目次
太原
大同
渾源県
五台山
定襄県
朔州
交城県
平遥
分水県
杏花村
洪洞県
臨汾
襄汾
夏県
運城
ゼイ城県

 
===山西省===
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《太原》(たいげん)
 山西省の省都。「山西」とは、太行山脈の西の意。太原は太行山脈の西、太原盆地にある。標高800メートル。黄土高原の東の端に位置する。町の西を流れる川は汾河、黄河第二の支流である。
 汾河の流れと肥沃な黄土に恵まれ歴史は古い。春秋戦国時代の趙の国の都が置かれていたのがこの地である。今からおよそ二千三、四百年前のこと。
 現在は、石炭や鉄鉱石の大産地を控え、総合工業都市として発展を続けている。
 また、太原といって思い浮かべるのは、酢。それから、「刀削麺」「猫耳朶麺」などの麺であろうか。ともに名物として全国に名高い。

<山西省博物館>(さんせいしょうはくぶつかん)
 一部と二部に建物が分かれている。
 太原市の市街の東南の隅、文廟(孔子を祀った廟)にある建物が山西省博物館第一部である。もと山西省図書博物館といったが、1953年に現在名に改称。古代史・近代史・革命史の三部門に分かれているが、特に石楼県で出土した殷代の青銅製の酒杯は殷代の青銅器を代表する傑作とされる。そのほか、侯馬市から出土した青銅の礼器や石製の盟書は春秋期の歴史を研究する上での貴重な資料である。盟書というのは古代における誓約書であり、侯馬市から出土した晋の時代の盟書は朱砂を使って書かれている。
 さらに、五一広場の西、純陽宮という道教寺院に山西省博物館第二部があり、こちらは歴史的な文物を、陶磁器、青銅器、漆器、瑠璃、彫塑、書法絵画、刺繍、歴代貨幣などのテーマ別に陳列している。
 また、純陽宮という建物は唐代の道士・呂洞賓を祀ったもので明の万暦年間(1573〜1620)の創建。呂洞賓と関羽は山西省の出身で、山西省には二人を祀る道観、廟が多い。

<崇善寺>(すうぜんじ)
 太原市の市街の東南の隅、山西省博物館第二部のすぐ北にある。
 初めは白馬寺といい、唐代の創建。のちに延寿寺・宗善寺と改称し、明代に現在名になった。
 明の洪武14年(1381)、太祖の第3子が母親の高皇后を供養するために大工事を行い、南北550m余り、東西250m余り、面積14万平方メートルに拡張し、前に山門、金剛殿、天王殿、中央に大雄宝殿、後ろに毘盧殿、大悲殿を擁する大寺院であったが、清の同治3年(1864)に大半を焼失。現存するのは山門・鐘楼・大悲殿と東西の廂房のみ。 大悲殿の内部には、千手千眼十一面観音・千鉢文殊・普賢菩薩の大きな像を安置する。高さ8.5メートルで、バランスがよく、保存状態もよい。年代を明記した宋・元・明代の経典も蔵し、特に南宋版は中国で最も完全な版本として知られている。
 門前に建つ一対の鉄獅は明の洪武年間のもので、勇猛な表情、雄壮な骨格をなし、明代の獅子像の傑作である。

<永祚寺双塔>(えいそじそうとう)
 太原市の東南の郊外の小高い丘の上にある。双塔がそびえるので、双塔寺ともいう。
 明の万暦年間(1573〜1620)の創建。現存する建物はいずれも木造建築を模した煉瓦造りだが、この寺で最も有名なのが、寺の傍らにそびえる文宣という二基の磚塔である。八角十三層で、高さ54.7メートル。塔内に階段があり、最上層に登ると、太原の全景を一望することができる。太原に向かってくるとまずこの双塔が目にはいり、太原のシンボルとなっている。
 また、明代に植え始めたと伝えられる牡丹もすばらしく、花が咲く初夏にはそれを目当てに訪れる人も多い。

<開化寺>(かいげじ)
 太原市の市街の西南17キロ、蒙山の麓にある。斉の天保2年(551)の創建で、山腹の絶壁に高さ60メートル余りの仏像を彫り、広大な規模を誇る。
 隋の仁寿元年(601)に高大な仏閣を建て、浄名寺と改称。唐の高祖と高宗が詣で、開化寺と改称。乾寧2年(895)に荘厳な仏閣を建てたが、まもなく荒廃した。五代の後晋の開運2年(945)に北平王の劉知遠が柱間150間、5層の仏閣を建て復興。北宋の淳化元年(990)に釈迦・如来の両磚塔を建立。北宋代の二基の磚塔は、基壇が連なっている珍しい構造から、連理塔とも呼ばれる。

<晋祠>(しんし)
 太原市の市街から西南へ25キロ、懸甕山の山麓、晋水の水源にある。 周の武王の次子姫虞(唐叔虞)を祀り北魏代に創建。度重なる改修を経て、現在の面積は約10万平方メートルになる。芝居を奉納する舞台であった水鏡台、鉄製の武人像が素晴らしい金人台・晋水第二の泉源である魚沼飛梁・唐叔虞の母邑姜のために建立された壮麗な聖母殿などが晋祠の中心部にあたる。
 晋祠には、古来「晋祠三絶」と称えられているものがある。周柏・難老泉・侍女像である。
 周柏は約3000年前から生えている老柏のことで、聖母殿の左側にある。難老泉は、晋水の主要な水源であり、年間を通じて水温17℃、底が見えるほど透き通っている。侍女像は聖母殿の中にある塑像群で、全部で42体。写実的な宋代の代表的傑作とされている。

<天龍山石窟>(てんりゅうざんせっくつ)
 太原市の西南40キロ、天龍山の山腹にある。
 石窟は東西両峰にあり、東峰に峰頂の4窟を加えて12窟、西峰に13窟ある。
 その開削年代は同一ではなく、東峰の2・3窟が最も古く東魏の開削。唐代がもっとも多く、15窟に達する。石彫は生きいきした姿勢、優美な表情、洗練された刀法、流暢な衣文で、質感にあふれる。
 唐代の代表作としては、西峰の第9窟の弥勒大仏が挙げられる。バランスがよく、表情も端正かつ重厚で、その下方にある観音像は華麗な首飾りを付け、地肌が透けてみえる絽織の紗をまとう。
 また、東魏・北宋代の代表作は、第2窟の仏と脇侍の菩薩、第10窟の窟外の脇侍菩薩がある。
これらの石窟は以前より芸術的水準が高いことで知られていたが、そのことが逆に略奪や窃盗を促す結果となり、1930〜40年代にかなりのものが海外に流出した。

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《大同》(だいどう)
 山西省北部、万里の長城の内側50キロの地点にあり、中国から見た北方の守りの重要な拠点であった。漢王朝成立間もない頃、劉邦が匈奴の王・冒頓単于と干戈を交え白登山に包囲されるが、それもこの付近である。漢民族対北方の遊牧民族、今までに千回を超える戦争がこの地で繰り返されてきたという。
 街を出ると、黄土大地に狼煙台のあとが点々と残る。

 398年に鮮卑族の拓跋氏が北魏を建てる。その都が大同であった。やがて495年、孝文帝の時代に洛陽に遷都をするが、その間の百年に大いに繁栄をした。雲崗の石窟もその間に造営が始められた。
 戦争もあったが交易もあった。「茶馬の道」という。中国から北の蒙古方面に茶を運び、蒙古方面からは馬を買う、そういう交易が長く続いた。いまでも付近で、六月に、馬の市が立つ。
 良質の石炭を産することでも知られる。北魏の時代から「黒石」と呼ばれ、採掘されてきたが、いまでも、市の最大の産業である。全市280万人のうち石炭産業に従事する人は40万人にのぼる。

<九龍壁>(きゅうりゅうへき)
 大同市市街の東街にある。
 明の洪武25(1392)年、明の太祖朱元璋(在位1368〜98)の第13子朱桂の屋敷の前に建てられた影壁(影壁というのは、四合院などの中国の伝統的な建築で正門の大門を入ったすぐの所に立てた目隠しの塀をいう。寺廟や大邸宅の場合、大門の外側に立てるケースもある。ここでは後者)。
 邸宅は崇禎年間(1628〜44)の末年に兵火で破壊され、九龍壁だけが残っている。  長さは45.5メートル、高さ8メートル、厚さ2メートル。下部は須弥壇で、束腰の部分に獅子、虎、象、唐獅子、麟麟、天馬等の動物を彫り、その姿はそれぞれ異なり、躍動的である。頂部は木造建築に似せて、寄棟造りの屋根には棟飾りが備わる。
 壁面には高貴の象徴である9匹の巨大な龍が五彩(黄・縁・朱・紫・藍)の彩色琉璃瓦の部材で積み上げられ描かれている。前には倒影池があり、壁の竜が水中に映ると、あたかも生きているようである。
 中国に現存する九龍壁は三つしかなく、大同のほかには、北京の故宮と北海公園にあるだけである。

<善化寺>(ぜんげじ)
 俗に南寺といい、大同市の市街の南部にある。
 唐の開元年間(713〜742)の創建で、開元寺と称した。五代の後晋代に大晋恩寺と改称。遼の保大2年(1122)に兵火に遭い、ほとんどが破壊されたが、金代初期、住職の円満大師が再建した。明代に再び修理がなされ、明の正統10年(1445)に現在の名称となる。  寺院は南面し、敷地は1万4000uと広大で、山門や三聖殿、大雄宝殿などが保存されている。特に大雄宝殿は雄大であり、また、遼(契丹族)や金(女真族)の意匠を色濃く映した建築である。
 遼や金は、大同を倍都としていた。
 また、寺内には遼・金代の塑像30余体があり、なかでも金代の塑像が佳作として知られている。

<華厳寺>(けごんじ)
 大同市の西部にある。
 同一場所に上下二つの華厳寺が建てられているが、別のものである。それぞれ、遼・金代の中国における華厳宗の重要寺院のひとつである。
 上華厳寺の大雄宝殿は中国でも有数の伽藍のひとつといわれ、1477uと広大で遼・金代の建物としては現存する最大規模といわれる。また、軒高9.5m、寄棟造りの屋根におかれた琉璃製の瓦もすばらしい。殿内には明代の5体の仏、20本の諸天の塑像があるほか、清代の壁画が保存されている。
 下華厳寺の主要な建物である薄伽教蔵殿には、遼代の塑像が31体おかれ、いずれも中国仏教芸術を代表する逸品といわれる。
 華厳寺内には、大同市博物館がある。北魏の出土文物、遼代の芸術品の収集に特徴がある。

<観音堂>(かんのんどう)
 大同市の西郊外8キロにある。遼の重煕年間(1032〜55)の創建だが、清初、兵火に遭い、順治8年(1651)に再建された。
 中軸線に沿って戯台(舞台)・中門・正殿と三真殿が並ぶ。やや東の山門の前には明代の三龍の琉璃影壁が立つ。正殿には遼代の石像16体が安置される。

<雲崗石窟>(うんこうせっくつ)
 大同市の市街西方16km、武州山の南麓にあり、東西1キロにわたる石窟寺院。
 現存の主要洞窟は53、像は5万1000体にのぼり、中国最大の石窟のひとつであるばかりでなく、世界的に著名な芸術の宝庫である。
 開削が始まりは、北魏の興安12年(453)。中国では、歴史上、廃仏令が四度出されている。その最初が、北魏の太武帝である。446年。それを復興させたのが次の文成帝で、その復興とともに雲崗石窟の開削が始まった。
 それを主導したのが高僧・曇曜であった。
 大きく、東部、中部、西部の三つの部分に分けることができる。東部の石窟は塔の造営を特色とし、「塔洞」とも呼ばれる。中部の石窟は、どれも前室と後室を持ち、中に主仏を置き壁や天井いっぱいに浮かし彫りが施してある。西部の石窟は、中小の窟や龕が多いことが特徴的ある。
 太和19年(495)の洛陽遷都の前にほぼ現在の形になっている。
 中国三大石窟中、この石窟は石像の雄大さと内容の豊富さで現在でも高い芸術的魅力をもつ。他のふたつは、洛陽の龍門石窟と敦煌の莫高窟であるが、「敦煌の美術、雲龍の彫刻」などと比較対照される。
 雲崗石窟の中で最も古いのが、曇曜五窟(16〜20窟)である。これらは、北魏五代の皇帝(道武・明元・太武・景穆・文成)の姿を模して作られたといわれる。なかでも、第20窟の露出した大仏は雲崗石窟の象徴ともなっている。
 これらの仏像は、薄い法衣をまとい、ガンダーラ様式が中央アジアを経て中国に伝わり、河西回廊で中国に定着してゆく過程での意匠を示していて興味深い。
 また、第5・6窟は、一対窟となっており、第5窟の中央の座仏は高さ17mで最大。第6窟の壁面には仏・菩薩・羅漢・飛天、天井には三十三天神と騎馬人が彫られ、雲崗芸術の逸品ともいわれる。
 中国の地に根を下ろし広く浸透してゆく過程にある仏教と、新興の鮮卑族の出会いが力強いエネルギーとなって石窟全体を覆っている、それが雲崗石窟である、と言えよう。

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《渾源県》(こんげんけん)
<恒山>(こうざん)
 道教の聖地として名高い。
 渾源県の南部にある。中国五岳のひとつ。(東岳=泰山、西岳=華山、南岳=衡山、北岳=恒山、中岳=嵩山)
 4000年まえ、舜が四方を巡遊したさい、その雄大さを目にして北岳に封じたと伝える。その後、秦の始皇帝、漢の武帝などが訪れ、祭りをしている。
 西は雁門関(代県)、東は河北省まで、連綿として数百キロにわたって山西省の北部に横たわる。
 主峰は海抜2017mで、東西両峰からなり、東を天峰嶺、西を翠屏山という。道教以外にも仏教の施設も多い。

<懸空寺>(けんくうじ)
 渾源県の県城南方5km、恒山の主峰・天峰嶺の渓谷にある。岩にへばりつくように造られた寺院。北魏代末期(6世紀初頭)の創建。
 谷底から26m上の絶壁に穴を穿ち、梁をさしこんで土台とし、その上に建物を建てた。そのため、山腹に張り付くように楼閣殿宇が展開し、その間を桟道で結ぶ。寺の下は急流で、建物は文字通り空に懸かっているように見える。
 あるいは、遠くから望む「一幅の玲瓏たる浮かし彫り」などとも表現される。
 銅鋳・鉄鋳・泥塑・石彫など80体余りの仏像を擁し、壁には代々の名士の題詠が彫られている。
もっとも高いところに造られている三教殿には、釈迦、老子、孔子の塑像が並べて祀られ、中国古代の文化、思想、宗教を集大成しようとする考え、「儒教、仏教、道教の三教の合一」を具体的な形で表現したものとなっている。

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《五台県》(ごだいさん)  山西省北部。県の東北90キロのところに五台山がある。五峰がそびえ、山頂は樹木がなく、平らな塁台のようであることから五台と言われる。県名もこれに依った。
 山々は、恒山山脈の西南の余脈にあたる。

<五台山>(ごだいさん)
 四大仏教聖地のひとつ。他の三つは、四川省の峨眉山、浙江省の普陀山、安徽省の九華山。
 五台県の東北隅にある。周囲250kmで、東・西・南・北・中の五つの峰からなり、それぞれの山頂は平らで広く、台に似ていることから五台と称する。五峰の外を台外、内部を台内といい、台内の中心は台懐鎮という。台懐鎮には寺廟が多く、参拝の人のための宿泊施設もある。
 五台のそれぞれには名称があり、東台を望海峰、西台を挂月峰、南台を錦繍峰、北台を葉斗峰、中台を翠峰巌という。
 東台(望海峰)は、海抜2975m。雲海の彼方に昇る朝日が美しい。山頂には隋の文帝の時に創建、元代に再建、明代に改築された望海寺と北宋時代に建てられた笠子寺がある。
 西台(挂月峰)は海抜2773m。山頂には唐代の創建、明代の改築とされる法雷寺がある。
 南台(錦繍峰)は、海抜2485m。春先から初夏にかけて咲く野の花が多種多様で美しい。
 北台(葉斗峰)は、海抜3058mあり、五台山の最高峰であると同時に華北の最高峰でもある。山中の気侯は寒冷で、山頂には万年氷があり、夏の盛りでも涼しいので「清涼山」ともいう。
 中台(翠峰巌)は、海抜2894m。山頂の巨岩に生えた苔や草が盛夏の雨後遠望すると巨大な翡翠にも見えることからこの名がついた。
 後漢の時代にインドの高僧が山を開いたと伝えられる。魏晋南北朝時代(三世紀から六世紀)には、華厳経に記される文殊菩薩の住処である清涼山が五台山であるとの民間信仰はかなり広く流布していたようであり、その頃にはすでに二百を超える寺が造られていた。
 唐代には、霊仙、慧蕚、円仁、円覚など日本からの留学僧も多数訪れている。円仁は『入唐求法巡礼行記』のなかで、初めて五台の山を遠望したときの感激をこう綴る。「地に伏して遙かに礼し、覚えず涙をふらす」。 日本でも広く知られた聖地であった。
 現在、台内には39座、台外には8座の寺院がある。主な寺院としては、五台山における最初の仏教寺院である顕通寺、高さ56.3mの白亜の大舎利塔がある塔院寺、五台におけるチベット仏教系寺院(黄廟)の代表格である菩薩頂、五台山で最も保存がよい黄廟・羅?寺、獅子に乗った文殊菩薩の塑像が素晴らしい殊像寺、高さ17.7メートルの千手観音像がある金閣寺などがある。

── 顕通寺(けんつうじ)
 五台山で最初に造られた寺である。後漢の永平年間(58−75)の創建。中国に仏教が伝来したのがこの永平年間のことといわれ、中国最初の仏教寺院といわれる洛陽の白馬寺も、永平年間に造られた。顕通寺の創建が、中国仏教史上のなかで、かなり早い時期であったことが知れる。また、日本の曹洞宗の本山である永平寺の名も、ここから取られたという。
 創建当初は、台懐鎮の西側の山脈は古代インドの霊鷲山に似ていることから、大孚霊鷲山と呼ばれたが、明代に太祖洪武帝(朱元璋)より「大顕通寺」の額を賜ったことから現在の顕通寺とした。
 規模としても、五台山随一。五台山五大禅処のひとつでもある。現在の伽藍はいずれも明・清時代のもの。

──塔院寺(とういんじ)
 五台山のシンボル的存在の白塔。正式には釈迦牟尼舎利塔という。チベット仏教式の塔で、高さ56メートル。下の部分は仏殿になっており、釈迦像のほか文殊、観世音、普賢、地蔵の四菩薩を安置している。五台山五大禅処のひとつ。

──菩薩頂(ぼさつちょう)
 顕通寺の北側、台懐霊鷲山のうえにある。百八段の石段を登り牌楼を潜る。チベット仏教の寺院で、東院には漢、満、モンゴル、チベットの四種類の文字が刻まれた乾隆帝の御牌がある。

──金閣寺(きんかくじ)
 台懐鎮から南西へ15キロ。南台の中腹、海抜1900メートルの金閣嶺の上にある。正殿・観音閣に高さ17.7メートルの千手観音を祀る。もともとは銅像であったが、上から泥を塗り塑像とした。
 観音閣の裏手には弥勒殿、観間殿、地蔵殿、菩薩殿、葯王殿などがあり、最も奥には大雄宝殿がある。大雄宝殿には、十八羅漢像が完全な状態で保存されている。
 金閣寺の創建は唐代、770年。唐を代表する高僧・不空三蔵の建立による。屋根に銅の瓦を敷き仏閣を飾ったために「金閣寺」と名付けられた。不空は、日本の空海が長安・青龍寺で師事し灌頂を授けられた恵果の師である。
 また、金閣寺は、遣唐留学したまま日本に帰国することなく大陸に骨を埋めた興福寺の日本僧・霊仙が晩年住んだところでもある。お寺の横に記念の碑が建っている。

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《定襄県》(ていじょうけん)
 山西省の中部より北より、五台山の西南40キロのところにある。

<関王廟>(かんおうびょう)
 定襄県城北関にある。この廟は、運城市区にある2つの関帝廟より成立が古く、金の泰和8年(1208)の創建、元の至正6年(1346)の再建。関羽(?〜219)は宋代、忠恵公と昭烈武安王に封じられ、明・清代以降に帝の称号を受けた。したがって、元代以前の武廟はすべて関王廟という。
 主要な建物の関王殿は軒下の肘木の多彩さに特徴があり、八種類もある。
 内部の壁画は『三国志演義』の物語が描かれ、清代の嘉慶8年(1803)の作。廟内には金・元・明・清代の碑刻が多く残る

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《朔州》 (さくしゅう)
 山西省の北部、大同盆地の西南の端にあたる。桑乾河の上流の町。

<崇福寺>(すうふくじ)
 朔県の県城の東街の東側にある。唐の麟徳2年(665)の創建。遼代に林太師の衙署(役所)となったことがあるので林衙院ともいい、統和年間(983〜1012)に林衙寺と改称し、金の天徳2年(1150)に「崇福禅寺」という題額を下賜され、清の乾隆年間(1736〜95)に現在名に改称。
 規模が広大で、南北約200メートル、東西約118メートル、面積約2万3500方メートルある。
 建物は山門と観音・弥陀・地蔵・文殊の諸仏殿、さらに蔵経閣・鐘楼・鼓楼などが現存。なかでも高台にぞびえる弥陀殿は金代の建物で規模も大きく、また、なかに保存状態のよい金代の塑像と壁画を擁する。

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《交城県》(こうじょうけん)
 山西省の中部。太原盆地の西端に位置する。汾河の支流である文峪河の上流にあたる。太原からは西南へ60キロ。

<玄中寺>(げんちゅうじ)
 中国の浄土教の発祥の地。
 石壁寺、あるいは石壁山玄中禅寺という。交城県の県城西北10kmの石壁山にある。北魏の延興2年(472)の創建で、曇鸞(どんらん)大師(476〜542?)が浄土教を研究し、名が世間に知られ、その後、隋代には道綽(どうしゃく・562〜645)、唐代には善導(613〜681)が受け継いだ。
 曇鸞は五台山の近く雁門の生まれ。はじめは、不老長寿への望みが強く仙術に救いを求めていたが、インド僧・菩提流支に会い、『観無量寿経』を示され浄土教に帰依した。「生死解脱の法こそが限りない生命を得て、不死へ至る道だ」、と。
 曇鸞大師没後20年、太原の近くで生まれたのが道綽。たまたま立ち寄った玄中寺で曇鸞の碑文を目にした。その碑文の、曇鸞が仙経を捨てて浄土の教えに帰依した帰したくだりに強い衝撃を受けた。「修行によっては悟りは得られぬ。浄土の他力の教えこそが救いである」、とそれまで属していた涅槃宗を離れ、玄中寺に移り住んで、念仏生活に入った。
 その道綽に玄中寺で薫陶を受けたのが 善導。彼は、その後、長安の香積寺に移り、民衆にもっぱら念仏を勧めた。彼の教えは一挙に広まり、「 長安城中、念仏で満つ」といわれるほどであったという。
 その善導の教えが我が国に伝わって、浄土宗となった。
 善導が長安で著した書が『観経疏』。法然上人が万民救済の道を求めて悩んでいるときに、この書を読み忽然として悟る。念仏往生こそ末法の時代に人々を救う唯一の道であり、仏の本意である、と。
 こうして、日本の浄土宗が始まるのである。
 ちなみに、浄土真宗の開祖親鸞聖人の鸞の字は、曇鸞大師の鸞からとったという。 曇鸞の誕生が476年、親鸞の誕生は1173年。700年の隔たりがあるが、その700年の隔たりを超え国を超えて曇鸞の思想が親鸞に伝わる過程は劇的な不可思議さを感じさせる。
 伽藍は山の斜面にそって下から上へと建っており、下から山門、天王殿、大雄宝殿、接引殿、菩薩殿、七仏殿と続き、一番上が千仏閣である。千仏閣の内部には、木彫りの仏像が約70体余り安置され、生きいきした造形で、金色燦然と輝く。

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《平遥》
 太原市の南97キロ。完全に残されている城壁で知られる。
 中国の都市は周囲を城壁で囲んでいた。そのため、中国語で都市のことを「城市」という。しかしながらが、ほとんども町で、交通の妨げになるなどの理由で撤去されてしまっている。北京の城壁が取り除かれたのは1950年代、上海では1900年代であった。
 現在、城壁が残されている町は、西安、南京、荊州など数えるほどしかない。平遥は、城壁ばかりではなく、明、清時代の町並みが残されており、商業区の区画の在り方、役所の位置、四合院の造られ方など、往時の城塞都市の今に生きている。
 そういったことから、1997年に、ユネスコの世界遺産に登録されている。

<平遥城>(へいようじょうしょう)
 平遥県の県城にある。
 明の洪武3年(1370)の築造で、周囲6.4キロ。山西省に現存する県城の城壁の中で最大最古のもの。明・清代にそれぞれ修復されたが、基本的には明代の原形を留める。
 平面は方形で壁の高さは約12メートル、外側はすべて煉瓦で築き、内側は土を築き固めた版築という工法で作られている。上部は凸凹になった朶口(銃眼)を有す。外側に幅・深さとも4メートルの壕をめぐらす。
 城壁に東西各2門、南北各1門、計6門を開く。東西の門の外側には防御のために甕城を築く。城壁の上にはもともと,料敵台(見張り台)を94か所築いていた。城門上に城楼を、四隅に角楼を建てたが、多くは崩れ、城壁のみが残る。
 城内の街路・市場・商店等はほぼ原形を留め、明代の県城の状況を知ることができる。

<文廟>(ぶんびょう)
 平遥県の県城の雲路街の北側にある。文廟とは孔子廟のこと。
 レイ(木偏に靈)星門・大成門・大成殿・明倫堂・敬一亭・尊経閣等が主要の建物。
 大成殿は比較的古く、その他は明・清代の再建。大成殿は金代の大定3年(1163)の再建で、正面・奥行とも柱間5間で正方形に近い。
 中国に文廟は多いが、再建を重ね、早期のおもかげを留めるものは少ない。河北省正定県の五代の文廟の大成殿、山東省曲阜市の孔廟にある金代の碑亭などが残るのみである。

<鎮国寺>(ちんこくじ)
 平遥の県城の北方15キロにある。
 五代の北漢の天会7年(963)の創建で、明・清代に荒廃したが、嘉慶20年(1815)に万仏殿を修復した。
 前後二つの院落に分かれ、厳正な配置。山門は天王塑像4体が祀られ、天王殿ともいう。左右に鐘楼と鼓楼が対峙する。鐘楼には金代製の鉄鐘があり、鐘音は数里に聞こえるという。その先に万仏殿があり、軒が長く出ているのが特徴である。また、万仏殿と内部の塑像は五代の作で、敦煌の唐塑と共通した風格がある。また、三仏楼にある釈迦の故事を描いた壁画は明代壁画の傑作と言われる。

<双林寺>(そうりんじ)
 旧称を中都寺といい、平遥県の西南7キロにある。二千体を越える明代の塑像で知られる。
南壁にアーチ門があり、これが山門。寺の配置は規則的で、2本の中軸線がある。西軸は廟院で、東軸は経房・禅院・僧房が並ぶ。南北123.7メートル、東西120メートル、面積1万4844平方メートル。北魏代の初頭の創建で、明代に度々修復される。現存の建物と塑像はほとんど明代の作。
 双林寺の特色は建物よりその内陣と前廊に置かれたおびただしい数の彩塑である。大きいものは1丈余、小さいものは1尺ほどで計2052体あり、うち1566体が完全な形で残る。『三国志』の故事や釈迦牟尼の本行故事を描く48幅の絵物語などもつくられている。これらの製作年代は明代のものが多く、近年内外の注目を集めている。

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《文水県》(ぶんすいけん)
 太原の西南80キロ。太原盆地の西端。汾河の支流である文峪河流域の町。

<則天廟>(そくてんびょう)
 文水県の北5キロにある。
 山門上に神に演劇をささげるための楽楼がある。山門を更に進むと、その奥に則天聖母殿がある。
 この廟の創建は唐代で、金代に改修。現存のものでもっとも古いのは則天聖母殿で、殿内の木製の神龕に女装した帝后の像を安置する。県志と碑文によると、祀ってある女像は水母を奉じたもので、尊称を則天聖母というが、元来別であった祭祀の対象に武則天が付会されてできた廟のようである。
 唐の則天武后(高宗の皇后。623〜705・周朝の皇帝としての在位684〜705)が行く太原の文水(当地では文水県南徐村と伝える)の出身で、儀鳳3年(678)にみずから聖母神と号したことと関係があると思われるが、廟に祭られているのがだれであるかについてはなお検討を要する。

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《杏花村》(きょうかそん)
 太原の西南90キロ。杜牧(803〜852)の詩・「清明」で知られる。

 清明の時節雨粉粉
 路上の行人魂を断たんと欲す
 借問す酒家何処にか有る
 牧童はるかに指す杏花村

 早春そぼ降る雨に打たれての旅。愁いを紛らそうと牧童に酒屋を尋ねる。すると、その子は、遠くへ指を指す。見ると、遙か遠く、白い杏の群がある。ああ、あそこに村があり、酒があるのか。
 この杏花村がどこであるかは諸説があるが、この地が中国を代表する銘酒である汾酒の産地であることからするとピッタリするのだが。

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《洪洞県》(こうどうけん)
 汾河の流域。臨汾盆地の中央部にある。

<明代監獄>(みんだいかんごく)
 洪洞県の県城にある。明代の造営で、京劇の『王堂春』のヒロイン蘇三として知られる人物が投獄されたことがあるので、俗に蘇三監獄という。
 周壁を二重にめぐらし、門がふたつある。洞窟式の牢をはじめ、囚人を入れるための井戸や水槽などもある。出入口に虎頭を掲げる後院の牢獄は、重罪人や死刑を言い渡された囚人を投獄したもので、蘇三は後院の洞窟に入れられていた。
 中国の現存最古の監獄で、文化大革命の時に取り壊されていたものを1984年に復元。

<広勝寺>(こうしょうじ)
 臨汾市の北北東26キロ。洪洞からは東北へ17キロ。霍山の南麓、霍泉の水源にある。柏の老木が生い茂り、泉水が流れ、山紫水明の地。
 後漢の建和元年(147)の創建で、初めは倶盧舎寺といったが、唐代に現在名に改称、大暦4年(769)に改修。元の大徳7年(1303)に地震で倒壊し、のちに再建、明・清代に改修し、現在の規模になる。上下両寺と水神廟の3つからなる。
 上寺は霍山の山頂に位置し、柏の老木に取り囲まれ、山門を入ると、飛虹塔がそびえている。全体が黄緑藍三彩の琉璃で装飾されているので、琉璃塔とも俗称されている。また、弥陀殿・大雄宝殿・毘盧殿にはすぐれた仏像の数々が祀られている。
 下寺は山麓に位置し、建物が、地形の起伏に応じて波状に並ぶ変化に富む寺院建築。内部四つの壁にはびっしりと壁画が描かれていたが1929年に国外へ流出してしまった。  水神廟は塀ひとつ隔てて下寺の西側に位置し、主殿に水神である明応王を祭り、元代の戯劇の様子を描いた197平方メートルの壁画で内外にその名を知られている。

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《臨汾》(りんふん)
 山西省の南部。汾河の下流に当たる。

<大雲寺>(だいうんじ)
 俗に鉄仏寺といい、臨汾市の市街の西南隅にある。
 創建は唐の貞観年間(627〜649)で、清の康熙34年(1695)に地震で倒壊し、同54年に再建。
 この寺の主な建物は、山門・献亭・中殿・方塔・蔵経閣で、そのうち最も有名なのが、中殿のすぐ後ろにある方塔である。6層からなり、第1〜5層が方形、第6層が八角形で、八卦の方位にもとづいて建立。高さ30メートル余りで、各層に釈迦・菩薩・羅漢・弟子と仏教説話をテーマとした琉璃の部材をはめこまれている。また、第1層に高さ6メートル、直径5メートルの唐代の鉄製の仏塔を安置する。鉄仏寺という別名の由来となっている。

<牛王廟戯台>(ぎゅうおうびょうぎだい)
 臨汾市の市街西北25km、魏村の牛王廟にある。戯台とは芝居の舞台をいう。
 牛王廟は元の至元20年(1283)の建立で、大徳7年(1303)に地震で倒壊し、至治元年(1321)に再建し、明・清代に改修を重ねた。
 戯台のほか、献亭、正殿などが現存する。
 正殿は三王(牛王・馬王・薬王)を祭り、三王の塑像を安置する。 戯台は木造の亭式の舞台で、平面が方形をなし、宋・金代の楽亭と呼ばれる舞台様式を留める。
 中国で芝居の上演が盛んになるのは宋以降であり、開封では常興行が打たれるほどに人気を集める。やがて、元の時代にひとつの頂点に達する。晋南(山西省南部)一帯でも同様であるが、当時が舞台が現存する例はきわめて少ない。

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《襄汾》(じょうふん)
 山西省の西南部にある。汾河の流域。汾河は渭水に次ぐ黄河第二の支流。

<丁村遺跡>(ていそんいせき)
 旧石器時代中期の遺跡で、襄汾県丁村付近の汾河の両岸にまたがり、南北約11キロの細長い範囲内で、11か所の中期旧石器文化の遺址が分布する。
 1953年に発見、1954年に発掘し、人間の歯を3枚、旧石器を2005点、28種の獣骨の化石を出土した。
 1976年に二歳前後と推測される子どもの右頭頂骨の化石を発見。北京原人の小児の頭頂骨と比較するとかなり薄く、人類の形質上進化したことが明白であることから、丁村人と命名された。
 丁村人の形態は原人と現代人の中間に位置し、門歯がシャベル形という特徴を有する点はモンゴロイド系であることを示している。
 また使用した石器にも特徴があり、もっとも特徴的なのは大型三稜尖頭器と呼ばれる断面が三角形である細長い石器の使用であり、顕著な特徴があるので丁村文化と命名。丁村人と丁村文化の地質年代は後期洪積世早期、文化年代は旧石器時代中期に属し、中国の旧石器時代中期の代表的文化のひとつである。

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《夏県》 (かけん)
<司馬光墓>(しばこうぼ)  夏県の県城北方15kmの鳴条岡にある司馬光(1019〜86)とその親族の墓。
 司馬光は北宋を代表する政治家・学者で王安石率いる新法党に反対した旧法党の指導者である。同時に、『資治通鑑』を著した優れた歴史家でもある。
 二十歳で科挙に合格。神宗の即位後翰林学士となるが、神宗が起用した王安石の急進的な新法に反対し洛陽に引きこもる。その間、勅命によって着手した歴史書『資治通鑑』294巻を完成させる。
 中国の正史編纂の正統な形式が、中国を代表するもうひとりの歴史家・司馬遷が編み出した、紀伝体と呼ばれる、本紀と列伝の各人物ごとの事績を中心にした歴史著述の方法であったのに対して、編年体の通史として書かれている。
 司馬光が生まれたと伝えられる村の近くの広大な敷地に、両親や兄弟などの墓と並んでいるが、司馬光の墓は特定できていない。

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《運城》 (うんじょう)
 山西省の西南部にある。町の南に塩池があり塩がとれる。明、清の時代には河東塩運使をここに駐在させ、塩を黄河経由北京へ運ばせた。運城の名はそこから生まれた。

<解州関帝廟>(かいしゅうかんていびょう)
 運城市解州鎮西関にある。
 解州は関羽の出身の地。
 創建は隋の開皇9年(589)で、宋・明代に拡張と改修を重ね、清の康煕41年(1702)に火災で焼失し、十余年をかけて修復。現存する廟は1万8000平方メートルで、南北に分れる。
 南側は結義園で、牌坊・君子亭・三義閣・築山などからなり、周囲に桃林が生い茂り、劉備・関羽・張飛の三人が義を結んだ桃園の雰囲気を醸す。北側は正廟で、前後両院に分れる。後院は春秋楼を中心に、万楼と印楼を両翼に配し、きわめて雄大。今の春秋殿は1870年の改築で内部に関羽の金色の坐像、階上の龕には関羽が横になって『春秋』を読んでいる塑像がある。

<常平関帝廟>(じょうへいかんていびょう)
 関帝祖祠ともいい、運城市の市街南方25kmの常平村にある。三国時代の蜀の武将関羽(?〜219)は解州常平里の出身で、地元民がその徳を慕って旧居に祠を建てて祭った。創建は隋代で、金代にはじめて廟となる。その後、関羽が歴代の王朝から追封されるにつれ改修と拡張を重ね、現存の堂宇の多くは清代のもの。面積は6万平方メートルちかい。
 廟内は山門・午門・享殿・関帝殿(崇寧殿ともいう)・娘娘殿・聖祖殿の6つの院落が中軸線上に並び、その両側に廂房・配殿・回廊がある。
 関帝殿内の木彫りの神龕は華麗な装飾を施し、関帝が儀式用の冠をかぶり、皇帝の衣裳をまとい、竜椅(玉座)に端坐し、神龕の内外に四人の恭謙な従者を配す。
 娘娘殿内には、関羽の夫人が鳳凰の冠をかぶり、儀式用の肩がけをして中央に建つ神龕があり、布か笏を手にする恭謙な従者が控える。いずれの像もバランスがよく、表情・姿態がごく自然で、清代の塑像の傑作といわれる。
 いちばん奥に位置する聖祖殿は、関羽の始祖である忠諌公、曾祖父の先昭公、祖父の裕昌公、父の盛忠公と三祖の夫人を祭っており、武人の廟としては珍しい。
境内の東隅にある八角7層の磚塔は、関羽の両親を祭るために金の 大定17年(1177)に建立した。廟の南の石碑が林立しているところは、関羽の祖先の墳墓。

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《ゼイ城県》(ぜいじょうけん)
 解州の南40キロ。山西省の西南端、陝西、河南の両省に接する。南を黄河が流れる。

<永楽宮>(えいらくきゅう)
 道教の大本山。もと大純陽万寿宮といい、ゼイ城県の県城北方3キロ、竜泉村の東側にある。
 県城西方20キロの永楽鎮にあったが、黄河の三門峡ダムの建設で水没することになり、現在地に移された。
 道蔵(道教経典の総称)中の関係のある典籍と境内にある碑文によると、永楽鎮は道教八仙のひとりである呂洞賓の生まれたところで、呂氏の死後に地元民が旧居を呂公祠に改めた。金代末期、呂洞賓の神話が流布するにつれ、礼拝に訪れる者が徐々にふえ、道教寺院の形態を整えられた。
 モンゴルの太宗3年(1231)に火災で焼失したが、当時道教の主流の全真派の首領である邱処機(1148〜1227)らが朝廷の寵愛を受け、祖師の呂洞賓もますます尊崇されていたので、翌年、勅命によって宮に昇格させ、呂洞賓を天尊に封ずるとともに、宮殿の造営にあたらせた。ほとんど元朝一代の歳月を費やし、その後、明・清代に小規模な補修はあったものの、元代の様式をほぼ完全な形で留めている。
 中心をなす宮門・竜虎殿・三清殿・純陽殿・重陽殿が中軸線に並ぶ。宮門は清代のものであるが、その他は元代のもの。もっとも重要にして、大きな建物である三清殿が前のほうに位置しており、その点、中心をなす殿宇が後ろにある一般の仏教や道教の寺院とは明らかに異なる。むしろ、皇宮の配置に似ていると言うことができ、その点でも朝廷からも重視されていたことが知れる。
 三清殿は、間口約28メートル、奥行約15メートルの壮麗な建物で、とりわけ興味深いのは元代に洛陽の馬君祥が描いたとされる「朝元図」という壁画である。高さ約4メートル、全長約95メートルあり、道教の諸神290体あまりが荘重な雰囲気で描かれている。また、動植物や魚介類などの壁画も精緻で保存が良い。
 純陽殿は、間口約20メートル、奥行が約14メートルの建物で、内部に描かれた「純陽宮仙遊顕化図」が宋・元代の風俗を描いていることで名高い。
 各殿の精美な壁画(斗?間の小壁の壁画も含む)はあわせて100メートルに達する。

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《永済市》(えいさいし)
 運城の西南80キロ。山西省の西南端。西に黄河が流れ、それを越えると陝西省。

<普救寺>(ふきゅうじ)
 元代の王実甫の雑劇の名作『西廂記』の舞台として知られる。  永済の西北12キロの土丘にある。南は古蒲州城址に隣接し、東は西廂村に連なる。周の武則天(在位684〜705)のときの創建で、もとは西永清院という。  五代(907〜979)のときに後漢がこの地の反乱を鎮めようと一年余りにわたって蒲州城を包囲した。その時、この寺の僧が後漢の将軍を説得することで攻撃をやめさせ多くの住民が救われた。それ以来、普救寺と呼ばれるようになったという。
 宋・元両代に盛況を極め、明の嘉靖34年(1555)に地震で倒壊し、のちに再建。
『西廂記』とは書生・張君瑞と良家の娘・崔鶯鶯の波乱に富んだ恋物語で、元代を代表する戯曲のひとつである。その舞台が、ここ普救寺であった。
 なかでも、西廂花園は作中、老夫人と鶯鶯がいたところであるが、1920年に火災で焼失し、遣構と石坊・三大士洞・舎利塔などが現存するのみ。舎利塔は塔身の中央を石でたたくと、こだまのように音が響くという。『西廂記』が流布するにつれ、鶯鶯を懐かしみ、鶯鶯塔ともいう。

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