目次
武漢
宜昌
当陽
荊州・沙市
襄樊
武当山

===湖北省===
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《武漢》(ぶかん)

 武漢は湖北省の省都。湖北という省名は、洞庭湖の北の意。
 武漢は、長江の中流域に、長江と長江最大の支流である漢水の交わる地点に開けた町。武昌、漢陽、漢口のかつて武漢三鎮と呼ばれていた三つの地域を、1949年、統合してできた都市である。
  漢水は陝西省の秦嶺山脈に源を発し、水量の多さでは黄河をしのぐと言われる。全長、1532キロ。中国最大の河・長江と長江第一の支流・漢水の交わるところ。非常にスケールの大きな町で、古来より水陸交通の要衝であった。内陸の港町としては、最も栄えた地域のひとつである。
 武漢三鎮のうち、最も賑やかであったのが漢口。主な商業区は今もここに集中している。武昌は教育区、大学が集中している。漢陽は風景区と言ったらよいだろうか。風光の明媚さにおいてたの二つの鎮にまさる。
 この一帯は、古代荊楚文化の発祥の地。残された文物は馥郁たる古代楚の文化の味わいを今に伝えている。
 近代においては、西洋列強の租界が置かれ、今でもイギリス、フランス、ロシアなどの租界の時代の石造りの洋館の街並みが残る。
 日中戦争時代、首都であった南京を日本軍に攻略された蒋介石は、重慶を臨時首都とし、実際の首都機能を武漢に置いた。その武漢も、1938年、陥落され、すべての首都機能を重慶に移すことになる。日本軍は、その重慶に対し爆撃による攻撃を繰り返したが、その基地としたのが武漢であった。

<黄鶴楼>(こうかくろう)
 長江を跨ぐのは武漢長江大橋。橋の、南北のたもとにひとつずつ山がある。南岸、武昌側にある山を蛇山という。北岸、漢陽側にある山を亀山という。黄鶴楼は蛇山の上に建つ。
 創建は、三国時代の呉の時代。劉備の蜀の軍と孫権の呉の戦争として「夷陵の戦い」は有名であるが、それは西暦221年。黄鶴楼は、その二年後、呉によって劉備に備える物見台として造られたのがはじめとされる。
 その後、破壊と再建が繰り返えされ、現在の建物は1981年に工事を開始し85年に完成した六代目である。
 黄鶴楼に関する伝説は多いが、多くは鶴にまつわるものである。姿そのものに鶴を連想させる要素があるのであろうか。それらの伝説に題材をとった詩文も多く残されている。最も優れているとされるのは唐の崔(さいこう)の作品である。

昔人すでに黄鶴に乗りて去る
此地に空しく余す黄鶴楼
黄鶴 一たび去りてまた返らず
白雲千載空悠悠
(以下略)

 なお、黄鶴楼をしばしば「江南三大明楼のひとつ」などと言われるが、その際の他の二つは、藤王閣(江西省)と岳陽楼(湖南省)。

<帰元禅寺>(きげんぜんじ)
 創建は清の順治年間。古い寺ではない。それでも、規模は湖北省で最大を誇る。
 この寺の見所は、五百羅漢。ひとつひとつが丁寧に、そして表情豊かに造られている。それが、五百体、ずらっと並んだ様子は壮観である。

<東湖>(とうこ)
 湖北省は湖の多い省として知られる。「千湖の省」などと呼ばれる。武漢市も湖は多い市である。「百湖の市」と呼ばれる。そのうちの代表的な湖が東湖である。
 面積が33平方キロメートルと非常に広大な湖である。湖を取り囲むように道があり、また、湖の中を堤のように渡してある道もあり、静かな散策を楽しめる。
 湖北省は、戦国七雄の時代の楚の国である。東湖の西岸には楚の国の憂国の詩人・屈原の記念館が建つ。また、そのすぐ隣には、屈原の「漁夫」のなかの「沢畔に行吟す」という一文より命名された楼閣が建つ。

<湖北省博物館>(こほくしょうはくぶつかん)
 東湖の近く。省内から発掘されたものを中心に二十万点に及ぶ文物を所蔵している。特に、湖北が戦国時代の楚の文化の中心地であったことより、楚に関わる文物には注目に値するものが多い。
 1977年、武漢の西北にある随州で紀元前430年頃の諸侯の墓が発見された。「曽侯乙」という人物の墓である。多くの出土品があった中で特に注目されたのが編鐘である。編鐘というのは古代の楽器で西洋で謂うカリヨンに当たる。曽侯乙の墓から発掘された六十五鐘からなる編成で大変規模の大きなもの。博物館では、その複製品による演奏を行っている。

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《宜昌》(ぎしょう)
 長江の三峡を上流から言うと、瞿塘峡、巫峡、西陵峡。その最後の西陵峡を出たところにある町が宜昌である。長江の上流域と中流域の接点にあり、古くから水運、軍事の要衝として知られてきた。
 古くは夷陵と言われた。三国時代、劉備玄徳が関羽の仇を討つため呉を攻め、却って大敗を喫し白帝城に逃れる。その戦役は「夷陵の戦い」と呼ばれるが、その「夷陵」が今の宜昌である。
 現在は、新三峡ダムの町として知られる。


<三峡ダム>(さんきょうだむ)
 2009年に完成予定のダム。完成すれば世界で第一の規模をもつダムになる。ダム湖の総貯水量は393億立方メートル。日本最大のダムは奥只見ダムでその総貯水量は6億立方メートルである。スケールの大きさが知れよう。
 一部、貯水は2003年より開始されている。
 このダムの建設で上流の多くの村が水没することになる。移住を余儀なくされる人の数は100万を超える。影響を受けるのは住民のみならず、多くの文化財、遺跡、野生動物・植物にも及ぶ。環境保護の面からの反対もあり、賛否両論あるなかで、92年の全国人民代表大会で決議をし、94年12月から正式に着工をした。しかし、92年の全国人民代表大会は、大会出席者の約3分の1が反対または棄権に票を投じるという異例の事態の中での決定であった。

<三遊洞>(さんゆうどう)
 西陵峡の東側の岩山に掘られた洞窟。唐の詩人の白居易が、友人、弟の三人でここを訪れ、一首ずつ詩を作ったことより「三遊洞」という。西陵峡の最後、長江の流れの美しいところで古くから多くの詩人が訪れる場所であった。
 のちに、宋の時代、また別な三人がやってきている。蘇洵、蘇軾、蘇轍の父子。もちろん詩を作った。
 この二組を区別するために、前者を「前三遊」、後者を「後三遊」という。  

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《当陽》(とうよう)

<長坂坡>(ちょうはんは)
『三国志演義』の第四十一回、「劉玄徳、民をたずさえ江を渡り、趙子竜単騎にして主を救う」の段の舞台が当陽である。
 劉備玄徳は荊州を追われ、十数万の避難の民と三千の軍隊で南の江陵へ向かう。
 それを急追するは曹操。追い付くのが長坂坡。ここで、趙雲(子竜)は、はぐれた劉備玄徳の乳飲み子・阿斗を抱いてを陣中に探し、さらには懐に抱え、囲みを血路を切り開いて生還するという活躍をする。
 その様子を高見から見ていた曹操をして、「虎のようだ」、と驚嘆させる、『演義』ひとつのクライマックスである。

<関陵>(かんりょう)
 関羽の陵墓である。これも『三国志演義』。四川を手に入れた劉備玄徳は、関羽に東の守りをさせる。すなわち、長江沿いの荊州に城を築かせここ守らせる。張飛には北の守りを。嘉陵江沿いのろう中に城を築かせる。
 ところが、関羽は、曹操と孫権の挟み撃ちにあい、孫権に捉えられる。武勇を惜しむ孫権は降伏を勧めるが関羽はキッパリと拒否。首を刎ねられることになる。享年五十八歳であった。

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《荊州・沙市》(けいしゅう)

 戦国時代の楚の国の渚宮(長江に面した離宮)が置かれていた。当時の楚の都は、荊州の北5キロの紀南城であったという。
 秦が楚を滅ぼしてからは、秦により江陵と名付けられた。
 李白の詩に謂う、「千里の江陵一日にしてかえる」の「江陵」はここである。すなわち、白帝城から三峡の急流に乗り一日で駈け下ったことを言っている。
 荊州は、また、劉備ゆかりの地でもある。劉備は一時曹操と手を組んだ時期もあったが配下に留まることを嫌い許昌を出る。落ち着いたところは荊州。皇室の一族である劉表を頼った。彼はここに四年ほど過ごすが、その間、曹操と袁紹は死闘を繰り返していた。ある時、宴会の席で厠に立つ。そこで両足の内股についた「髀肉」をみて愕然とする。戦場に馬を駆ることをしなくなってはや数年。こんなところに肉が付いてしまった、と。
「髀肉の嘆」が嘆かれたのは荊州においてであった。

<荊州古城>(けいしゅうこじょう)
 今残る城壁は、周囲九.三キロ、高さ八.八メートル、厚さは約十メートル。清の順治三(一六四六)年に再建された。
 城壁としては、三国時代蜀の将軍関羽が土城を築きいたのが始まりである。その後、煉瓦製になったのは、南宋の時代。
 戦国時代、楚の都が紀南城であった時は、船着き場であった。
 城壁がこれほどきれいに残っている都市は、中国全土でもそれほど多くはない。

<荊州博物館>(けいしゅうはくぶつかん)
 城壁の中にある。春秋戦国時代の楚の時代の文物の展示が多い。楚の国の都であった紀南城の址には数多くの墳墓が造営された。それらから発掘されたものが展示されている。中原とは明らかに異なる民族、文化がここに栄えていたことが実感できる展示である。
同じく紀南で発掘された前漢時代の男性のミイラも展示されている。

<紀南城址>(きなんじょうし)
 荊州古城から北へ5キロの地点にある。春秋戦国時代の楚の国の都城であった。
 楚は、長江の南に独自の文化と国とを築き、周中心の秩序とは一線を画する形で国造りをしていた。中原の大国とも対立をつづけ、春秋時代を通じて常に国際社会における台風の目のような存在であった。
 春秋末期には新興の呉や越の攻撃をうけ、一時は滅亡の危機を迎えるが、呉と越の消耗戦、その後の越の滅亡などを経て、ふたたび南方の強国として甦ってきた。戦国時代には、「戦国の七雄」のひとつとして強勢をほこった。長江中流域の豊富な資源が国を支えていたのであろう。
 また、文化的にも、荊州博物館を見れば分かるが、中原の文化とは別様な文化を持っていた。前222年には秦に滅ばされるが、のちに秦を滅ぼすのは、楚人・項羽であったというのは偶然なのか蓋然なのか、歴史の面白いところであろう。
 項羽に限らず、屈原にしても呉子胥にしても、楚の人には根深い執念、激情的な情熱を感じさせる人が多い。
 紀南城に都が置かれていたのは、紀元前689年から278年の400年余りであった。土で盛られた城壁の跡が残る。また、古墳の数は三千に及ぶと推測されている。

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《襄樊》(じょうはん)

 漢水は長江第一の支流。秦嶺山脈に源を発し武漢で長江に流れ込む。 襄樊はその漢水流域の町。かつては、河の北側を襄城、南側を襄陽と呼んでいたが、解放後襄樊として一つの市になった。
 諸葛孔明が隠棲中のところ劉備玄徳に見出される「三顧の礼」の舞台でもある。

<襄陽城>(じょうようじょう)
 創建は漢代。後漢の末に、荊州を治めていた劉表がここを居城とした。劉備玄徳は、一時身を寄せていた曹操の元を離れ、やがて頼ってゆくのが劉表であった。そんなことから『三国演義』にもたびたび登場することになる。
 現存する城壁は周囲が7.5キロ。高さは8メートル。北側は漢水に望み、その他の三方はお堀に囲まれている。その堀は最も寛い箇所で250メートルある。

<米公祠>(べいこうし)
 北宋の書家米フツ(くさかんむりに市)を祀るほこら。北宋の四大書家といわれるのは、米フツ、蘇軾、黄庭堅、蔡襄。この中でも最も市中で人気が高かったのは米フツ。それだけに、後世、ニセモノも最も多く出回っている。書のみならず、水墨画においても独自の画風をもって知られる。
 ほこらが建てられたのは元代。現在のものは清代の再建。米フツの書碑を三十余り、そのほか黄庭堅、蔡襄などの書碑も保存されている。

<古隆中>(こりゅうちゅう)
「三顧の礼」の舞台である。諸葛孔明はこの地で学を積み、隠棲をしていた。
 曹操に追われて荊州の劉表のもとに身を寄せていた劉備玄徳は新野に駐屯中に徐庶から諸葛孔明のことを聞く。「臥龍」であると。天下を獲るうえに欠かせぬ人材とみた劉備玄徳は隆中に諸葛孔明を訪ねること三度、ようやく彼を配下に加えることがかなう。
 その後の『三国演技』は、劉備玄徳、関羽、張飛の侠気に加え、諸葛孔明の劉備に対する忠誠と活躍を太い縦糸に加えて展開されることになる。
 三顧堂、武侯祠、草蘆亭などが建ち並ぶ。

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《武当山》(ぶとうざん)  道教の聖地である。別名太和山あるいは仙石山とも呼ぶ。一つの山ではなく周囲400キロの中に峰峰が連なる地域をいう。武当七十二峰という。
 漢代以降、道士の修行の場となり、この山を神仙の地として、神通力をもった神仙になるための修行、あるいは、神仙の思想に基づいた不老不死の薬が探索が、二千年にわたりなされてきた。
 伝説には、道教の真武大帝が仏教の無量仏と法力を競い勝利した地という。歴代の有名な道家が多く修行をした。如謝允、呂純陽、寂然子、張三豊など。
 玄岳門、復真観、元和観、遇真宮、紫霄宮など大規模な道教建築がのこるが、それらは元の戦火で消失したものを明代に永楽帝によって再興されたものである。
「五里ごとに一庵、十里ごとに一宮、壁は赤く瓦は青く、望めば玲瓏」と言われたかつてを偲ばせる。

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