<人はなぜ巡礼をするか>
【非日常としての巡礼】
チベットを旅していると巡礼に出会う。
ナクチュで出会った若い女性の巡礼は独りで歩いていた。手にマニ車を廻し、口に「オムマニベメフム」の真言を唱えながら。雲南省の中甸からきたという。ラサのジョカン(大昭寺)を目指し、三ヶ月も四ヶ月もただ独りで歩き続けている。
家族のサポートを受けながらの巡礼もある。青蔵公路を、五体投地で進む若者を見た。五体投地で崑崙山口(4676m)を越え、タングラ山口(5200m)を越えてきた。青海省の果洛からきた。ラサまでもう少し。あと一、二ヶ月で着くと嬉しそうに笑う。不毛の大地。四千メートルの高地。人家はもとより遊牧民のテントさえない。どうしてそんなことが可能なのだろう? 尋ねると前を指さす。大八車を引く一団が見える。両親と妻と子どもたちなのだそうだ。荷車には、食料、寝具が積んである。
トラックをチャーターしての巡礼もある。甘粛省のラブロン寺で出会ったトラック・ツアーは四川省のカンゼ(甘孜)州セータル(色達)というところから来たという。そこから川蔵公路で、先ず、ラサに行きジョカン(大昭寺)に詣でた。その後、シガツェへ寄ってから、青蔵公路を西寧へ。タール寺、隆務寺というチベット仏教の聖地を経巡り、いま、ラブロン寺にいる。これから、ゾルゲ(若爾蓋)を経て、セータル(色達)に帰るという。
「何キロ走ります?」
「七千キロぐらいかな」
「何日間?」
「うまく走れば50日で帰れるさ」
オンボロトラックが、43人の巡礼を鈴なりにして、もうもうと砂煙を上げて走っていった。
何なのだろう?
チベットには巡礼が溢れている。東から西へ。北から南へ。有象無象の民衆が命懸けで歩いている。
不毛の地、チベットを覆う巡礼の情熱は、どこから来るものなのだろう?
ツェダンで出会った巡礼の言葉が忘れられない。
赤ちゃん連れであった。母親がお乳を吸わせていた。チャムド(昌都)からやってきた。八ヶ月歩いている。あと半月でラサに着く。
無一文で家を出てきた。家は貧しくはない。それでも無一文で出てきた。持ってきたのは、背負える範囲のツァンバ(麦こがし)だけ。
乞食となって歩く。乞食となって巡礼をする。夜は、祠や岩の間で寝る。食べ物は、人の施しを受けながら歩く。巡り合わせの悪いときは、持参のツァンバで食いつなぐ。
裸になる。裸になって絶対的に仏に帰依する。絶対的に身をゆだねる。乳飲み子を連れての巡礼には、最初、不自然な想いを抱いたが、話を聞いた後では感じが変わった。何か、象徴的な意味合いがあるのだ、と。仏の慈悲に絶対的に身をゆだねる。
そうやって、生まれ変わるのだ、という。
これには、もちろん、大変な決心がいる。
チベット人なら誰もがやるか? そんなことはない。できるわけがない。今自分が持っているものを全て捨てて無一文で歩き出す。そんなことが、誰にでもできるわけがない。
チベットには、巡礼が食っていける喜捨のシステムがあるのだろう。それでなければみんな本当に野垂れ死んでしまう。このシステムを支えているのは、チベット人の巡礼に対する尊敬の念をおいてはあり得ない。人は、誰でも無一文になって仏に向かって歩かなければならない。だけど、今の自分はできない。できないから、実行をしている人をサポートする、というように。
私は、巡礼の話を聞きながら、ゴルムドからラサへ走ったときの青蔵高原の荒涼たる大地を思い出していた。広大にして不毛。そこに聳える七千メートルの山々。そこを走るバスなんてホンの芥子粒みたいなものだ。そこで稀に出遭う遊牧民なんか芥子粒にもならない。人間という存在の絶対的な小ささ。無力さ。
この大地に生きるチベットの民が、その胸に、絶対的な小ささ、無力さから来る、絶対者に対する絶対的な帰依への願望を抱いていても不思議ではない。
彼らはいつも聞いているのではないだろうか。乳飲み子よ。自分が乳飲み子であることを思い出せ。思い出したら、裸になって歩いてこい、という声を。
その内なる声に揺り動かされ、日常を捨て、ある日突然、ラサに向かい、あるいはカイラスに向かい無一文で歩き出す。
そういうことではないだろうか?
【日常としての巡礼】
巡礼とは何だろう、と考えるとき、いつも思い出されるもう一人の巡礼がいる。青海省のタール寺で出逢った。内蒙古からやってきたという。歳は六十ぐらい。
なぜ巡礼をするのですか。この問いに、こう答えた。
「来世のためです」。
この答えには驚かない。大抵の巡礼は、こう答える。
「現世のことは祈りませんか?」
彼は静かに答える。
「誰にでも過去生があり現世があり未来世があります。私たちに見えているのは現世だけです。しかし、確実に過去世がありました。それによって現世があり、現世があることで未来世があります。それをあなたは信じますか?」
彼はこう言って私を見た。黙っていると、こう続けた。
「仏教徒であることは、それを信じることです。それを信じるとは、未来世に向かって祈ることです。巡礼というのは未来世に向かって歩くことです。でも未来世に辿りついたとき、そこにあるのは現世ですから、そこでもまた、未来世に向かって祈り、歩くのです」
話を聞きながら西行を思い出していた。平安末期。富裕な武家に生まれ北面の武士となるが、二十三歳の時に妻子を捨てて出家。爾来五十年、旅に生き旅に死ぬ。
「願はくは花のしたにて春死なん そのきさらぎの望月のころ」
現世は旅。生きることは、現世から来世に旅すること。行住坐臥の日常が、ことごとく旅のなかでのことになる。巡礼は、現世という旅のなかでの旅。少しも特別なことではない。ごくごく当たり前のこと。事実として、否が応でも、人は巡礼者なのだ、と。
老人の言ったことは、そういうことなのだろう。
「非日常としての巡礼」と「日常としての巡礼」。二つの切り口から巡礼を眺めてみた。どちらかが正しくてどちらかが間違っている、というものではないのだろう。
鍵は、巡礼に注ぎ込まれる膨大なエネルギー、飽くことなく倦むことのない情熱なのである。そのエネルギー、情熱の源泉を、非日常的な突発的な面で捉えようとするのか、それとも日常的な持続の面で捉えようとするのか、ということだけのことだ。
最も重要なのは、そのエネルギー、情熱に対する私たちの想像力なのである。
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<魂の浄化としての巡礼>
ミラレパ。瞑想者でもあり詩人でもある。人里離れた洞窟で日がな瞑想をする。身に纏っているのは襤褸切れ。食物とするのはいら草。生きたのは十一世紀から十二世紀にかけて。
チベットの民衆に最も慕われている聖者であろう。
口伝えに、あるいは、『ミラレパの伝記』と『ミラレパの十万歌』などの書物にによって、千年もの間語り継がれてきた。
なぜ、ミラレパはこれほどチベットの人々に親しまれ愛されるのか。
『伝記』を読むと、ミラレパは、人々の夢なのだと思う。『伝記』には、チベットの人々の心に宿る彼ら自身の夢の姿が投影されているのだと思う。
寺院も起こさぬ。宗教組織にも属さぬ。ただ、生涯一人の瞑想者として生きる。もちろん、こういったことも、人々の夢の形の一部であろう。ただ、もっと重要な側面は、覚りに至る過程。覚りに至る過程でミラレパが課せられたもの。そこに、人々の夢の形を感じるのではないだろうか。
浄化、ということ。
ミラレパは裕福な家に生まれる。花よ蝶よと育てられるが、父親が病死すると状況は一変する。財産は、父親が信頼を寄せていた叔父夫婦に横取りされ母親は彼らの使用人にされてしまう。それを恨んだ母親は、十五歳になったミラレパに呪術を学ばせに旅に出す。師につき修行を重ねたミラレパは、やがて、呪術によって叔父一家を破滅させることに成功をする。
三十八歳になったミラレパは、過去の悪行を悔い、救いを求めてマルパに師事する。マルパは「翻訳者マルパ」と呼ばれ、インドから新しいタイプの密教を学びカギュ派を開いた人物である。
ミラレパはマルパに不条理にいじめられる。家を建てろと命じられる。石を運び、石を積み家を造るが、完成前に、今度はそれを壊し石を元の場所に戻せと言われる。戻すと、また別な形の家を造ることを命じられる。石を運び、石を積み家を造るが、完成前に、また、それを壊し石を元の場所に戻せと言われる。また、造れと命じられる。また壊せと言われる。
カミュの謂うシジフォスの神話のような不条理性。
ミラレパは、この不条理に耐える。ラマ(師)に対する絶対的な帰依によってである。この不条理に耐えるラマに対する絶対的な帰依は、ミラレパの人気の一つの柱であろう。
そしてもう一つ。後に、マルパからミラレパに灌頂が授けられる時に、明らかにされるのだが、これらの不条理な試練は、ミラレパがその身のうちに積んできた巨大なカルマ(業)を浄化させるために必要であったのだ、と。
この浄化ということ。
広大無辺の曠野であるチャンタン高原をカイラスを目指し行く巡礼でもよい。不毛の青蔵公路を五体投地でラサを目指す巡礼でもよい。彼らの姿に、彼らの心にある夢の形を想う。それは、彼らがミラレパの物語に託す想い。浄化ということ。カルマを浄化させるための道のりとしての不毛の荒野。カルマを浄化させる道のりとしての五体投地。
巡礼が行く大地は不毛でなければならない。五体投地は荒行でなければならない。それは、チベット人の夢なのだ。
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