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===江蘇省===
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《南京》(なんきん)
南京は江蘇省の省都。長江南岸に開けた町。中国でも有数の大都市である。歴史も古く、中国四大古都のひとつ、などいう言い方もされる。長安、洛陽、南京、北京を指す。
三国時代、孫権が都をおいた建業とは今の南京を言う。南北朝時代には、南朝の東晋、宋、斉、梁、南唐などがここを都としている。また、朱元璋が元を倒したとき、帝都としたのも南京であった。北京に遷都をするのは三代の永楽帝の時代であるが、その後も北の都・北京に対応する南の都として反映を続ける。南京の名が付けられたのは、このときからである。
近代においても、孫文が中華民国臨時政府の都をおき、蒋介石も中華民国の都をおく。
<南京博物院>(なんきんはくぶついん)
オープンは1933年。中国でも最も早い時期に開設された博物館のひとつである。現在中国には数え切れないほどの博物館があるが、「博物院」と名付けられているのは、北京の「故宮博物院」とここだけである。格の高さが知れる。
特に書画の収蔵は凄い。江蘇省の辺りが明、清時代絹織物や塩の専売で大変な繁栄を築き、大パトロンの元に才能ある書画の作家が雲集をしたという経緯もあり、沈周、文徴明、唐寅、仇英、金陵八家、揚州八怪などの貴重な作品を多く揃える。
また、もう一つ南京博物院が異彩を放っているのは、所謂「南遷文物」といわれるものの存在である。
1933年、日中戦争の戦火を避けるために、北京の故宮から大量の貴重な収蔵品が南京博物館(当時は中央博物院)に運ばれてきた。その数、木箱で二万個と言われいる。やがて、南京にも戦火は及ぶ。文物は再び移送される。多くは、四川省・重慶に運ばれた。
戦争が終わり、文物はほぼ完全な形で南京に戻るが、その後の国共内戦の混乱の中で、三千箱が台北に運ばれ、七千箱が北京の故宮博物院に戻された。現在、台北の故宮博物院で展示されているのは、これである。
残りの一万箱が南京博物院に残されたと言われており、これを「南遷文物」と言う。
<中山陵>(ちゅうざんりょう)
孫文の陵墓。
孫文は、中国革命の指導者。号は中山。広東省出身。清朝打倒のため、一八九四年興中会を組織。一九◯五年、東京で中国革命同盟会を結成して、民族の独立(民族主義)、民主制の実現(民権主義)、地権平均・資本節制による経済的不平等の是正(民生主義)の三民主義を主唱した。1911年には、辛亥革命により、清朝が倒れ、南京で中華民国臨時政府が樹立。孫中山は臨時大統領に就任。
1925年、「革命未だ成らず」の言葉を残し逝去。波瀾万丈の生涯であった。
逝去したのは北京であった。北京の中山公園でしばらく安置したのち、1929年、当時の首都であったこの地へ移された。
緑の囲まれた陵園の奥に祭堂がある。青い瓦と白い壁。国民党の党旗でもある青天白日をあらわしている。祭堂に至る階段は392段。祭堂の奥に大理石の臥像があり、そのしたに孫文の遺体が安置されている。
<明孝陵>(みんこうりょう)
明の初代皇帝・洪武帝(朱元璋)の陵墓。皇后・馬氏との合葬。陵は市の東の郊外、紫金山の南麓にある。北は鐘山に依り、木々が鬱蒼と茂り、古代より「紫気の漂うところ」と言われた地である。
造営の工事は三十余年に及んだ。規模は壮大で、配置は「北斗星の図を描く」と言う。それでも、幾たびかの破壊を経て、現在残るものは、碑亭、参道、碑殿、方城、明楼などである。
特に印象的なのは参道であり、十二対の石獣と四対の石人が並ぶ。その先に直径400メートルの円形の墳墓がある。
朱元璋は農民の子から、紅巾の乱を舞台に、成り上がり、南京に明を建てると、「中華の回復」を旗印に元を攻め、北京を占領し、残存の勢力をモンゴル高原へ追いやる。こうして、さしもの強大さを誇った元も、歴史の舞台から消えてゆくことになる。
洪武帝が死ぬとその孫の建文帝が後を継ぐが、洪武帝の第四子の燕王が反乱を起こし、四年の内乱の末に勝利する。これが、第三代皇帝・朱元璋である。朱元璋は都を北京に遷都、以降、明の皇帝の陵墓は北京郊外の「明の十三陵」に造営されることになる。
<中華門>(ちゅうかもん)
明の時代に造られた南京城は周囲34キロ。その正門が中華門である。特徴のある城門で、それ自体がひとつの城のようになっている。東西90メートル、南北128メートルの城によって防御された城門である。
城の南にある。城の西は長江。東と北は紫金山。南京を巡る攻防は、常に、この中華門を挟んでの攻防であったという。
<夫子廟>(ふうしびょう)
夫子廟とは孔子廟のこと。秦淮河の畔に建つ。
長江を上り下りする船は秦淮河を遡って城内に入る。船着き場は、江南きっての歓楽街であり、両岸には赤い灯青い灯をともした酒楼が建ち並んでいた。
唐の詩人・杜牧の詩に「秦淮に泊す」という詩がある。
煙は寒水を籠め 月は沙を籠む
夜 秦淮に泊して 酒家に近し
商女は知らず 亡国の恨みを
江を隔てて猶唱う 後庭花
「後庭花」とは、南朝の陳国の皇帝が自作をした歌である。当時、北では煬帝の隋が日に日に強大になりつつあった。陳の滅亡は誰の目にも時間の問題であった。そういうなかでも陳の宮廷では毎夜歌舞音曲に明け暮れ、皇帝みずから歌を作って官女に歌わせる、という状態であった。そのうたが「後庭花」。亡国の音である。
詩の意味は、おおよそこうなる。
川面に靄がたちこめ、岸の砂に月の光が朦朧としている。船を泊めると近くに酒楼があり、妓女が艶っぽく歌を歌っている。聞くとあれは後庭花ではないか。妓女たちは歌のいわれも知らないのだろう。
歓楽と亡国の音をひとつに溶かして秦淮の水が赤や青の灯りを水面に映しながら揺れている様子を描いて見事である。
その秦淮河を取り囲むように明清時代を模した民家群が建つ。夫子廟もその一角にある。
秦淮河は、長江の支流。古くは龍蔵浦、後に淮水と呼ばれた。秦淮河と名が付けられたのは秦以降である。この名が、広く世に知られるようになったのは、上に挙げた「秦淮に泊す」によってである。
秦淮河は、まさに、南京の文化の揺籃であり、六朝から明清に至るまで、夜ともなると明かりを灯した舟が行き交い、文人が才を競い、妓女が娟を競う地であった。
また、ここには、科挙の地方選抜試験である郷試を行うための貢院があったところでもある。寝具や炊飯道具を持ち込んで、独り用の小部屋に籠もって答案を練る。南京の貢院はその独り用の小部屋を二万室擁していたという。その様子が、蝋人形で再現されている。
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《揚州》(ようしゅう)
長江の北岸。長江と隋の煬帝により開削された京杭運河が交わるところにある。唐代には国際貿易港としてさかえ、遣唐使やアラビア商人が来航した。当時の遣唐使は、寧波を目指し、そこから長江を遡り、揚州から京杭大運河を北に上り、更には黄河を遡って長安へ向かった。阿倍仲麻呂も空海も立ち寄った地である。
元代には、マルコ・ポーロも『東方見聞録』のなかで、揚州の総督を三年務めたと記している(中国側の記録にはないが)。明、清の時代には塩の集散地として商業が繁栄し、その経済力を背景に文化の華を開かせた。
また、日本人に「揚州」の名が知られているのは、李白の詩の「煙花三月 揚州に下る」の一節に依るところも大きいかも知れぬ。
詩の全体はこうなる。
故人 西のかた黄鶴楼を辞し
煙花三月 揚州に下る
孤帆の遠影 碧空に尽き
ただ見る 長江の天際に流るるを
武昌から長江を下り揚州に向かう友人・孟浩然を送る詩である。「煙花」は霞。霞の中に春を迎え柳の新緑が風に揺れ、桃がピンクに咲き、菜の花が大地を黄色に染めている。李白は、そういう揚州を思い描いている。
揚州は経済力を背景にした文化的な華やかさ、「煙花三月」の自然の華やかさ。揚州は、双方を兼ね備えた街であった。
<大明寺>(だいみょうじ)
鑑真ゆかりの寺として知られる。日本への渡航前に講義をしていたのがこの寺であった。
鑑真の生まれは688年。律宗を修め優れた僧として人望を集めていたが、その時期、伝律授戒の師をもとめて唐にわたっていた日本僧の栄叡と普照から日本への渡航を懇願される。
弟子や信者の反対を押し切り、国禁を犯して日本への渡航に失敗すること五度。難破や自らの失明という困難を乗り越え、六度目に成功。日本の地を踏む。唐招提寺を建立し、律宗を日本に伝えた。
大明寺の創建は古く、五世紀である。天王殿、大雄宝殿、平遠楼、晴空閣などの建物を擁するが、すべて清代の再建である。
1973年、鑑真の千二百回忌を記念し、鑑真記念館が建てられている。
<痩西湖>(そうせいこ)
杭州の西湖より少し細い。痩せた西湖、という意味で名づけられた。湖岸には柳が植えられ枝が風になびく様は美しい。特に春は、李白の「煙花三月 揚州に下る」の句を思い出させる。
痩西湖の見所は、柳と五亭橋。五亭橋は、橋の上に五つの亭をもつ珍しくも美しい橋である。造られたのは1757年。
チベット仏教式の白塔もある。これにはこんな言い伝えがある。
清の乾隆帝が揚州へ遊びに来たとき、地元の役人に尋ねた。揚州には白塔があるか、と。地元の役人は、「あります」と答えた。乾隆帝は「それなら明日見に行こう」と言う。実際にはそんなものはない。慌てて特産の塩で白塔を造ってごまかした。その後、本物の白塔を造った、と。
この言い伝えはふたつのことを言っている。
ひとつは、揚州と塩の関係。揚州の繁栄を支えたのは塩の生産、塩の専売であった、ということ。もうひとつは、ここに登場する乾隆帝もそうであるし、隋の煬帝もそうだ。揚州が好きで好きでしょうがない。北京や洛陽から見ると、緑があり水のあり文化があるは別天地に感じられたのであろうか。
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《鎮江》(ちんこう)
長江の南岸。長江と京杭運河が交差するところにある。三国時代には呉の孫権がここに都を置いた。対岸の揚州が経済的・文化的なな華やかさをもつのに対して、鎮江は軍事的な側面での重要性を担ってきた。
アヘン戦争の時の激戦の地でもある。
<金山寺>(きんざんじ)
金山は、かつてはひとつの島であった。長江が運ぶ土砂の堆積で清の時代に陸と繋がった。
島には金山寺が建つ。創建は東晋の時代(265- 419年)。唐の時代に金を産したことから金山の名が付いたという。
日本の室町時代、中国では明の時代、雪舟が当時で修行をしている。金山を描いた「大唐揚子江心金山竜遊禅寺之図」と題された絵が残されている。
必ずしも広いとは言えない境内であるが、そこに数多くの建築群が折り重なるように建てられており、独特な空間を造りだしている。なかでも名高いのが慈寿塔。七層八角で高さは三〇メートル。
また、日本の味噌の元祖、金山寺味噌の由来もここである。鎌倉時代この寺に修行をした覚心という僧が和歌山県に伝えたことに始まる。
マルコポーロの『東方見聞録』は十三世紀の金山をこう伝える。「この町の正面にあたるキアン大江中に岩質でできた一島があり、そこに二百名の僧侶を擁する偶像教の寺院が建てられており、内に数多くの偶像が安置されている。この大寺院は本山寺院であって、その管轄下に多数の塔頭寺院を有しているが、その次第は我々キリスト教徒間の大主教管区のごときものだと思えばよい」。(平凡社・東洋文庫、愛宕松男訳)
<北固山>(ほっこざん)
街の東北に位置する。長江を見下ろす絶好の場所にある。三国時代、呉の孫権はここに城を構えていた。『三国演義』の五十四段は、劉備元徳が孫権に妹との結婚をエサに呉に呼び出されるが、諸葛孔明の策略で無事に妹を得て逃げ帰るという話であるが、その舞台が北固山にあった甘露寺である。
また、頂上への途中には、阿倍仲麻呂の碑がある。
「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」
阿倍仲麻呂は遣唐使として長安を訪れ、科挙の試験にも探花の成績(状元、榜眼に次いで三番目の成績)で合格、玄宗皇帝の寵遇も受け秘書監の高位にまで栄進する。それでも異境にあること三十五年、いつしか望郷の念が胸に宿り、玄宗皇帝に帰国を願いです。ようやく許され、遣唐使の帰国の便に乗り込む。その時の歌が、「天の原……」である。
『古今集』に採られ、添えられた詞に曰く「めいしゅうという所の海辺にて……」とある。「めいしゅう」は「明州」すなわち寧波であるが、この歌の詠まれた場所を鎮江という説もあるのであろう。
さて、船出をした仲麻呂であったが、運は拙く、暴風に遭い遠く安南(ベトナム)へ流されやっとのことで長安に辿り着く。終に望郷の思いを果たすことなく、渡唐五十年、異境の地に没することになる。
<焦山>(しょうざん)
金山、北固山、焦山を合わせ鎮江三山という。
長江の中の小さな島。鎮江は、古来、軍事上の要衝であったが、しばしばその鎮江を巡る戦いの舞台になったのが焦山であった。
近くは、アヘン戦争の時、清はここに要塞と砲台を築き、イギリスへの抵抗を試みた。その時の砲台が現在も残されている。
また、宝墨軒は碑刻で知られる。260に及ぶ石碑が立ち並び、しかも、顔真卿、米フツ、文懲明、鄭板橋などの筆跡が残っている。
<パールバック旧居>(パールバックきゅうきょ)
十九世紀から二十世紀の初頭にかけて、ヨーロッパやアメリカから多くの宣教師が中国へ渡ってきた。パールバックの両親もそんな宣教師の一人であった。
パールバックは『母の肖像』という作品のなかで、両親と暮らした鎮江の思い出を語っている。こんな一文がある。
「揚子江に落ちた者で助かった人は絶無だと言われていた。のどかな漣を立てている下には、逆流が渦巻いている。二、三日おきにサンパンがその渦に巻込まれて沈む。それだのに相変わらず、この危険な江上をさまざまの種類の小舟で不安な往来を続けている中国の人々は、私たちには不可解な宿命観を持っているのだ。
母は揚子江が民衆−−殊にこの長江に依って生活の代を得ている人々−−を苦しめることの多いのを見るにつけても、殊に深い憎悪をその水に対していだかずにはいられなかった。」(新潮文庫、村岡花子訳)
<鎮江博物館>(ちんこうはくぶつかん)
かつてのイギリス領事館の建物をそのまま博物館にしてある。
アヘン戦争の時、清朝に降伏を決断させたのは、鎮江の陥落であった。また、イギリスが、長江流域で最初に開港を要求したのも鎮江であった。
<宋街>(そうがい)
宋の時代の街路、という意味である。宋、元、明、清の古い街並みを残す。西津渡古街ともいう。 かつてのイギリス領事館の北側を東西に延びる道である。
石畳の道。階段も多くある。道に沿って、道の南側に煉瓦造りの二階建ての民家が続く。金山寺へ参詣するための道であったという。今は普通の住宅になっているが、かつては、どの家も一階は店であったという。
街の中程にはチベット仏教の石塔も残っている。
道の北側には家はない。煉瓦の壁になっている。もともと、南側にしか家はなかった。北側は何であったかというと、長江であった。今は、土砂で陸になっているが。
宋街の西の端に、かつての船着き場がある。宋街を歩いてきた人は、ここから船に乗って金山寺に渡った。マルコポーロもそうであった。
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《蘇州》(そしゅう)
上海の西80キロ。北は長江、西は太湖に望む。
戦国時代の呉の国である。2500年前のことである。当時、江南で覇を競ったのは今の紹興に都を置いていた越。両国の戦い歴史は、「呉越同舟」「臥薪嘗胆」などの成語として今に伝えられる。
隋の時代に北京と結ぶ運河が開削されると、物資の集散地、絹織物の生産地として繁栄を続ける。その経済的な繁栄を背景に、文化が爛熟し、「地上の天国」と言われるようになる。絶頂は明、清時代。金持ちが庭園を造営する。パトロンを求めて全国から絵師が集まってくる。酒楼が軒を連ね名妓が輩出する。
蘇州は庭園が多いことで知られるが、一般に中国の庭園は主により三つに分けられる。ひとつは皇帝の庭園。頤和園であり円明園である。二つめは私邸。金持ちや役人が老後の隠棲のために造ったものが多い。三つ目は寺院に付属する庭園。蘇州の庭園は、ほとんどが私邸にあたる。
<拙政園>(せっせいえん)
蘇州四大名園のひとつ。明代に御史(役人の弾劾をつかさどる役職)の王献臣が失脚した際にもともと寺であったこの地を買い取り庭園とした。
「拙政」の名は、晋の詩人・潘岳の「閑居賦」から取ったという。
日本人は、潘岳と聞いてもピンと来ないが、中国では美男才子の代名詞的存在として知らぬ人はいない。「園に灌(そそ)いで蔬をひさぐ。是ももまた拙き者の為政なり」(園に水をそそぎ、野菜を売るのも、拙い者の政治だ)という言葉であるという。
1300年の隔たりがあるが、政争に敗れ引き籠もる心情を「拙政」という言葉に託したことになる。
庭園の特徴は、水を主役にしながら、そこに楼閣や亭を配し、それらを回廊で結んで風景を造り出す技法にある。
<留園>(りゅうえん)
蘇州四大名園のひとつ。明代に徐時泰が造営した東園を、清代の1800年、劉氏が拡張して劉園とした。その後、劉と同じ発音の留に変え、留園と呼ばれるようになった。
総面積は二万平方メートル。楼閣を回廊で結ぶが、その窓は「漏窓」と呼ばれる見事な透かし彫りになっている。白い壁に黒い透かし彫り。また、回廊の壁には、歴代の書家の墨跡が掛けられている。その数350枚。これは「留園法帖」と呼ばれる。
<獅子林>(ししりん)
蘇州四大名園のひとつ。元代の禅宗の寺の庭園。
太湖石で埋め尽くされ迷路のように造られている。
江南の庭園は、例外なく、水と築山から構成される。築山は、土を盛り上げて造られる本当の山であることもあるが、ほとんどが、太湖石を使った象徴としての築山である。その代表が獅子林である。
太湖石とは石灰質の岩石で水中で水の浸食を受け、奇っ怪な形と無数の穴を開けている。太湖に多く産し、それを引き上げて庭に置く。形が奇っ怪であればあるほど珍重される。明らかに日本人のそれとは違う中国人の美意識を感じさせて面白い。
<滄浪亭>(そうろうてい)
蘇州四大名園のひとつ。江南に現存する最古の庭園。創建は、五代十国時代の十世紀というから千年以上も遡ることになる。ただし庭園は年月とともに自然に景色は変わるものであるし、さらには荒廃、戦乱を経ているのでどの程度創建当時の姿を残しているかは明らかではない。現在の姿は、清代の再興を引き継いだものである
滄浪の名が付いたのは北宋時代。屈原の『漁夫』から取られた。追放され詩を吟じつつ沼沢のほとりを歩いている屈原の前にひとりの漁師が現れる。なぜ、このような哀れな境遇になったのか、との問いに「世を挙げて皆濁れるに、我独りすめり」と。漁師は言う。「聖人とは、世が清ければそれに応じて清くし、世が濁ればそれに応じて自分を濁すもの」と。屈原は言う。「新たに沐する者はかならず冠をはじき、新たに浴する者は必ず衣を振るう」、と。漁師は聞くと、笑いながら船端をたたいて去って行く。去りながら歌う。「滄浪の水が清んでいるなら冠のひもを洗えばいい。滄浪の水が濁っているなら足を洗えばいい」。
<寒山寺>(かんざんじ)
南北朝の梁の時代の創建。当時の名は妙利晋明塔院といったが、唐の時代寒山と拾得が住んだとの言い伝えより寒山寺と呼ばれるようになった。
『寒山詩』という漢詩集が唐代より伝わる。天台山に隠れ棲んだ寒山、拾得、豊干の詩集である。「三隠集」ともいう。ということは、実在の人物であったのであろうか。豊干禅師は、しばしば山から虎に乗って自分の庵に帰ってくるという奇行で衆僧を驚かせる。拾得は、豊干に拾われたことからその名があり、拾得が残飯を与えていたんが寒山である。
どこまでが真実でどこからが伝説なのかは分からぬが、詩禅一如に徹した超然とした隠者として人気が高くしばしば禅画の題材とされた。日本でも、森鴎外や井伏鱒二が寒山・拾得を題材にした作品を書いている。
ただ、日本において寒山寺を有名にしているのは、寒山・拾得であるよりも同じく唐代の詩人・張継の「楓橋夜泊」による。
月落ち烏啼きて霜天に満つ
江楓漁火愁眠に対す
姑蘇城外の寒山寺
夜半鐘声客船に到る
<虎丘>(こきゅう)
戦国時代の呉の王・闔閭の墓陵。葬って三日後に白い虎が現れたことから虎丘と呼ばれるようになった。
闔閭が死んだのは越王勾践との戦いに敗れ傷を負ったためであった。闔閭をこの地に葬ったのは息子の夫差。闔閭と夫差と勾践の物語が「臥薪嘗胆」の故事である。
闔閭は死に際し太子の夫差を呼び、「勾践がおまえの父親を殺したことを忘れるな」、という。夫差は、復讐を忘れぬために「薪の上に寝、部屋の入り口に人を立たせておいて出入りのたびに、「夫差よ、越人がおまえの父親を殺したことを忘れたのか」と叫ばせた。
越王勾践は、それを知ると、先手を打って呉を攻めた。夫差は精鋭を発し越を撃つ。越は敗れ、勾践は会稽山に包囲される。勾践は和を請い、勾践夫婦が夫差の奴婢となることを申し出る。
呉の重臣・呉子胥はこの機に越を滅ぼすことを主張するが、夫差は越に買収された宰相のとりなしに従い和議を容れる。
勾践は国に帰ると、熊の肝を離さず、座するときにも臥するときにも立つときにもこれをなめ、苦さの中で「おまえは会稽の恥を忘れたか」と自らに言い聞かせた。
これが「臥薪嘗胆」である。
結果は、それから二十年後、越王勾践は呉を破り、呉王夫差は自刃することになる。
さて、虎丘の上に塔が立つ。雲巌寺塔という。俗称虎丘塔。八角七層で高さは47メートル。宋代の961年に建てられた。四百年ほど前から地盤沈下のために傾いてきており、現在、15度ほど傾いている。
<盤門>(ばんもん)
蘇州は他の中国の都市と同様城壁によって囲まれていた。その城壁の南の城門が盤門である。水の都らしく水路で内外を通じさせていた。盤門は、水門を備え、蘇州を外敵から守る防御システムの要の役割を果たしていた。
城壁がほとんど取り除かれたなかで、残された貴重な遺構である。盤門と城の外の水路に架かる呉門橋と瑞光塔を合わせて盤門三景とという。
盤門の外の水路は京杭運河に通じ、京杭運河は長江に通じ、長江は海に通じていた。
<宝帯橋>(ほうたいきょう)
市内から南へ10キロ。京杭運河に美しい石の橋が架かる。それが宝帯橋である。長さは317メートル。53のアーチが水面の上に半円の描いている。最初に造られたのは唐の時代。当時の刺史が自分の官服の玉帯を売って資金の一部にしたことから宝帯橋と名づけられたと伝える。
運河を遡る船を曳くために造られた橋である。
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《無錫》(むしゃく)
太湖の畔の街。太湖は、は陽湖、洞庭湖に次ぎ、中国で三番目に大きな湖である。広さは2425平方キロメートル。琵琶湖の3.2倍である。
以前は錫の産地であり、錫山の地名を残す。漢代に取り尽くしたことから、無錫の名が付いたと言う。
米作と豊富な水産物で知られ古来「魚米の郷」と呼ばれる。有名なのは、泥人形と太湖石。
<ゲン頭渚>(げんとうしょ)
ゲンは元の下に亀。大亀の意である。半島が太湖に突き出し、それが大亀の頭のたようであることから名づけられた。太湖を眺めるには最適の場所とされる。
<錫恵公園>(しゃくけいこうけん)
錫山と恵山でできている。恵山の麓には十を越える数の泉がわき出ている。そのなかで有名なものは、「天下第二泉」。陸羽がそう評したという。
陸羽は唐の時代の茶学家。茶聖とも茶神とも呼ばれる。『茶経』を著し、お茶の木の栽培から茶の道具、飲み方、歴史まで茶学を初めて体系的に打ち立てた。
因みに陸羽が「天下第一泉」と言ったのは、鎮江の金山にある。
<蠡園>(れいえん)
太湖の水続きの蠡湖の畔に庭園があり、蠡園と名が付けられている。造られたのは1927年。
蠡園と名づけられたのは、ここが範蠡ゆかりの地であるからである。範蠡は越王勾践の謀臣。晩年を西施とここに隠棲し舟遊びなどを楽しんだという。
「臥薪嘗胆」の故事で知られる呉と越の戦いにおいて範蠡の果たした役割は大きい。勾践は夫差を攻めるが逆に会稽山に包囲される。絶体絶命の危機を救ったのが範蠡。夫差の部下に莫大な賄賂を贈り助命を図るはかりごとを授けたり、さらには越の絶世の美女・西施を夫差に献上し夫差を骨抜きにすることを図ったり。これらが成功し、会稽の戦いから二十年後、勾践は夫差を滅ぼすのである。
夫差が滅んだ後の西施の行く末は判然としていない。一節には、上にあるように範蠡と過ごしたことになっている。別な説には、処刑説、国外逃亡説があるという。
<恵山泥人形工場>(けいざんどろにんぎょうこうじょう)
無錫の特産として名高い泥人形の工場。素朴な味わいがある。恵山の山麓から採れる粘土を使い、ひとつひとつを手作りで造る。
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