あわせてを一万八千余を得た」。
匈奴はこの敗戦で、祁連山と焉支山を失い、遠く北へ追われたが、この戦いについて匈奴側は痛切な悲しみの歌を残している。
「我レ祁連山ヲ亡クシ、我ガ六畜ヲ蕃息セザラシム、我レ焉支山ヲ無クシ、我レ婦女ノ顔色無カラシム。」
祁連山は水豊かにして緑濃い理想の放牧地であった。さらに焉支山はほお紅を作るベニバナの生えている場でもあった。
匈奴は文字を持たない。この歌は、口から口へと歌い継がれていたのだという。
今は、人民解放軍の軍馬を訓練するための、山丹牧場が開かれている。
<馬蹄寺石窟>(ばていじせっくつ)
張掖から南へ65キロ。馬蹄山の山腹に点在する石窟群。
1500年以上前の東晋から彫られてきた。北寺、南寺、金塔寺、上・中・下の観音寺、千仏洞の七つの窟からなり、それぞれ1つから1O余りの龕を有している。絶壁に無数の窟がうがたれ、遠くから見ると、蜂の巣のようである。また、窟のなかに入ると、岩をうがって通路がつけられ蟻の巣のようでもある。
現存する窟龕・壁画・造像は唐代以後のものが多く、そのうち保存状態のいいのは北寺と金塔寺である。
──馬蹄寺北寺石窟(ばていじほくじせっくつ)
大小あわせて22の洞窟からなり、そのうちの代表的なものは三十三天洞。19の窟龕が上下5層に分かれて並ぶ。第1-3層は5窟、第4層は3窟、第5層は1窟で宝塔の形を表している。
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《酒泉》(しゅせん)
河西回廊の中部。張掖とともに東西交易の拠点として栄えた。ともに、祁連山に源を発する河川の流域のオアシス。酒泉は、張掖から西北へ221キロ。古名に粛州という。一方張掖は甘州。甘粛の省名二つを合わせてできた。
漢の時代、武帝が西域経営のために設置した西域四郡のひとつ。漢書・張騫伝に言う。「今の地の西に初めて築き、酒泉郡をおく。西北の国に通じる」。
<鐘鼓楼>(しょうころう)
東西と南北の大街が交差する、かつての町の中心に立つ。煉瓦の基台の上に建ち、高さは27メートル。木造三層の美しい建物である。創建は五胡十六国時代、346年。現存のものは、清代、1905年の再建。
基台にはアーチ型の四つの門があり、東西南北のそれぞれの門に、「東迎華嶽」(東に華嶽を迎え)、「西達伊吾」(西は伊吾に達し)、「南望祁連」(南は祁連を望み)、「北通砂漠」(北は砂漠に通ず)という門額が掛かる。スケールの大きさと、酒泉が置かれた地理上の重要性に思い至る。
<泉湖公園>(せんここうえん)
酒泉公園ともいう。町の名の由来になった酒泉が湧く。今でも清冽な水がこんこんと湧いており、傍らに「西漢勝跡」という碑が建つ(西漢は前漢のこと)。
前漢の武帝の時代、霍去病が匈奴を討ち大勝利を収めた。武帝は酒を賜い功を讃えた。霍去病は全軍の将士とその栄誉を分かち合おうとしたが、それには量が少ない。そこで、霍去病が泉に酒を注いだところ、不思議にも泉は酒に変わり尽きることがなかった。
そういう伝説に彩られた泉である。
酒泉はもとの名を金泉といった。こんな言葉も古書にある。「漢の武帝の大初之年に酒泉郡を開く、云ふ都城に金泉有、泉の味は酒の如し」。
また、李白の「月下独酌」其の二にも酒泉の地名が詠まれている。「月下独酌」の其の一と其の二は次の通り。
『月下獨酌(げっかどくしゃく)』其の一
花間(かかん) 一壺の酒
独り酌んで相親しむ無し
杯を挙げて明月を邀(むか)え
影に対して三人と成る
月 既に飲むを解せず
影 徒(いたずら)にわが身に随(したが)う
暫く月と影を伴い
行楽 須らく春に及ぶべし
我歌えば月徘徊し
我舞えば影繚乱(かげりょうらん)す
醒時(せいじ)は同に交歓し
酔後はおのおの分散す
永く無情の遊を結び
遥かなる雲漢(うんかん)に相期(あいき)す
『月下獨酌(げっかどくしゃく)』其の二
天 若(も)し酒を愛さずんば
酒星(しゅせい) 天に在らず
地 若し酒を愛さずんば
地 応(まさ)に酒泉(しゅせん)無かるべし
天地 既に酒を愛す
酒を愛するも 天に愧(は)じず
已(すで)に聞く清は聖に比すと
復(ま)た道(い)う濁(だく)は賢(けん)の如しと
賢聖(けんせい) 既(すで)に已(すで)に飲む
何ぞ必ずしも神仙を求めんや
三杯 大道(たいどう)に通じ
一斗 自然に合(がっ)す
但(た)だ酔中(すいちゅう)の趣を得んのみ
醒者(せいしゃ)の為に伝うること勿(なか)れ
(注:清とは白い酒、濁とは濁り酒のこと)
<夜光杯工場>(やこうはいこうじょう)
酒泉市の市内にある。祁連山から産出する老山玉・新山玉・河流玉などの玉を彫琢して酒杯を作っている。杯の種類は様々で、斉口平底杯、高脚杯、彫花杯、金絲銀絲辺杯など。沸騰した酒を注いでも割れず、冬に中の液体が凍っても割れない。
酒泉の玉杯の歴史は古く、周の穆王のときに西戎より献上され、酒をついで月にかざすと雪のように自くなり、光り輝いたことから夜光杯と命名されたと伝える。
唐代の詩人・王翰(687-726)の「涼州詞」は名高い。
葡萄の美酒夜光の杯
飲まんと欲すれば琵琶馬上に催す
酔いて沙場に臥すとも君笑うこと莫かれ
古来征戦幾人かかえる
<酒泉市博物館>(しゅせんしはくぶつかん)
清朝時代の祠堂を改築して博物館とした。新石器時代の石器から、土器片、青銅器、歴代の貨幣などが展示されている。
変わったところでは、丁家閘壁画墓の大型の壁画の模写が展示されている。
<丁家閘壁画墓>(ていかこうへきがぽ)
酒泉市の西、約3キロのゴピ灘にある。
1977年に発掘。煉瓦積みの双室墓。前室は長さ3.22メートルで、壁面はアーチ形になっている。煉瓦の壁面に泥を塗り、その上から色の付いた壁画が描かれている。天上には紅日、・金鳥、満月、ヒキガエル、東王公、西王母、飛馬、白鹿、羽人が。人間世界には墓主の宴会、楽舞、出遊の姿が描かれる。色の使われ方は、敦煌の莫高窟の北朝代の壁画に近い。
河西回廊で最初に発見された五胡十六国時代の大型の壁画墓である。漢・魏代以後の伝統を受け継ぎ、南北朝時代の画風の先駆をなすとされる。
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《金塔県》(きんとうけん)
<肩水金関遺跡>(けんすいきんかんいせき)
酒泉の東北130キロ、金塔県のエジナ河(額済納河)の東岸にある。漢代に河西に出入りする通路を守る関の役割を果たしていた。北は居延塞(現,内蒙古自治区額済納旗)に至り、南は肩水都尉府と肩水侯官を守る。
「金関」とは「固きこと金湯(金城湯池)の若し」という意味。1934年の調査でに漢代の簡850枚を発見。されに、1974年にも発掘調査が実施されている。
関門のなかに砦が築かれている。北壁36.5メートル、南壁35.5メートルの砦であったが、現在は東壁を24メートル余り残すのみである。
出土されたものは、1万1000枚余りの漢代の簡、印章、硯、木像、貨幣、銅製の刀・剣・矢、小麦、大麦、黍、筆硯、木版画など多岐にわたる。
<肩水侯官遺跡>(けんすいこうかんいせき)
地湾城ともいう。面積22.15平方メートルで、周りの壁は土をつき固めて築き高さは約10めーとる。南面の中央に門がある。規模と形式から、漢代の肩水侯官の所在地であったと考えられる。
<肩水都尉府遺跡>(けんすいといふいせき)
大湾城ともいう。長さ350メートル、幅250メートルの長方形。城壁の高さは8メートル。土をつき固めて築かれ、保存状態がいい。
東面の中央に城門があり、東北隅と東南隅に望台がある
1930年に漢代の簡を1500枚余り発見されている。
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《嘉峪関》(かよくかん)
万里の長城の西端。東の端は河北省の山海関。その間6000キロに及ぶ。
北の合黎山、南の祁連山に挟まれた峡谷になっており、西からの攻撃を防ぐには最適の場所である。関が設けられたのは明代の14世紀、モンゴル族の侵攻を防ぐ目的で馮勝将軍によって建てられた。
嘉峪山の麓にあるで嘉峪関と名付けられた。
山海関が「天下第一関」と呼ばれるのに対し、嘉峪関は「天下雄関」と呼ばれる。
高台に築かれた関城から南北に城壁が延び、南北の祁連山、合黎山も連なる。関城は台形をなし、周囲733メートル、面積3万3500平方メートル。周囲は高さ11メートルの城壁で囲まれている。
関城は内城、甕城、羅城、外城からなる。内城は関城の中枢で西の城壁は166メートル、東の城壁は154メートル、南北は160メートル。台形の形をしている。東西に門があり、東門を「光華門」、西門を「柔遠門」という。それぞれの門に楼城が建つ。
その東西の門を守るための城が甕城である。内城と甕城を北と南から挟む城壁が羅城。南と北の羅城から東へ延び、やがて交わりなかに広場を形作るの城壁が外城である。城の中に城があり、城の外に城があり、内城、甕城、羅城が相互に防御しあうように造られている。
西門の甕城の門楼にひとつの煉瓦が置かれている。言い伝えがあり、嘉峪関を造るときに工匠が極めて正確に必要な煉瓦の数を計算し、工事が終わったときに残った煉瓦はひとつだけであった。その煉瓦がこれである、と。
関城の正門は、西向きに建っており、楼上に「嘉峪関」と書かれている。
<魏晋壁画墓>(ぎしんへきがぽ)
嘉峪関の東北20キロ、新城郷のゴピ灘にある。周囲10キロ以内に魏晋時代(220〜419)の墓が千以上ある。
1972年に8墓を発掘。そのうち6墓が壁画墓で、合計600の壁画が見つかった。多くはひとつの煉瓦にひとつの絵が描かれたものであるが、なかには大型の壁画もある。煉瓦の大きさは、通常約34センチX約17センチが一般的。
墓の構造は二室墓か三室墓で、墓門、前室、左右耳室、(中室)、後室というような構成になっている。
絵の題材としては、墓の主人の生前の生活に材を採ったものや、農業、牧畜、養蚕、戦争、狩猟、、林園、伎楽、牛馬など。
一号墓の墓主と思われる画像の傍らに「段清」とある。『晋書』段灼
伝に段氏の記述があり、「代々土着の姓」とあり豪族と考えられる。壁画は墓主の豪華な生活を写したものが大半を占めるが、一方では、庶民の生活を描いたものも200幅余りを含み、農業、養蚕、牧蓄などの生産活動を
題材にしたものも多くある。色彩は赤褐色と赤色が中心で、色の使い方は単純であるが、それだけに強烈な印象を残す。敦煌・莫高窟の初期の壁画を連想させるものも少なくない。
<黒山石刻画像>(こくざんせっこくがぞう)
嘉峪関市の西北20キロの峡谷にある。黒山の四道鼓形溝と石関峡の絶壁に、合わせて153の石刻が1キロにわたって彫られている。黒紫色の岩壁に浅いレリーフで描かれ、技法は稚拙であるが、独特の魅力を持った描かれ方をしている。
絵の内容は馬、牛、羊、ラクダ、虎、イヌなどの動物、また、人が騎射、狩猟、舞踊などを行う様子も描かれている。全体的にみて、遊牧・狩猟生活が描かれているのに対して、農耕の様子が描かれていない。古いものは、新石器時代の遊牧民族によるものと考えられる。
殷の時代のチベット系の民族説、大月氏説、匈奴説などあるがまだ定説はない。
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《安西》(あんせい)
敦煌の東北110キロ。河西回廊を蘭州方面から西に向かうと、敦煌に着くその少し手前に当たる。強風の吹くところとして知られる。
唐代には瓜州と呼ばれていた。その名のとおり白蘭瓜、黄河密などの瓜を多く産する。
<鎖陽城址>(さようじょうあと)
安西県の県城東南約40キロゴピ灘にある。唐の時代、薛将軍の率いる軍隊が。この城に立て籠もったとき、食糧が尽きたが、軍民が城内に生えていた鎖陽(漢方薬の原料となる植物)を食べて生き延びたという言い伝えから鎖陽城と呼ばれるようになった。
南北470メートル、東西430メートル。現在の高さは約10メートル。西と北の両面に門を設けてある。
城壁の四つの角に土で築いた円形の建物の趾がある。物見台の跡とも考えられている。城内からは開元通宝や唐代の瓦や樽などが出土している。城壁に登って南方を望むとゴピ灘がはてしなくひろがり、その先には白雪をいただく那連山がそびえる。
<楡林窟>(ゆりんくつ)
安西県の県城南方約70キロ。楡林河の渓谷の両岸に開削された石窟群。万仏峡ともいう。
開削年代についての文字の記録はないが、中心柱のある洞翁窟の形式と第25窟の前室の天王壁にある「光化三年(900)」という題記から、唐代の開削と考えられる。
現存する窟は、河を挟み東崖に30窟、西崖に11窟、あわせて41窟である。総面積1000u余りの壁画と100体余りの彩色塑像が残っている。
第25窟の西方浄土・弥勒浄土の図は構図、色彩、描く線の美しさで唐代壁画の逸品とされる。
また、五代・宋代初期・西夏代・元代の壁画には従来あまり見られなかった人々の現実生活を反映する耕作、収穫、嫁入り、宴会、将棋、舞楽などを題材に採ったものもある。
全体を通じて、壁画の形式、題材、様式、題記などから、莫高窟との密接な関係が読み取れ、敦煌の西南30キロにある西千仏洞と併せ、「敦煌三大石窟「というような呼び方をされる。
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《敦煌》(とんこう)
かつては沙州と呼ばれた。四方を砂漠で囲まれたオアシスである。漢の武帝が西域経営のために設けた、武威、張掖、酒泉、敦煌の西域四郡の最西端の砦であった。西域に対する最前線の軍事基地としての役割を担ってきた。
同時に、辺境の地であるだけに、ひとたび中原の漢族の王朝の影響が弱まると、吐蕃、西夏などの異民族の占領するところとなる。幾多の民族の興亡の舞台でもあった。
標高は高く、海抜1700メートル。西には西域に、南は青海からチベットへ。古代よりシルクロードの交易、軍事の要衝であった。それを可能にしていたのは、祁連山に源を発する、党河の流れであった。
<鳴沙山>(めいさざん)
敦煌の町から南へ5キロ。東西40キロ、南北20キロにわたり砂丘が続く。特徴は砂の粒子が細かいこと。その細かい粒子の砂の山々が描く稜線は美しい。日向と日陰の明暗を曲線でクッキリと描き出す。
<月牙泉>(げつがせん)
鳴沙山の砂の山々の間に、半月型の泉がある。その形から「月牙」泉と呼ばれる。周囲は延々と砂漠が続くが、ここの泉の水は涸れたことがないという。大きさは、東西200メートル、南北50メートル。
<莫高窟>(ばっこうくつ)
敦煌市の南東25キロ、鳴沙山の東端に開鑿された石窟群である。鳴沙山の東麓の絶壁に、東西千六百メートルに及ぶ範囲で石窟が造られている。
石窟の中には、極彩色の壁画が描かれ、色鮮やかな彩色が施された塑像を安置する。唐の時代には千を超える石窟が掘られていたと言うが、現在では六百ほどが残されている。敦煌文物研究院によって、壁画や塑像が残る石窟には番号が付けられ管理されているが、その数は492。
壁画は、合わせると四万五千平方メートルに、また、塑像の数は2415体にも及ぶという。
最初に石窟を造ったのは、「大周李懐譲重修莫高窟仏龕碑」によれば、前秦の建元二年(366)、西よりやってきた沙門楽尊が三危山と鳴沙山が相対するところ金色に輝くのを見て、ひとつの石窟を開いたという。現在、その石窟は確認できないが、確実なことは、五世紀前半の北涼時代から、北魏、隋、唐、宋、西夏、元と千年に及び営々と掘られ続けられてきたことである。
近年、久しく人々から忘れ去られていた敦煌が、突如脚光を浴びたのは、1900年。莫高窟で修行をしていた道士・王圓ロクが、偶然にいわゆる「敦煌文書」を発見したことによる。今言う第16窟の壁に割れ目があることを発見し、その壁を壊すと、耳洞と呼ばれる小部屋があった。今言う第17窟である。そこに、床から天井までびっしりと古文書が積まれていて、その数は数万巻におよんだ。
そのニュースを聞き、真っ先にやってきたのがイギリス人のスタインであり、次いでフランス人のペリオであった。スタインが六千巻、ペリオは五千巻の文書を持ち帰ったという。清朝政府が保護に腰を上げたの1909年。残ったものを北京に運んだ。そのあと遅れてきたのが大谷探検隊、アメリカ人のウォーナーと続く。現在、この「敦煌文書」が保存されているのは、「大英博物館」「フランス国立図書館」「国立北京図書館」「龍谷大学」である。
<玉門関址>(ぎょくもんかんあと)
敦煌の西北八十五キロ。漢の時代に開かれた。武帝が西域の経営に乗り出しホータンの玉が中国へ直接はいるようになった。それを皇帝は独占的に管理をし輸入を厳しく取り締まった。そのホータンの玉の入り口にちなみ玉門関と名づけられた。
漢の時代、陽関とともに、西域への起点であった。西域北道(天山北路)へは玉門関を経由し、西域南道へは陽関を経由した。
この遺跡を史書に現れる「玉門関」ではないかと最初に推定をしたのはスタインであった。スタインはこの付近から漢代の木簡を発見している。
「玉門関」で思い出されるのは、李広利と班超。
李広利は前漢時代の将軍。武帝は、大宛国に産する良馬が欲しい。千金の金をもって購おうとするが断られる。そこで李広利に命じ大宛を撃たせ馬を奪おうとする。ところが散々に敗れ敦煌に帰り着いた時には兵力は十分の一か二しか残っていない。李広利は上奏文をたてまつり、今回は道は遠く食糧が足りず敗れました。しばらく軍を解散し、体制を整えもう一度遠征させていただきたい、と伝える。これを聞いた武帝はたいそう怒り、玉門関を閉めさせ、「玉門関のうちに入った兵は即座に斬る」と伝えた。(結局は第二次の派兵で大宛国を撃ち三千頭を越える馬を奪うことになるのだが。)
一方班超は後漢時代の西域経営の英雄。匈奴との戦い、西域の経営に生涯を捧げた男であった。三十六名の部下を率いて楼蘭に使いしたときたまたま匈奴の使者と鉢合わせになった。相手の数は百三十有余人。班超はひるむことなく、匈奴の使者を急襲し、楼蘭が匈奴になびくのを防いだ。この時班超が部下を励ますために言った言葉が、「虎穴にいらずんば虎児を得ず」である。その後、西域に身を置くこと三十一年、戦いに明け暮れ、疎勒を倒し、亀慈を撃ち、焉耆を攻め、ついに西域五十ヵ国を束ねることに成功。その班超であるが、晩年、彼はこう上書する。
「臣、敢えて酒泉に到るを望まず、但だ生きて玉門関に入らん
ことを願うのみ」。酒泉に至らずとも、せめて、玉門関には入りたい。
その玉門関である。
時代は下って唐。
李白の代表作のひとつに数えられる詩に「子夜呉歌」と題された詩が。長安を舞台にした詩だが、そこに玉門関が登場する。
長安 一片の月
万戸 衣をうつの声
秋風 吹き尽くさず
総べてこれ玉関の情
いずれの日か胡虜を平らげて
良人は遠征を罷めん
妻は、長安に残され、月を見、砧の音を聞き、秋風を肌に感じている。そうした総てが、玉門関を越えて遠征をしている良人への想いに繋がる。
長安の妻にとって、玉門関は、余りに遠い。
<陽関址>(ようかんあと)
敦煌の南西六十五キロ。漢の時代に設けられた関である。玉門関の陽(南)に位置するので陽関という。玉門関が西域北道への起点であったのに対して、陽関は西域南道への起点であった。
しかし、唐代には玉門関は、敦煌の東に移された。そのため、唐以降は、西域への道はすべて陽関経由になり重要度を増すことになった。
今残っているのは、烽火台の址で、陽関そのものは沙漠の中に埋もれている。
唐代の詩人・王維の詩は有名である。
渭城の朝雨軽塵をうるおし
客舎青々柳色新たなり
君に勧む更に尽くせ一杯の酒
西の方,陽関を出ずれば故人無からん
三蔵法師玄奘も、インドからの帰途にこの関を通っている。
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