《済南市》(さいなん)
山東省の省都。黄河の下流域、四千年前に栄えた龍山文化の発祥地のひとつ。春秋戦国時代に斉国の都であった。漢代に済水の南に位置することから済南と呼ばれるようになった。済水はいまは大清河と名を変えたが、黄河の氾濫などで川筋は時代により何度も変遷してきている。
古来より水の都として知られ、町のあちこちに泉が湧く。済南72泉などという。
<山東省博物館>(さんとうしょうはくぶっかん)
市の南、千仏山の麓にある。1955年に新中国初の省クラスの博物館として正式に設立。翌56年に地志的な基本陳列を完成し開館。8000点余りの自然科学関係の標本と13万点余りの革命・歴史関係の文物を収蔵する。
歴史の古い山東省だけに、七千万年前の山東恐竜の化石、四十万年まえの猿人の化石、四千年前の龍山文化の陶器、春秋戦国時代の「孫子」「管子」「墨子」などの古籍など多彩。
<?突泉>(しゃくとつせん)
済南市の西門橋の南方0.5kmにある。
済南は水に恵まれ、「七十二泉」と総称されるほどの良質な泉があるが、?突泉はその第一泉とされる。古くは瀑流・檻泉ともいわれていた。?突泉という名は宋代からのもの。跳躍奔突の意である。
湧き出る水の量は毎秒1600リットルと言われる。量のみならず、水質は芳醇で、お茶をいれるのに適しており、宋代の曾鞏(1019〜83)に「潤沢の春茶 味更に真」の句がある。
伝聞では、清の時代、乾隆皇帝が江南を巡幸するときに、北京から北京の玉泉水を持ち運んできたが、済南でこの泉の水を飲んだ後直ちに水を換えさせた、という。
1956年、付近の名泉・旧跡を含み込む形で突泉公園とされた。豊かな水、それを囲むように建てられている古代の建築群と柳。味わいの深い公園である。
<李清照紀念堂>(りせいしょうきねんどう)
?突泉公園の漱玉泉の北岸にある。
李清照(1084〜1151?)は易安居士と号し、済南出身の女流詞人。詩集に「漱玉詞」がある。詩文と書画に秀で、夫の超明誠(1081〜1129)とともに『金石録』をも編む。特に詞に大きな業績を残し、婉約派の祖。この辺りに暮らしていたという。
1956年の建造で、1980年に改修。宋代の建築様式で造られている。李清照の画像、生前の事績、さまざまな版本の著作を展示。
<大明湖>(たいめいこ)
済南市の旧城の北部にある。
珍珠泉・芙蓉泉・王府池など多数の泉水が流入し、湖面は46.5ha。一年を通じて水量は豊か。北魏の?道元(469〜527)の『水経注』に、城の西南に?水あり、その「北、大明湖と為す」とあるのが、初出で、宋代には四望湖といった。のちに徐々に土砂が堆積して半分が市街となり、金代から現在の城内湖を大明湖というようになった。
湖中にはハスが多く、夏には花が美しい。また、湖畔には亭台や楼閣が多く、蓮や柳とあいまって華麗な景色をなす。杜甫や李白も訪れている。遊覧船での周遊も可能。
?突泉と千仏山と大明湖をあわせて「済南三大名勝」といわれる。
<千仏山>(せんぶつざん)
古くは名歴山といい、済南市の市街南方2.5キロにある。
この地で帝舜(伝説上の皇帝)が農耕に従っていたと伝え、舜耕山ともいう。隋の開皇年間(581〜600)に全山の岩壁に仏像を彫ったので、千仏山と呼ばれるようになった。
海抜285mで、緑が多く、東西にそれぞれ300段前後の登山道があり、渓谷沿いに曲折し、中腹から北を望むと、済南北方の山並みを見渡すことができる。
絶壁の下に唐の貞観年間(627〜649)創建の興国寺があり、境内の千仏崖に隋の開皇7年(587)から唐の貞観年間にかけて彫った多数の仏像がある。崖下の極楽・竜泉・黔婁などの洞穴の壁にも多数の仏像が彫られ、近年その大半を修復。伽藍背後の山上の一覧亭に登って遠望すると、大明湖や黄河を一望することができる。いまは山頂へのリフトも通じている。
<大仏頭>(だいぶっとう)
済南市街の北方3.5km、歴城県の仏慧山の北斜面にある。
岩に高さ7.8m、幅5.35mの仏頭が彫刻されており、これを一般に大仏頭と呼ぶ。製作年代は、北宋の景祐年間(1035)説と唐の天宝年間(742〜756)説があり、まだ確定していない。
<黄石崖>(こうせきがい)
済南市の東南部、螺絲頂山主峰の西側にある。岩肌が黄色いので黄石崖という。
北魏の正光4年(523)から東魏の興和2年(540)にかけて彫られ、山沿いに岩壁と天然の洞窟の中に分布し、大小あわせて19の仏龕と85体の仏陀と菩薩のレリーフがある。保存状態は良好で、芸術的価値も高いとされている。
<千仏崖造像>(せんぶつがいぞうぞう)
歴城県柳埠村、白虎山の絶壁にある。南北65mにわたって大小あわせて100余りの石窟と211体の仏像がある。大半は唐代初期のものである。造像の題記はあわせて43条あり、そのうち年代を記すものは10条ある。
唐の太宗の第三女の南平公主が、顕慶2年(657)に父のためにつくったといわれるものは、千仏崖において最も優美な造像のひとつである。
<四門塔>(しもんとう)
歴城県柳埠村の青竜山の麓、神通寺の遺構の東側にある。建立年代は、隋の大業7年(611)。
塔身は大きな青石を積み上げた単層方形で、高さ15.04m、各辺とも7.4m。四面に半円形のアーチ門が1つずつあるので、四門塔と俗称されてきた。この形式の石塔としては、中国の現存最古。四面に後人の移設した石仏が1つずつある。
<九頂塔>(きゅうちょうとう)
歴城県柳埠村、霊鷲山の九塔寺の遺構にある。唐代の建立。八角単層で高さ13.3m。塔頂に小塔が9つある。南面に仏室があり、木彫の仏陀をひとつ、僧侶をふたつ安置。周囲の壁に壁画が残存。
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《青島》(チンタオ)
山東省の東部にある。南は黄海、西は膠州湾に臨む。かつては小さな漁村にすぎなかったが、光緒24年(1898年)、ドイツが租借し、軍港・商港を開いたことから急速に発展をした。第一次世界大戦中日本が占領をしたが1922年に回復。29年、市となる。
いまでは、市内に残る赤い屋根の洋館と美しい海とにより、海浜リゾートとして内外の注目を浴びている。
<桟橋>(さんばし)
青島湾に石の桟橋が一本突き出ている。長さ400メートル。先にひとつのあずまやがあり名を回瀾閣という。創建は1891年。この桟橋は、ノンビリとした散歩に最適。左手に海を隔ててオレンジ色の屋根の洋館が山の斜面に沿って点在する様子が見渡せる。
<小青島>(しょうちんたお)
桟橋の回瀾閣と合わせ、青島湾の「二粒の真珠」などと呼ばれる。面積120平方メートルの小島だが樹木が青々として美しい。青島の地名はこの小青島から来ている。
<小魚山公園>(しょうぎょざんこうえん>
海抜60メートルほどの小さな山に過ぎないが、青島の市街を見渡すに絶好の場所。海岸からなだらかに続く山の傾斜に並ぶ赤い屋根の洋館と、その屋根の先に広がる海と。最も青島的な風景が手の届くところに広がる。
<八大関景区>(はちだいかんけいく)
かつての外国人や政府要人の別荘地。山海関、居庸関などと長城の八つの関所の名を冠せられた地区に整然と区切られ、そこに立派な洋館が200軒ほど建ち並んでいる。なかには八大関賓館のようにホテルとして使用されているものもある。
<青島ビール工場>
1903年創設の中国初のビール工場。ドイツ人とイギリス人の合弁で造られた。その後、1916年から29年までは、日本からキリンビール、アサヒビール、サッポロビールなどがビールの生産を行った。
青島ビールと命名されたのは1945年。現在は株式会社化、グループ化され、全国43カ所に工場を持っている。一年間のグループ全体の生産量は190万トン。四分の一が輸出されている。
工場見学も可能。
<ロウ山>
青島市から東へ40キロ。海に面した断崖絶壁の岩山。中国では珍しい、海と山の織りなす風景が神秘を漂わせ、昔から「神仙の宅、霊異の府」(神仙・霊異の住む場所)といわれ、道教の聖地である。
伝説では、秦の始皇帝も漢の武帝も、仙を求めこの地を訪れたという。 中国で有名な道家である丘長春や張三豊などもここで修行をしたという。現存する道教寺院のなかでは、太清宮の規模が一番大きい。創建は北宋。
また、名水で知られ、青島のビールが美味しいのは、ロウ山の水を使っているため、などとも言われるほど。
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《泰山》(たいざん)
<泰山と岱廟>(たいざんとたいびょう)
山東省の中部、済南・泰安・歴城・長清二市・二県にまたがり、面積426ku。
中国の五岳(泰山・華山〔陝西省〕・衡山〔湖南省〕・嵩山〔河南省〕・恒山〔山西省〕)の1つで、いちばん東側にあるので東岳という。主峰は泰安市の北部にあり、海抜1524mで、華山・恒山についで五岳の第三位の高さ。
東を重んじる古代中国の考え方からか、あるいは、地を抜き勇壮に天に向かって聳え立つ姿の荘厳さから「五岳の首」と称される。
古代の帝王は即位の初期、太平の年に泰山で封禅の儀を行い、天地を祭ることが多かった。封禅の儀を行った皇帝は、秦の始皇帝を第一とし全部で12名いたという。また、訪れた皇帝の数は72名というから凄い。
泰山を称えた詩句は多い。
孔子の言葉。「登泰山而小天下」(泰山に登れば天下のなんと小さいことか)、漢の武帝は「高矣、極矣、大矣、特矣、壮矣、赫矣、駭矣、惑矣」。杜甫は「会当凌絶頂、一覧衆山小(泰山の頂上に到ると、一覧する群山の小ささよ)、李白は「凭崖望八極、目尽長空間(崖に立って見渡せば、目は空間の長きを尽くす)。それぞれに味わいがあり、中国人の泰山に対する気持ちが伝わってくる言葉である。
登山路は東西両路に分れ、全長9キロで、6293段の石段からなる。数々の名勝や旧跡、景観区があり、「旭日東昇」「晩霞タ照」「黄河金帯」「雲海玉盤」は岱頂の四大奇観。
近年、名勝旧跡・遊覧道路・登山道がくりかえし整備され、1980年5月、泰山遊覧道路が正式に開通し、観光客は山麓からバスで中天門まで登れるようになり、1983年9月、中天門から南天門までロ一プウェイが開通し、わずか7〜8分で南天門に行けるようになっている。
南麓にある岱廟は、東岳泰山神を祭り、歴代の帝王が泰山で封禅の儀(天と地を祭り、国家の永続を願う儀)を行うさい、儀式を行ったところ。代々増築を重ね、現在は南北405.7m、東西236.7m、面積9.66万uとなり、多くの古建築が建っている。そのなかで一番主要な建物は天コウ(左に貝、右に兄)殿で、北京紫禁城の太和殿、曲阜孔廟の大成殿と並んで、中国三大宮殿のひとつである。
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《泰安市》(たいあん)
<漢明堂故址>(かんめいどうこし)
泰安市の東北部にある。東謝過城村と西謝過城村の間にある円形の高台。
明堂は儒教で重要視されている建物で、天子が政治的・宗教的行事を行うためにつくられ、接見・祭祀・慶賞・選士などはいずれも明堂で行った。『史記』封禅書に、漢の武帝(在位前156〜前87)が即位直後に泰山の東北に5年がかりで明堂を建てたとある。今でも漢代の瓦や陶器の破片が出土する。はるかに泰山の主峰を望むことができる。
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《曲阜市》(きょくふ)
済南から南へ156キロ。孔子の生まれ故郷であり、孔子ゆかりの旧跡が多い。特に、孔廟、孔府、孔林は必見。
<魯国故城>(ろこくこじょう)
曲阜市の市街にある。
曲阜は春秋戦国時代、魯の国の都であった。三十四代・900年余り続いた都城。周朝の侯国のなかでも存続年数がもっとも長いもののひとつに数えられる。その故城である。阜とは丘のことであり、曲阜と名付けられたのは隋年間五百九十六年のことである。
東西3.5km・南北2.5kmの長方形で、周長は11.5km。いまなお、東南・東北・西北の3つの部分は城壁が地上に残っている。城門が南面に2か所、東・西・北に各3か所、大通りが東西に7本、南北に6本(幅は10〜15m)あったことがわかっている。
中央部の北寄りの宮室付近に陶器や骨器の制作工房と鋳鉄工房の遺跡や住居址が点在し、西部の墓地からは貴重な文物が大量に出土されている。
春秋時代末期、孔子(前551〜前479)が晩年に『詩経』『書経』『春秋』を編み、古典を整理したため、曲阜は儒家学派の発祥地となり、魯はのちに「孔孟の郷、礼儀の邦」といわれている。
<周公廟>(しゅうこうびょう)
元聖廟ともいい、曲阜市の市街北方1キロ、漢代の宮殿の跡地にある。
祀られている周公は周の文王の第四子で、武王の同母弟。武王が殷朝を亡したさい魯に封じられたが、周公は都に留まって武王を補佐し、長子の伯禽が魯に赴いた。武王の死後も、成王が幼かったので摂取として礼楽を定め、天下が大いに安定した。死後、元と諡され、魯に太廟を建てて祭られたが、魯が亡びると、太廟も廃された。北宋の大中祥符元年(1008)に文憲王に追封され、周公廟も再興された。
殿内の神龕にかつては周公と伯禽の塑像と金人(仏像)があった。また、西北の壁に「周公負?図」という画像石があるが、周公の像があるのは全国でもここだけである。
<孔廟>(こうびょう)
曲阜市の市街にある。孔子(前551〜前479)は名を丘、字を仲尼といい、春秋時代末期の思想家・政治家・教育者で、儒家学派の創始者。死去の一年後、魯の哀公が3室の旧宅を廟に改めて以来、代々孔子を祭ってきたところ。特に漢代以降、孔子の評価が高まるに連れ各時代に増築が繰り返され、明・清時代に現在の姿になった。南北一キロ、東西140m、総面積二万平方メートル。部屋数466。
前部には?星門・聖時門・弘道門・大中門・同文門・奎文閣・十三御碑亭と並び、大成門をはいると三路に分れ、中路に孔子が弦歌鼓琴し弟子が読書したという故事が残る杏壇、また、北京紫禁城の太和殿と泰安岱廟の天?殿とともに中国古代三大殿と称せられる大成殿などがある。大成殿は、孔廟の主殿でありる。
東路に孔子の住居跡である孔子故宅(闕里ともいう)や孔子が子供の孔鯉に詩と礼を教えた詩礼堂などが並ぶ。また、西路には孔子の父母を祭った啓聖王殿などがある。
漢代から民国期に至る碑刻があり、楷・草・隷・篆の各書体がすべてそろい、謁廟・祭告・修廟・墓誌・画讃・詩文・法帖・漢画像石などあわせて2000枚余りからなり、中国でもまれにみる大規模な碑林のひとつである。
<孔府>(こうふ)
衍聖公府といい、曲阜市の市街、孔廟の東隣にある。孔子の子孫(衍聖公)が代々住んだ邸宅。
漢代以来、歴代の王朝は孔子(前551〜前479)を尊崇し、嫡家の子孫を大事にし厚遇し、宋の至和2年(1055)に46代孔宗願を諸侯と同等の衍聖公(えんせいこう)に封じ、世襲とした。明・清代に改修と拡張を重ね、現在の規模となる。
敷地は16ha余りを占め、9つの院落からなり、あわせて463室を有し、大きく3路に分れる。東路は祖廟の所在地で、西路は衍聖公が本を読み、詩や礼を学び、くつろいで吟詠などをしたところで、一般の来客をもてなした東西の花庁(応接室)もある。中心をなす中路は、表側が役所で、奥が住宅、背後が孔府花園。府内は厳粛静謐な雰囲気に包まれている。
明の嘉靖13年(1534)から1948年までの孔府の文書を完備し歴史研究のための重要な史料となっている。また、歴史的な文物を大量に蔵しており、なかでも、十供ともいう商(段)周十器が有名。さらに、1000点をこす元・明・清代の衣冠剣履・袍笏器皿を有し、特に元代の七梁冠は中国でも他にあまり例をみない貴重なもの。
<孔林>(こうりん)
至聖林ともいい、曲阜市の市街北方1.5kmにある。孔子とその子孫の家族の墓地。
2400年来、孔子の後裔や一族が葬られてきたうえ、歴代の帝王がたえず土地を下賜したため、徐々に拡大され、清代には200ha、生垣の連なりが7km余りに達した。10万本もの樹木が生い茂り、数十種の樹木があるのは孔子の弟子が故郷の木を取り寄せて植えたからだと伝える。
間口柱間5間の享殿が建ち、その後方の赤い周壁をめぐらした東周代の墓地に孔子(前551〜前479)・孔鯉(孔子の子・前532〜前83)・孔キュウ(孔子の孫・子思)の墓などがある。近くに弟子の子貢が六年間喪に服したとされる庵もある。
<顔廟>(がんびょう)
復聖廟ともいい、曲阜市の市街北部の陋巷街にある。孔子の弟子の顔回(前514〜前483)を祭る。
孔子が顔回を讃えた言葉は有名である。曰く「学問が好きで、怒らず、過ちを繰り返さず、質素な暮らしをいとわず、賢い人間である」と。 漢の高祖が魯に立ち寄って孔子を祭ったときに創建し、元の泰定3年(1326)に改修。至順元年(1330)に顔回が?国復聖公に封じられたので、復聖廟ともいうようになった。明・清両代に改修と拡張を重ね、面積6ha、柱間159間の建造物、歴代の碑刻55枚、松・柏・檜・槐500本余りを擁するにいたった。
中心をなす復聖殿は仰聖門内にあり、殿内にはかつて冠をかぶり圭を手にした顔回の塑像が安置されていた。廟内には復聖寝殿・杞国公殿(顔回の父親を祭る)・杞国公寝殿・退省堂などもあり、なかでも杞国公殿は元代の建造で、きわめて貴重なもの。
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《鄒県》(すうけん)
曲阜から車で三十分ほど。孟子の故郷が鄒県である。
<孟廟>(もうびょう)
亜聖廟ともいい、鄒県の南関にある。亜は次ぐの意。中国では、孔子に次ぐ人物であるとされ、「亜聖」とよばれる。孟廟は、代々孟子を祭ってきたところ。
孟子(前372〜前289)は名を軻、字を子輿といい、戦国時代の思想家。儒教の継承者で「性善説」を唱えた。
北宋の景祐4年(1037)、孔子の45代の孫である孔道輔が、四基山で孟子の墳墓を探しあて、その傍らに廟を建立したが、県城から遠くて不便なため、宣和3年(1121)に現在地に移した。
中心をなす亜聖殿は南北に走る中軸線に位置し、代々38回も改修を重ね、現在のは清の康煕年間(1662〜1722)に魯南地震による倒壊ののちに再建したもの。中軸線の両側に孟子の父孫激を祀った啓聖殿や孟母殿などが対称をなして並ぶ。あわせて350枚余りの碑碣がある。
知言門外にある柏抱槐は、柏の老木のなかに槐の大木があり、幹と枝がからまりあって一体をなし、数百年の寒暑を経てもいぜん鬱蒼としている。
<孟府>(もうふ)
鄒県の南関、孟廟の西隣にある。
孟子の直系の子孫が暮らしてきたところで、造営年代は不詳であるが、孟廟が移設された北宋の宣和3年(1121)から間もないころと思われる。元の至順2年(1331)に孟子が鄒国亜聖公に封ぜられたので、亜聖府と呼ばれ、明代にかなりの規模に達した。
表側が役所で大堂が中心、その奥が住宅で典型的な四合院のつくりである。
<孟林>(もうりん)
鄒県の県城東北12.5km、四基山の西麓にある。
北宋の景祐4年(1037)に孟子の墓が発見され、廟を建てて祭った(宋の宣和年間に県城の南関に移設)。
柏の老木が欝蒼と生い茂り、細流が南北に貫流し、参道から山前に至ってアーチ橋を渡ると、石敷きの道が享殿の大門まで通じている。享殿の背後に孟子の墓があり、その西方300mにある3つの古い墓は、孟(仲)孫・季孫・叔孫(いずれも魯の桓公の子)の墓と伝える。
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《青州市》(せいしゅう)
<青州博物館>(せいしゅうはくぶつかん)
1996年、400体あまりの青州龍興寺の石仏が発掘されたことで一躍世界の注目を浴びることになった。博物館の近くの体育大学の建設現場で、たまたま館長が、掘り起こされた土層の一部が他と違うことに気が付いたところから世紀の大発見に繋がった。
これまで南北朝時代(439〜589)の仏像に関して、雲岡、龍門など石窟に彫られた仏像は知られていたものの、単体の石仏は数が限られていただけに、これほど大量の青州石仏の出現は世界の仏教芸術研究者にとっては大事件であった。
何かの理由で意識的に破壊されてはいることは確かであるが、発掘作業を進める館長らを驚かせたことは、千年の時を経ているにもかかわらず、ほとんどの石仏に施されている朱や緑や白や黒の彩色が鮮やかに残っておりふんだんに用いられている金箔が今も燦然と輝いていることだった、という。
製作年代は造像記によると、529年(北魏)から1026年(北宋)にいたる約五百年間に及び、大きい仏像は光背を含めて3メートル以上、小さな物約50センチ、石材の95パーセント以上が青州産の青灰色石灰岩で、他にわずかながら大理石(漢白玉)、陶質や鉄、泥塑、木質のものもある。
<雲門山石窟>(うんもんざんせっくつ)
青州市の南部にある。風光明媚で、青州八景のひとつ。山の南崖に隋代開削の石窟や仏龕がある。体躯は剛直だが宝冠や帯、法衣などは彫が精緻で美しい。
<駝山石窟>(ださんせっくつ)
青州市の西南部にある。約2キロを隔て雲門山と対峙する駝山は青州の名山のひとつで、海抜408メートル。東北から西南わたって延び、遠くからながめると駱駝が伏しているようにみえるので、駝山という。主峰の東南の絶壁に石窟が5つ、摩崖造像群が1か所、大小の仏像が638体ある。
北から数えて第1窟は唐代、第2〜5窟は北周末から隋代の作。第1窟の菩薩像は、美しい髪で髭を高く結い上げ、豊満な顔つきで、上半身をはだけ、胸もとに首飾りが垂れ、下半身に蓮花風の長い裳裾を着け、優雅に身を傾げて曲線をなしている。盛唐期のもの。
いずれも彫りは精緻を極め、端正な姿態をなし、ゆったりした美しい表情をしており、山東半島の仏教美術の傑作である。
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《済寧市》(さいねいし)
京杭大運河と京瀘鉄道・京九鉄道が南北を縦に貫き、?石鉄道と済新鉄道が東西を横に貫く。また、国道104号線と327号線の交差点するのもここであり、交通の便に恵まれている。
<太白楼>(たいはくろう)
太白酒楼ともいい、済寧市の南部、旧城の城壁の上にある。唐代の詩人李白(701〜762)が任城(現・済寧市)に遊んださい酒を飲んだところに記念の楼を建てたと伝え、もともと旧城内に建てられ、元代に改修され、明の洪武24年(1391)に現在地に移された。1948年に戦火に焼かれ、新中国成立後に再建。
階上は「詩酒英豪」の扁額を掲げ、内壁に万暦年間(1573〜1620)に李漢章の彫った李白・杜甫・賀知章の陰刻の肖像画、外壁に金〜清代の40枚余りの碑碣をはめこむ。現在は李太白紀念館となり、100点余りの展示品をはじめ、李白の訪れた場所を示す地図や写真、李白に関する研究書、現代の書家の題詞を展示。
<漢碑群>(かんひぐん)
済寧市鉄塔寺街、市教育局の構内の東北隅にある。建物のなかに漢代の碑刻を10枚保存。州志に済寧の文廟にさまざまな漢碑があるとかかれ、宋代の超明誠の『金石録』や欧陽脩の『集古録』にも収められているが、度重なる戦乱を経て、清代まで残っていたのは司隷校尉魯峻碑・盧江太守范式碑・北海相景君碑・宋君長墓;石・尉氏令鄭季宜碑と明代に模刻した郭林宗墓誌銘。「小金石館」または「漢碑館」とも呼ばれる。さまざま著録に収められており、漢代の歴史と書の研究にとって貴重な資料。
<済寧鉄塔>(さいねいてっとう)
済寧市の鉄塔寺にある。もと崇覚寺といい、北斉の皇建元年(560)に創建、北宋の崇寧4年(1105)に鉄塔を建て、鉄塔寺と改称。鉄塔はもと7層であったが、明の万暦9年(1581)に9層・23.8mに改造。
基壇は磚積みの八角形で、各層の四面に方形の出入口、他の四面に2体の仏像のある仏龕を設ける。第1・2層の塔身に、「大宋崇寧乙酉常氏還夫徐永安願」「皇帝万歳」「衆臣千秋」と鋳こむ。最上層の8角に風鐸を吊し、塔頂は金メッキの宝瓶塔刹。木造を模し、造形が美しく、中国の鋳鉄工芸の貴重な遺産とされる。
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《滕州市》(とうしゅう)
<薛国故城>(せつこくこじょう)
滕県の県城の南方にある。
平面は不規則な正方形を呈し、周長は1万615mで、城壁の遺構が起伏しつつ連なり、高さ4〜7m、底部の幅20〜30m。城内は地勢が平坦で、中心に位置する皇殿崗村が宮室の跡地と伝える。城内の東北隅に高大な墳墓が2つあり、孟嘗着(?〜前279?)とその父の田嬰の陵墓と伝える。1971年に城内から祭祀用の礼器である青鋼器の薛子仲安?と走馬薛仲赤?が出土。
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《嘉祥県》(かしょうけん)
<武氏墓群石刻>(ぶしぼぐんせっこく)
嘉祥県の県城の東南15キロ、後漢時代の豪族武氏一族の墳墓・武氏祠にある。石闕・石獅・墓碑・画像などからなる。
北宋の欧陽脩(1007〜72)の『集古録』、超明誠(1081〜1129)の『金石録』、南宋の洪?の『隷釈』『隷続』などに収めているので、おそくとも宋代には所在が知られていたことになる。のちに、洪水によって土砂が堆積して地下に埋没したが、清の乾隆51年(1786)に金石家の黄易がボーリングと発掘を行い、20枚余りの画像石刻を収集し、翌年、金石家の翁方綱が資金を出して保存用の建物を設けた。その後もあいついで発掘され、国外に流出した2枚と済寧市に保管されている2枚を除いて、石闕と石獅がそれぞれ1対、石碑が2枚、画像石が43枚、隷書の題記があわせて1069字現存する。
画像石は彫りが精緻で、造形が生きいきしている。歴史的人物、歴史的なエピソード、孝行のエピソード、列女のエピソード、神話伝説をはじめ、各種の車馬行列、宴席の舞楽、廚房、水陸の戦闘など広範な題材で、さまざまな角度から後漢代の杜会情況・風土人情・典章制度・宗教信仰などを活写しており、単に精美な芸術品であるだけでなく、後漢代の政治・経済・文化の研究に不可欠な実物史料でもある。
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《シ博市》(しはく)(シ=錙の金をさんずいに)
<臨シ斉国故城>(りんしせいこくこじょう)
シ博市臨シ区の西部から北部にまたがり、東はシ河、西は系水に臨み、南に牛山と稷山がたたずみ、東・北両面は平原。
『史記』によると、前9世紀なかば、斉の献公が薄姑(現・博興県)から当地に遷都し、春秋・戦国時代から前221年に秦に亡ぼされるまで630年余りにわたって姜斉と田斉の国都として、東方の重要な政治・経済・文化の中心地であり、もっとも繁栄した都市のひとつでもあった。
斉の故城は、大小両城からなっていた。
大城は、旧シ博県城の北方に広がる不整長方形で、東は約5.2km、西は2.8km、北は3.3km。城門跡は6ヶ所あり、製銅・製鉄・鋳銭・骨器製造遺址が多数発見されている。また、墓地が2つ、大規模な殉馬坑がひとつ発見されている。
小城は大城の西南部に位置し長方形。東が2.2km、南と北は1.4km、西が2.3kmで、城門跡は5ヶ所ある。西北部に桓公台という高台があり、斉の桓公が諸侯と会見したり兵馬を検閲したりしたところと伝える。
<殉馬坑>(じゅんばこう)
シ博市臨シ区河崖頭村の西部、斉故城の東北部にある。
大規模な「甲」字形の石郭墓の東・北・西の三面に連なり、全長約210m、幅5m。
数回の発掘で殉馬228頭が出土。頭部を外側に向け、首をもたげて奔走した姿勢で2列に並び、規則正しくて壮観。坑の長さから、殉馬は600頭以上と思われ、中国でもまれにみる多さである。
1983年9月、西側の南部の坑(長さ40m)に面積800uの展示館を新設。殉馬105頭を展示している。
<管仲墓>(かんちゅうぼ)
シ博市臨シ区の牛山の北麓にある。春秋時代に斉の宰相をつとめた管仲(?〜前645)の墓と伝える。管仲は名を夷吾といい、潁上(現・河南省潁上県)の出身で、春秋時代の大政治家。斉の桓公(在位前685〜前643)の覇業を補佐。東西36m、南北約16mで石垣がめぐらしてある。
<四王冢>(しおうちょう)
四豪冢ともいい、シ博市臨シ区?河村の南部にある。戦国時代の田斉の威王・宣王・?王・襄王の墓と伝える。
威王(在位前356〜前320)は鄒忌を宰相に、孫?を軍師に任用して戦国の七雄の1人になった。宣王(在位前319〜前301)は、文学・遊説の士を好み「稷下の学宮」を再興した。4つの墓は西から東へ連なり、いずれも方形の基台に円墳がのったもの。
<二王冢>(におうちょう)
シ博市臨シ区鄭家溝の南、鼎足山にある。春秋時代の斉の桓公(在位685〜前643)と景公(在位前547〜前490)の墓と伝える。桓公呂氏は名を小白といい、管伸(?〜前645)を宰相とし、天下の乱を平定し、春秋の五覇の首位に立った。景公は名を杵臼といい、晏嬰(?〜前500)を宰相とした。田斉の太公と桓公(在位前374〜前357)の墳墓という説もある。
ふたつの冢は東西に並び、山を墳墓にしたもので、ともに高さ約37m、東西170m弱、南北140m。草と木が生い茂り、西側から曲径が頂上まで通じている。桓公の墓の盛土がさまざまな色をしているのは、造営のさい諸侯が自国の土を進貢したためと伝える。
<三王冢>(さんおうちょう)
シ博市臨シ区の南門外にある。ひとつの基台にみっつの冢があり、春秋時代の孫捷・田開彊・古冶子の三勇士の墓と伝える。
三人は斉の景公(在位前547〜前490)に仕えていたが、奢っている行為が目に付いていたので、晏嬰(?〜前500)が景公に排除するように進言したが、景公は三人が勇敢で制しがたいと思いこんでいたため、晏嬰はついに景公に桃をふたつ送り、三人に論功行賞をやらせることをはかったところ、三人は功を誇り、たがいに譲らず、感情を抑えることができず、あいついで自殺してしまったため、景公は士の礼をもって葬った。
<蒲松齢故居>(ほしょうれいこきょ)
シ博市?川区蒲家荘にある。蒲松齢(1640〜1715)は字を留仙・剣臣、別号を柳泉居士といい、俗に聊斎先生と呼ばれた。清代の文学者で、代表作は短篇小説集『柳斎志異』16巻445篇である。室内にはさらに蒲松齢が使っていた卓・椅子・床・几・硯台なども展示。蒲松齢の手跡、外国語訳『柳斎志異』の各種の刊本、詩文・雑著の各種の抄本、『柳斎志異』の各種の再話本なども展示。
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《東阿県》(とうあけん)
<曹子建墓碑>(そうしけんぼひ)
陳思王廟碑ともいい、東阿県の県城南方20km、魚山の西麓の曹植墓の北側にある。曹植(192〜232)は字を子建といい、曹操の第三子で、曹丕(魏の文帝・在位220〜226)の弟にあたり、幼い頃から文才で知られた。曹丕にねたまれて迫害され、悶々のうちに死に、東阿にいたころいつも魚山に登っていたので、死後、子の遵が遺言に従い当所に葬った。
墓碑は隋の開皇13年(593)の建立で、碑文は1行43字で22行あり、篆書と隷書のまじった楷書で、隷書から楷書への過渡期の特徴を示す。大清河に沈んでいたのを清代に引き上げ、墓前に復元するとともに碑楼を新設。
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《聊城市》(りょうじょう)
<山陝会館>(さんせんかいかん)
聊城市東関の古運河の西岸にある。
聊城は明・清代は南北を結ぶ交通の要衝で、交通の便がよく商人が雲集した。清の乾隆8年(1743)に山西・陝西両省の商人が建てたもので、建坪はのべ3311u。160室余りからなり、神廟と同郷会館の結合した建築群。
後方の主殿に台座が3つ並び、かつては関帝(関羽)・文昌皇帝・火神・財神・水神を祭っていた。また、戯楼の内壁に、清の道光25年(1845)から1919年にかけて公演した劇団の芸人の名簿と、京劇・山西?子・河北?子(それぞれ北京・山西・河北の地方劇)の120余りの伝統的な出し物の外題を留める。清代の建築・彫刻・地方劇の研究に大きな価値を有す。
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《章丘県》(しょうきゅうけん)
<城子崖遺址>(じょうしがいいし)
章丘県竜山鎮の東北にある。1928年に発見、1930〜31年に2度にわたって1万5648uを発掘。龍山文化発見の発端となった遺跡である。
城子崖は隆起した台地に位置し、遺跡は6〜7万uにわたってひろがり、堆積は3mほどに達し、内容がきわめて豊富で、竜山文化から漢代まできわめて長期にわたる。陶器・万器・骨器などが大量出土し、光沢のある黒陶を主とし、三脚や圏脚の陶器が多く、たまごの穀のように地の薄い陶杯、鳥首形の脚のある陶鼎、首の太い釜などが代表的なもの。銅の製錬技術も有していた。当遺跡を代表とする文化を龍山文化という。
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《陵県》(りょうけん)
<東方朔墓>(とうほうさくぼ)
陵県神頭鎮の西南にある。東方朔(前154〜前193)はこの地の出身で字を曼倩といい、武帝(在位前156〜前87)に仕えた。『史記』と『漢書』に列伝がある。
墓園は墳墓と祀祠からなる。東側に秦・漢代の72の高大な墳墓があり、そのうちのひとつである。東西22m、南北16m、高さ3m。祠はいまはなく、唐の天宝13年(754)の顔真卿の漢太中大夫東方先生画讃碑が残っているだけであるが、これも現在は県城内に移し、亭を建てて保護している。
<東方朔画讃碑>(とうほうさくがさんひ)
陵県の県城内にある。
碑は大きく、四面に碑文を彫る。正面と左右両面に晋代の夏侯湛(243〜291)撰の「漢太中大夫東方先生画讃」、裏面に唐代の顔真卿(709〜785)撰の「東方先生画讃碑陰記」を彫る。正面と裏面は各15行、左右両面は各3行で、各行30字の大きな楷書。顔真卿は著名な書家であるが、この碑文の筆を取ったのは当時の政治情勢と密接なつながりがあった。つまり、当時、平原郡太守の任にあった顔真卿が絶妙な作戦でもって、黄河以北が席捲された安禄山の反乱(755年)から平原郡だけは守られた。
顔真卿がこの碑文の筆をとったのはまさに壮年(45歳)にあたり、気宇壮大な書法で、顔真卿筆の碑文のなかでも傑作。1200年来、世人は争って拓本を取り、崇敬してやまない。東方朔の墓地から現在地に移し、亭を建てて保護している。
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《臨清市》(りんせい)
<臨清磚塔>(りんせいせんとう)
臨清市の西北部、大運河の北岸にある。
明の万暦39年(1611)の建立。高さ約60m、磚と木からなる八角楼閣式の塔。
塔身は9層で、内部に頂部まで貫く心柱、それを取り巻くように階段があり、最上層まで登ることができる。最上層に登ってながめると、大運河が一本のベルトのように延び、帆影がまばらに揺らめき、きわめて清趣に富む。
<臨清清真寺>(りんせいせいしんじ)
俗に北寺といい、臨清市の西部、衛運河東岸の先鋒橋の畔にある。
創建年代は不詳で、明の嘉靖43年(1564)に改修。
大門・鐘楼・鼓楼・望月楼・穿庁楼・正殿(礼拝堂)・北講堂・沐浴室・後門など柱間80間余りの建物が現存し、敷地は1万uちかい大イスラム寺院。インドのモスクの様式を呈す。
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《長清県》(ちょうせいけん)
<霊岩寺>(りょうがんじ)
泰山の西北麓、長溝県の東南部、方山(玉符山)の麓にある。
西秦の永康年間(412〜419)に高僧竺僧朗が説法にやって来たところ、猛獣がひれ伏し岩石がうなずいた」という故事が寺名の由来である。
寺は北魏代の創建で、唐・宋代に隆盛を誇り、最盛時には殿閣40余り・禅房500室余り・僧侶500人余りを擁し、天台山(浙江省)の国清寺、江陵(湖北省)の玉泉寺、南京(江蘇省)の棲霞寺とともに天下の寺院の「四絶」といわれた。
中心をなすのは千仏殿・大雄宝殿・御書閣・鐘楼・鼓楼・辟支塔など。千仏殿は内部に毘盧遮那仏・弥勒・薬師などの泥塑像や木彫りの仏像を多数配し、周りの壁には高さ1〜1.2mの羅漢の塑像が40体並んでいる。かつてここを訪れた梁啓超(1873〜1929)は「海内第一名塑」と称えた。また、辟支塔からは霊岩山の風景を見渡すことができる。
<孝堂山石祠>(こうどうざんせきし)
長清県の孝堂山にある後漢の石祠堂。漢代の孝子の郭巨の墓祠と伝える。祠内の題記と画像の様式から、西暦1世紀の造営で、中国現存最古の地上の建造物と思われる。
住宅建築を模した石造りで、間口3.8m、奥行2.13m。祠内の石壁と三角形の石梁には、神話や伝説、天文や星象、歴史のエピソード、それに朝会・巡行・迎賓・征戦・俘虜献上・狩猟・調理・曲芸など、支配者の日常生活をテーマにした精美な図を彫る。平坦な地に線刻したものが多く、強力鋭利な線で、漢代の画像のなかで独特の存在。
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《臨沂県》(りんきけん)
山東省の東南部にあたる。沂河の流域にある。曲阜の東南170キロ。
<銀雀山・金雀山漢墓群>(ぎんじゃくざん・きんじゃくざんかんぼぐん)
臨沂市の市街東南部にある。東は沂河に臨み、北は城壁に接し、二つの山が東西に相対す。かつて山のいたるところに雲雀に似た形の黄色と白色の花が咲いていたことから銀雀山・金雀山ち名付けられたという。
墓は大半が漢代前期の竪穴墓で、その名を有名にしたのは1972年に銀雀山一号漢墓から出土した竹簡とその断片あわせて4942点である。多くは兵書で、1700年余りまえに失われた『孫ビンの兵法』をはじめ、『孫子の兵法』『六韜』『尉繚子』『管子』『晏子』『墨子』など、秦代以前のもの。その中でも『孫ビンの兵法』と『孫子の兵法』の発見は長年にわたる両者についての、同一のものなのか別なものなのかという論争に、実証的な形で、ピリオドを打たせることになった。
その他には、二号墓から出土した中国でもっとも古い元光元年(前134年)の32点の暦譜の竹簡、金雀山九号墓から出土し長江以北で初の出土となった棺を覆っていた彩色の絹絵など様々な貴重な文物がある。
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《蒼山県》(そうざんけん)
山東省の南部。江蘇省に隣接する。蒼山という山がある。誌書に言う。「山上からは海が望まれ、中腹に石室があり、世に安期生、徐則が仙人になったところと伝える」。
<荀子墓>(じゅんしぼ)
蒼山県の蘭陵の東南1.5kmにある。
荀子(前313?〜前238)は名を況といい、戦国時代の趙の出身、孔子・孟子以後の儒学の大師で、荀卿または孫卿と尊称される。斉の襄王や楚の春申君に仕えた。孟子の性善説に対して性悪説を唱え、またそれまでの諸子の学を大成し、儒学を倫理学から政治学へ発展させた。没後、蘭陵に葬られた。
墓は面積6776uを占め、高さ3.9m。墓前に清の道光21年(1841)の補建荀子墓碑と光緒30年(1904)の「楚蘭陵令荀卿之墓」の石碑が現存。
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《膠南市》(こうなん)
<琅邪台>(ろうやだい)
膠南県の夏河城の東南5qにある。標高183.3m。琅邪は春秋戦国時代の五大港の一つであった。現在でも、琅邪台から眺めることの出来る小口子軍港は中国で最大の軍港のひとつである。
『史記』秦始皇本紀に、秦の始皇帝が中国統一後三回琅邪を訪れ、そのうち一回は泰山封禅後に3ヶ月逗留したと記されている。
秦始皇の刻石はすでにないが、秦2世のものは現存し、北京市の中国歴史博物館に展示されている。
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《沂南県》(きなんけん)
<沂南漢画像石墓>(きなんかんがぞうせきぼ)
俗に将軍冢といい、沂南県の県城西方の北寨村にある。1954年に発掘。造営年代は後漢代末年。
幅7.55メートル、長さ8.70メートル、容積326.34平方メートル。前・中・後の3つの主室に分れ、東西に側室を配し、あわせて8室からなる。280個の石材を積み上げたもので、そのうちの42個が画像石。画像が1つの面にしかないもの、2つの面にあるもの、4つの面にあるものなどがあり、画面の総面積は442.27平方メートル。
戦闘・祭祀・旅行・豊作宴・舞楽曲芸・神話人物などを描き、墓主の生前の生活の豪華さと死後の葬儀の盛大さを示しており、当時の社会経済情況・典章制度・衣冠文物・宗教哲学思想・風土人情などをうかがうことができ、歴史的にきわめて重要である。
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《蓬莱県》(ほうらいけん)
山東省の東部にあり、北は黄海、渤海に臨む。煙台市の西北75キロにある。元来、蓬莱というのは、中国の神仙思想で説かれる想像上の仙境である。東方海上にあって、仙人が住み、不老不死の地と信じられた。この地が蓬莱と呼ばれるのは、古来、この地がその「蓬莱」であると信じられていたからである。
<蓬莱水城>(ほうらいすいじょう)
備倭城ともいう。倭寇に備えた城の意。蓬莱県の県城の北、丹崖山の東麓にある。北に海を隔てて長山列島と相対し、地勢は険しい。
もともと北宋の慶暦2年(1042)に契丹(遼)に備えて設置された要塞であったが、明の洪武9年(1376)、倭寇が侵攻し、海防が急務となったので、要塞の跡地に水城を築いた。土・石・煉瓦の混合構造で、南北に長い長方形で、周囲はあわせて2200mに達する。
築城から今日まで600年余りになるが、立地の選択、港湾の開設、構築技術などに独自の工夫がなされ、中国の海港建築史に重要な地位を占める。
明代の有名な武将・戚継光はこの蓬莱の出身で、倭寇に抗戦した英雄である。
<蓬莱閣>(ほうらいかく)
蓬莱県の県城の北方、丹崖山の山頂にある。「仙境」といわれる。
伝説に言う。海中に三仙山あり、名を蓬葉・方丈・瀛洲という。そこには仙人が住み、不老長寿の薬がある、と。史書には、秦の始皇帝と漢の武帝が仙人と仙薬を探し求めて当所にやって来たとある。徐福が始皇帝の命令で仙薬を求めて船出したところであるとも伝える。
また、神話「八仙、海を渡る」の八仙人が船出したところともいう。蓬莱閣で酒を飲み、酔ったところで、各自の宝器により飄然と海を渡って行ったという。
また、蓬莱閣は蜃気楼の名所としても名高い。特に夏にはしばしば規模の大きい蜃気楼が海上に現れる。
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