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吉林
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===吉林省===
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《吉林市》(きつりん)
 長春から東に70キロ。吉林省の中央部にある。満州語で「大きい川沿い」の意味。町の中を松花江が湾曲して流れる。しっとりとした美しい町である。また、冬の樹氷の美しさでも知られる。

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<阿什哈達摩崖>(アシハタまがい)  吉林市の市街東南15kmの阿什哈達屯、松花江の北岸にある、明代の2つの摩崖文字碑。
 碑文には、明代の遼東都指揮司使劉清が3回軍を率いて当地を訪れ、1回目の時に竜王廟を建立し、また、造船総兵官を兼任していた3回目にそれを改修したことが記されている。
 吉林市が明朝の造船・運糧基地で、黒竜江流域の統治と東北の開発に重要な役割を果たしたことを裏づける。

<猴石山遺址>(こうせきざんいし)
 吉林市の北方2kmの山にある戦国時代の住居跡と墓地。松花江に臨む西側に猿がうずくまるようた形の岩があるので、猴石山という。
 1万8000uにわたって山を取り囲むように100余りの住居址が点在する。住居は半地下式の竪穴住居で、長方形のものが多く、面積は20〜30u。石斧、陶製の鼎、紡車、網の錘などの石器、陶器が大量に出土し、少量ながら小型の青鋼器も出土。東北方500mに墓地があり、いずれも左右両側に石を積み、頭と足の部分に石板を立て、石板で覆った長方形の石棺。副葬品には生産・生活用具が多いが、少量ながら装身具もあり、貧富の分化と男女の分業を反映する。
 紀元前5世紀前後、この地域に農業や漁猟を営む村落が密集していたことを物語る。

<竜潭山高句麗山城>(りゅうたんざんこうくりさんじょう)  吉林市東郊の竜潭山にある。登って遠望すると、全市を俯瞰することができる。高句麗が4〜5世紀前後に築いた山城で、周囲は約2400m。 城壁の高いところは10mを越え、高いところから下を見下ろし、守りやすく攻めにくい。
 西北隅の低地にある竜潭(りゅうたん)は泉水を貯めた貯水池で、青く透き通り、月が中空にかかると水面に映るので、「竜潭印月」の名がある。泉水を利用して造った貯水池であろうと推定されている。
 また、西南隅の高台に「旱牢(かんろう)」と呼ばれる花崗岩で築いた円形の穴がある。周壁は削ったようにみえ、直径10.6m、深さ3m。「旱牢」という呼び方からは、牢獄のように想像されるが、実際には物資の貯蔵庫であったと思われる。

<烏拉古城>(ウラこじょう)
 永吉県鳥拉鎮の北方250mにある女真族の古城。
 この地の女真族は、明代に海西女真と呼ばれていたが、その中の烏拉部の所在地であった。
 烏拉部は明代末から勢力を伸ばし、この烏拉城を中心に吉林一帯を制圧していたが、万暦41年(1613)正月に南方の建州女直のヌルハチ(のちの清の太祖)と決戦を行し、烏拉軍は大敗を喫し、将兵の6〜7割が戦死し烏拉部は滅亡した。
 古城は三面を山に囲まれ、一面が河に臨み、内・中・外の三重の城壁をめぐらし、四隅に角楼を築き、城外に濠をめぐらす。城内に白花点将台という長さ50m、幅28m、高さ7mの版築の高台があり、瞭望台のように城外の山野河川を一望できる。

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《長春市》(ちょうしゅん)
「満州国」の時代には新京と呼ばれ首都であった。その時代の建物の多く残っている。革命後、長春を有名にしたのは、高級国産車であった紅旗号製造した「長春第一汽車製造廠」と「長春映画撮影所」であった。

<旧・満州国皇宮>(きゅう・まんしゅうこくこうきゅう)
 長春市の東北隅にある。
「満州国」皇帝に立てられた清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(1906〜67)の宮殿であったところ。敷地は4万3000u。
 皇宮は内廷と外廷に分れ、内廷は溥儀とその家族が日常生活を営んだところで、外廷は溥儀が政治活動を行ったところ。内廷は東西両院に分れ、西院に緝煕楼、東院に同徳殿があり、中和門から表を外廷と称し、勤民楼・懐遠楼・嘉楽殿などがある。
 内廷の緝煕楼(しゅうきろう)は、平凡な2階建ての建物で、楼名は『詩経』に由来する。溥儀と后妃が生活をしたところ。
 同じく内廷の同徳殿(どうとくでん)は溥儀が政務処理を行うべく立てられたが、盗聴を恐れて溥儀自身は利用しなかった。命名は溥儀が「日満一心一徳」を表したもの。
 外廷の勤民楼(きんみんろう)は、皇帝即位や外国の使節接見を行った建物。1931年に溥儀が「即位の大典」を行ったのも、1932年に国連のリットン調査団に接見したのも、1933年に「日満議定書」に調印を行ったのもここである。
 また、懐遠楼(かいえんろう)には、賜宴を行うホールや溥儀に仕えている役人が詰所があった。
 嘉楽殿(からくでん)は同徳殿の北にあり、皇宮内で最も新しく1940年に完成。満州国が大規模な宴会や賜宴を開いたところである。
 現在、東院は吉林省博物館として一般に公開されている。

<長春映画撮影所>
 かつては「満映」と呼ばれた。李香蘭がデビューをしたのもここからであった。革命後は「白毛女」「苦恋」「人、中年に到る」など中国映画を代表する作品がここで作られた。
 最近は中国も映画は斜陽の傾向にありかつての活気は失われつつある。それでも、なかに映画村もあり見学をするに楽しいことにかわりはない。

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《延辺朝鮮族自治区》
《延吉市》えんきつ
 吉林省の東部、延辺朝鮮族自治区の区都である。市街区の人口は25万人、このうち朝鮮族は60%を占める。家屋の形も、朝鮮族のそれは漢族とは違い、丸みを帯びた優しい造りになっている。市場に行くと、キムチ、鱈の乾物などが溢れていて、売り手も買い手も朝鮮語という他の町とは異なる雰囲気を醸し出している。
 また、朝鮮族の聖地、長白山登山の足場にもなっている。

<城子山山城>(じょうしさんさんじょう)
 延吉市の東、城子山にある。
 女真族の蒲鮮万奴(?〜1233)が金末の混乱に乗じて自立し築いた石城。1233年にモンゴル軍が山城を攻略し、蒲鮮万奴を捕え、滅亡した。城壁の周長は6700mで、城内には建造物の遺跡と整然と並ぶ礎石が残る。

<敖東城>(ごうとうじょう)
 延吉の北西144キロ、敦化市の東南隅にある。牡丹江に臨み、渤海国の都城であった。
 渤海は聖暦元年(698)にに建国し、はじめは振国(震国ともいう)と称していたが、先天2年(713)に唐朝から左驍衛大将軍渤海部王に封ぜられ、はじめて渤海と称し、当地を都とした。のち8世紀中期に、上京竜泉府(黒竜江省寧安県の東京城)に遷都した。敖東城は内外両城に分れ、内城は方形、外城は長方形。西に扶余府(現・農安県一帯)、東に東京城に連なる道がそれぞれ通じ、渤海国(713〜926)初期の政治・経済・文化の中心であった。

<六頂山渤海墓群>(ろくちょうざんぼっかいぼぐん)
 敦化市の県城南5km、牡丹江右岸の六頂山の南斜面にある。渤海国(713〜926年)前期の王族の墳墓。
 六頂山は6つの山峰が東西に起伏して連なり、最高峰は標高603mで、そこから東南に延びる谷の両側に石室封土の墓が80余りある。1948年に発掘調査した貞恵公主(第3代の王大欽茂の次女)の墓からは、陶器・玉壁・金銅製装身具・墓碑が出土。墓碑には楷書で700字余りが陰刻され、780年の銘がある。渤海国では漢字が使われ、書法に習熟していたことを裏づけ、きわめて重要な資料である。

<長白山>(ちょうはくざん)
 朝鮮族発祥の地といわれ、朝鮮族にとっての聖地である。延吉からは109キロ。標高が高くなるに従って、リンゴ園から朝鮮人参畑。朝鮮人参畑から白樺の林へと、風景も変わったいく。
 朝鮮名は白頭山。海抜は2000メートル。頂上にあるカルデラ湖・天池は青々とした水の色といい、透明度といい、曰く言い難い神秘性がある湖である。山の四周から百泉を発し、松花江、図們江、鴨緑江の三河川も水源はここにある。

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《集安市》(しゅうあん)
 吉林省の南部、鴨緑江の西岸にある。人口22万。広開土王の一生を記した広開土王碑など高句麗の歴史研究所、重要な文化財が多い。

<丸都山城>(がんとさんじょう)
 集安県の県城西北2.5kmの尾根にある。
 西暦3年に築いた高句麗朝前期の都城の守城で、平時は武器や糧秣を貯え、戦時は峻険な地勢によって固守する。
 現在は山城子山城とも呼ばれ、周長7km。城壁は切石で築き、東面の完全なところは高さ6m。頂部は広い通路になっていて、外側に姫垣を築く。城内には瞭望台・貯水池と大規模な宮殿址があり、東部の宮殿址は斜面沿いに2段に築かれ、礎石が整然と配されている。瞭望台は中央の山地の南端に位置し、高さ約7mで、渓谷の景勝を一望することができ、高句麗の墳墓が規則正しく並ぶのを俯瞰でき、きわめて民族色に富む。

<広開土王碑>(こうかいどおうひ)
 集安県の県城東北5kmにある。
 414年に第19代の広開土王を記念して建てたもの。広開土王は名を談徳、号を永楽太王、諡(おくりな)を広開土境平安好太王といい、この碑は俗に永楽太王碑・好太王碑ともいう。
 高さ6.12m、幅1.40〜1.85mの四角柱の自然石で、碑文が四面に彫られ、1行41字で44行、あわせて1800字余り。まず高句麗の建国神話を記し、ついで64城と1400余りの村を攻略した永楽太王の業績をたたえ、最後に330戸の「国煙」と「看煙」、つまり墓守の割当情況を記す。文中には「倭国」(日本)に関する記述も見られる。きわめて豊富な内容で、内外の学者から重視されている。

<国内城>(こくないじょう)  集安県の鴨緑江畔、通溝河との合流点の東側にある。
 高句麗朝初期の国都。高句麗の国都ははじめ現在の遼寧省桓仁県にあったが、第2代の琉璃明王が、当地が地形峻険・土地肥沃・資源豊富で国都に適していると聞き、みずから巡視し、西暦3年に当地に遷都するとともに、尉那巌城(当城の守城、つまり丸都山城)を築いた。それ以後、長期にわたって高句麗の政治・経済・文化の中心であったが、427年に平壌に遷都した。
 長方形を呈し、周長2713m。城壁は花崗岩の切石を積み上げ、底部の幅が約10mで、現在の高さは3〜4m。南北にそれぞれ1つ、東西にそれぞれ2つ、あわせて6つの門があり、甕城を付設。四隅に角楼を築き、一定の間隔をおいて城外に突出する出丸を設け、監視と城壁に肉迫した敵への反撃ができ、古城の厳然たる防御体制を顕示。

<高句麗古墳>(こうくりこふん)
 集安県の洞溝河の河畔にある高句麗代の古墓。整然と並び、規模が大きく、墓群は30ヶ所余り、墓の数は1万ちかくもある。
 外形から築墓と封土墳に分かれる。
 集安の県城から鴨緑江を少しさかのぼると、高句麗第19代の永楽太王談徳(広開土王・好太王)の王陵で最大規模の太王陵や「東洋のピラミッド」と称えられる将軍塚がある。また、五?墳五号墓(ごかいふんごごうぼ)・三室塚・舞踊塚・角抵(かくてい)塚・長川一号墓などの壁画古墳がある。
 壁画古墳は集安一帯で現在20基ある。主題は高句麗の社会風俗や墓主の生前の生活、四神図、仏像、神霊、動物など多岐にわたり、4〜6世紀にかけて製作されたと思われる。なかでも、長川一号墓の前室天井の拝仏図と前室北壁の百戯伎楽狩猟図は内容が豊富で興趣に富み、興味深い。 高句麗古墳の副葬品の多くは盗掘されて少ないが、太王陵出土の「願太王陵安如山固如岳」と記した文字磚は高句麗の磚焼成技術の成熟を示している。

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《農安県》(のうあん)
 長春の西北70キロ。漢の扶余国の地。北魏の時代には高句麗の地となったが、唐になると高句麗を滅ぼす。のち渤海の地となる。

<農安遼塔>(のうあんりょうとう)
 農安古城(遼代の黄竜府の所在地)にある。遼の聖宗時代(983〜1030)の建立。高さ33m余り・八角13層の磚塔。頂部にはかつて宝頂・風鈴・銅鐸があって、風が吹けば快い音を響かせ、余韻が漂い、遠近ともに楽しむことができたが、長いあいだ手入れがされておらず、破損しているものが多い。
 1953年に改修を行った際に、塔上の磚室から2体の銅仏とともに、陶製の香箱と香炉、銀製の円形小箱と仏像を線描した銀牌を発見。なかでも陶製の香箱と香炉はきわめて精緻な出来で、遼代陶器の研究に不可欠の資料。

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