<オムマニベメフム>
チベットは祈りの王国である。チベット中に祈りが満ちている。
甘粛省のラブロン寺。
朝の五時、暗いうちから教堂では勤行が始まる。最盛期の三千人には及ばぬものの、現在七百名の僧を擁する。薄暗いなかに灯明の灯りが揺れ、読経の声が、うねるように湧き上がるように響く。冬の朝の冷たい空気をピリピリと振るわす。
その頃には、堂の外では、巡礼の人々が桑炉で柏の葉やツアンバを燃やす姿が見られる。真っ白い煙の中で両手を会わせる。話を聞いた老人は69歳。二十キロほど離れた草原に住んでいる。毎月、一日、五日、十三日の日には、真夜中に出発し馬で二時間かけて祈りに来るという。
すっかり明るくなる頃には、巡礼の群れがお堂をコルラする。右回り右回り。マニ車を廻しながら何回も何回も巡る。
お堂は幾つもある。十も二十も。どのお堂の周りにも、巡礼の群れがある。右回り右回り。
すべてのお堂を囲んで寺の塀がある。その塀の周りを、これまた、巡礼がコルラする。右回り右回り。
お堂のなかに祈りが満ち、お堂の周りにも祈りがあり、そのお堂が幾つもあって、その全部を取り巻いて、また祈りがある。
人々が口に唱える祈りの言葉は、「オムマニベメフム」。観音菩薩を称えるタントラ(真言)。「蓮華にある宝珠に幸あれ」という意味だという。「オムマニベメフム」「オムマニベメフム」。
少なくとも、チベット仏教では、蓮華の花弁は観音菩薩を象徴している。蓮華にある宝珠とは、観音菩薩にほかならない。「オムマニベメフム」「オムマニベメフム」。
チベットは祈りに満ちた地。不思議なところだ。
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<観音菩薩>
チベットの人々の信仰とは、観音菩薩がチベットの民を救い尽くす、という信仰である。
ポタラ宮という。ポタラという名は、サンスクリットのポータラカに由来する。ポータラカは観音菩薩の住むところを意味し、南瞻部洲(インド)にあったことになっている。
(ポータラカはインドから中国、日本にも伝わり、中国では、浙江省の舟山群島の普陀山をポータラカと考えた。日本では和歌山県の那智などを補陀落として信仰してきた)
また、ダライ・ラマが、チベットで絶対的な信仰を集めるのは、ダライ・ラマが観音菩薩の化身だとされるからである。
一方、パンチェン・ラマは観音菩薩の化身とされる。もともと仏教では、観音菩薩は阿弥陀仏の脇侍である。阿弥陀仏の左に慈悲無限菩薩としてひかえ、右には知恵の象徴である勢至菩薩がひかえる。
ところが、チベットでは、ダライ・ラマの方が圧倒的に上位におかれる。それは、自分たちを救うのは観音菩薩であるという信仰からきている。
では、なぜ、チベットでは観音菩薩が彼らを救うことになっているのか?
本願寺大谷光瑞の命を受けてタクラマカン砂漠に赴いたのが橘瑞超なら、チベットに向かったのは青木文教。ラサに滞在すること三年。その青木文教が著す『秘密国チベット』にこうある。
チベット古代史にある伝説に従うと、西方極楽の在せる阿弥陀如来は、一日かの慈悲の分身であるところの観自在菩薩に勅して南瞻部洲(すなわちインドの地)に降り、無仏教地たるチベットに聖法を宣布せよと命ぜられた。観音菩薩は勅を畏みてインドに降臨し先ずその宮殿として、インドの南端に突出せるコモリン岬の抱ける港湾を俯瞰する大きな巌上にポタラを選定せられた。それから観音菩薩はこの世界における無仏の地たる「雪有邦土」すなわち今日のチベットに開教するため、早速「北方の雪邦」に向われ、神変力をもって猿猴及び羅刹女より人類を創造せられ、ついに仏法弘通の機縁を得られたものとある。
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こういうことから、チベット人は観音菩薩を自分たちの救済者として受け入れているとされる。
上にある「猿猴と羅刹女」の物語については、石濱裕美子氏の解説があるのでそれを引用させていただく。羅刹女とは女の羅刹。羅刹とは、人の肉を食う凶暴な悪鬼を言う。
まだ、チベットが無人の荒野だった頃、観音菩薩は一匹の猿を化現し、その猿に居士の戒を授けてチベットに瞑想修行に赴かせた。猿が岩山で瞑想をしていると、一匹の羅刹女がやってきてさまざまに媚態を示した。居士の猿が動じないと、羅刹女は娘の姿に化し、夫婦になることを迫った。それでも居士の猿が断ると「では、私は羅刹と結婚して、昼には万の生き物を殺し、夜には千の生き物を食おう。羅刹の子供を無数に産んで、有説の王国(チベットの美称)を羅刹の城にかえてやろう」といった。ここまでは、チベット版安珍・清姫伝説であるが、この先チベット版は日本版と異なって悲劇には終わらない。
居士の猿は「このものを妻にすれば戒律を破ることになるし、妻にしなければさらに殺生を行う結果となる」と悩み、ポタラの観音菩薩のもとに助言を求めに向かった。すると、観音菩薩も二人のターラも結婚を勧めたので居士の猿は羅刹女と夫婦になった。この二人の子供の末裔がチベット人の起源と言われている。
(『チベット歴史紀行』河出書房新社)
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<バターの灯明>
チベットの寺に満ちているもの。ひとつは祈りである。もうひとつある。それは、バターの焼ける臭い。ヤクの乳で作るバターである。
巡礼の人々は寺に詣でるとき、このバターを持ってお堂を巡り、奉納して歩く。人々から寄進された灯明で、お堂の灯りは消えることがない。「自分が捧げたバターで今も釈迦牟尼像が照らされている」。こう思うことは気持ちの良いことかも知れぬ。
さて、祈りとバターの焼ける臭い。これがチベット寺院には詰まっている。濃密な祈りと、濃密な臭い。
最初は、バターの臭いに違和感を感じるものだ。日本人のお寺に対するイメージ、あるいは美意識とは必ずしも合わない。動物質の臭い。テカテカした感じ。それこそバタくさい。
それでも、馴れて来るに従い、「なるほど。これで良いのだ」と思うようになる。
五ヶ月も六ヶ月もかけて巡礼がやってくる。なかには五体投地でやってくる人もいる。そういう信仰である。密度の濃い祈りがある。その濃さに合った灯明がヤクのバターである。選んだわけではない。チベットは不毛の地。ヤクのバター以外に灯明なんて考えられない。選んだわけではないが、チベットでは、祈りは濃密になり、灯明は臭くなる。
そこで祈りの対象になり、灯明に照らされているのは、赤や青の原色の仏画であり、人の骸骨を数珠繋ぎにして首からかけた忿怒の像であり、妃をかき抱いた歓喜仏であったりする。
そういう濃密さ、強烈さにおいて、ヤクのバターこそが見合っている。
というわけで、チベットの寺の魅力は、は濃密な祈りとバターの灯明の臭い。
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<五体投地>
チベット語でキャンチャ。
旅行案内書などには、「両手の掌を合わせ、はじめは頭、次に口、最後に胸にあてて、手を離し全身を前に投げ出す。チベットの定番的礼拝方法。ありがたい仏像の前ではあなたもどうぞ!」などと書かれているが、チベット人にとってはもう少し深刻なことかも知れない。
合わせた掌を、頭と口と胸にもってゆくのは意味がある。
仏教徒として縁起論を受け入れる。この世のすべての事には実体がない。あるのは、原因と結果の繰り返しだ、と。現世の自分は前世の自分の結果だと、この結果としての現世が、来世の原因になる。
輪廻という。何かが持続する。実体としての私が持続するのではない。原因と結果の輪が持続する。現世の間に、できるだけよい「原因」をなし、来世によい「結果」を残したい。少なくともチベット仏教はこう考える。よい「原因」とは、外界に対する良い働きかけであり、外界に対する働きかけというのは、身体、言語、意識の三つの門を通じて行われる。シャカムニの三つの門、身体、言語、意識を象徴するのが仏像であり、仏典であり、仏塔である。人においては、頭であり口であり胸である。
五体投地で、合わせた掌を、頭と口と胸にもってゆく。もってゆくだけではない。合わせた掌を頭に置きこう念ずる。「この身体がこれまでになしてきた罪を清めたまえ」と。口の前に置きこう念ずる。「この口がこれまでになしてきた罪を清めたまえ」と。胸の前に置きこう念ずる。「この心がこれまでになしてきたし罪を清めたまえ」。
こうやって、罪を罪として懺悔し、許しを求めるべく全身を投げ出す。
五体投地の意味を理解するためのポイントは、おそらく、輪廻する自分と、在ることによってなしてしまう罪、キリスト教の原罪意識にも似た罪の意識、にあるのだ。
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<コルラ(巡拝)>
聖なるものがある。その周りを廻る。それをコルラという。必ず、右回りに廻る。
日本人が神社にお参りをするときには、こういう参拝の形式は採らない。キリスト教もイスラム教も。
チベットでは、誰もが右回りに廻っている。渦を巻くように。例えば、ラサには三重の巡礼路があるという。一番内側は、ナンコル。チベットでもっとも聖なる寺院はジョカン(大昭寺)。そのジョカンで最も聖なる仏像は釈迦牟尼像。その釈迦牟尼像の周りを巡るのが、ナンコル(内環)である。人びとは無数に並べられたマニ車を廻しながら繰り返し繰り返し巡礼をする。
そのジョカン(大昭寺)を取り囲むのがパルコン(八角街)。仏像・仏具・経典、タンカ、お供え用のバター、絨毯、チベットの薬草、ナイフ、頭蓋骨まで、バザールの賑わいに似た環状の径がパルコン。人びとは、このパルコンを、右回りにコルラする。
五体投地で巡礼をする人、携帯用マニ車を廻しながら巡礼する人、仲間と談笑しながら歩く人。それぞれであり、全体には、内環のような緊張感はないが、ともかくも、聖なる寺・ジョカンを巡り無数の人びとが朝から晩までとぎれることなく、右回りに右回りにと渦を描いている。
最も外側にあるのがリンコル。ラサ市街のみならず、ポタラ宮をも含めた巡礼の径である。ダライ・ラマ十三世の信頼を得て、チベットで修行をすること十年に及んだ日本人僧・多田等観は『チベット滞在記』のなかでこのリンコルをこのように言う。
全行程は五マイルくらいである。右手で常にマニ(摩尼輪)をまわし、左手に数珠を持ち、観音の真言オムマニペメフムを唱えながら進む。中には世間話をしながら歩くような者もないではないし、また逆に極端な最高の礼拝する者は路面に体を投げては礼拝しつつ進むので、朝から晩まで歩いて三日もかかる者もいる。また、ポタラ宮の前では、頭を地面にすりつけて礼拝する者がかなり多い。
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ラサに限ったことではない。チベットじゅうがそうである。山がある。そこに寺がある。寺にはいくつかの堂がある。堂には聖なる仏像があり、廟がある。人びとは仏像の周りを右回りにコルラする。廟の周りを右回りにコルラする。堂ごとにその周りを右回りにコルラする。そして、山に沿って寺の周りを右回りにコルラする。人びとは右手に手マニ車を廻しながら、左手に数珠を繰りながら、コルラする。
小さな渦がある。その渦を取り囲む渦がある。その渦を、また、取り囲む渦がある。その渦が無数にあって、どれもが右回りに廻っている。その無数の渦をもうひとつ囲って、それ自体が右回りに廻っている祈りの渦が「チベット」なのである。
礼拝の対象を常に右に見ながら巡る右繞の礼法は仏教以前から古代インドで行われていたもので、それが仏教にも伝わったという。
尊いものは右にある。どういうことであろうか?
ただ、ジョカンを歩いていても稀に、逆回りの人に出会う。彼らはボン教徒なのだそうである。
ボン教というのは、仏教伝来以前のチベットに広まっていたアミニズムである。山や峠や湖や河に精霊と悪霊の気配を感じ取り、積石をしたり、ヤクの頭の骨を捧げたり。インドからの外来宗教である仏教がチベットの地に根付くには、ボン教との葛藤と宥和が幾世紀にもわたってあった。経文を五色の布に刷り峠や屋根に掲げる。風が経文を読む、という。書いてあるのは仏教の経文だが、「風に読ませる」という意匠は、明らかにボン教のものである。
そのボン教徒は聖なるものに対して左回りに廻る。カイラスでも。
もともとの礼法と言うより、仏教伝来後、仏教への対抗上意図的にそうしたといわれている。
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<六道輪廻図>
どの寺の入り口にも六道輪廻図が掲げられている。生き物は、始まりもなく終わりもなく、無限に輪廻を繰り返す。仏教の基本的な世界観である。いや、「輪廻」は仏教の発明ではない。紀元前八世紀〜紀元前五世紀には、カーストの秩序を理論付ける思考として広く受け入れられていたという。「輪廻」と「業」の思想として。すなわち、人間の現世は、前世の行為(業)を刈り取っているのであり、現世の行為は来世に刈り取られる。人は、この無限の繰り返し(輪廻)のなかにある。現世におけるカーストの高低は、そのように決まっているのであり、現世においては低いカーストの人間も、カーストの儀礼にしたがって正しく生きれば来世はより高いカーストで生まれてくることができる、と。
「輪廻」とは、車輪が回転をする、という意味である。もちろん中国語であるが、この言葉の元になったのはサンスクリット語のサンサーラ=さまようの意)、その中国語訳だという。バラモン教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教などインドが生んだ宗教は、いずれもがこの「輪廻」を説く。
仏教は、カースト制を否定しながら「輪廻」と「業」を引き継いだ。人は、本来どのカーストにも属していないものだ、と。そして、無限の輪廻の中で畜生に生まれることあれば餓鬼に生まれることもある、と。それを永遠に繰り返すのだ、と人間の枠を越えて輪廻を想定してした。それが、六道輪廻である。
六道輪廻図は人の頭蓋骨で頭を飾った鬼が持つ輪として表される。その輪が六つに分かれ、上半分には中央に「天」、その右に「阿修羅」、左に「人」の世界が描かれる。下半分は、中央が「地獄」、その右に「畜生」、左に「餓鬼」の世界が描かれる。
チベット人は殺生を忌む。虫も殺したくない。彼らはこういう。「永い永い輪廻のなかでこの虫が、いずれかの過去生のなかで、自分の母親であったかも知れない」、と。私たちが実感を持ってその言葉を受け止めることは難しいが、いずれにしても、天地創造において世が始まり、終末において世が終わるキリスト的世界観と対極をなすイマジネーションである。
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<前伝仏教と後伝仏教>
チベットでは、仏教の伝来を二つの時期に分けて考えている。最初にこの考えを提唱したのは、チベット史上最高の頭脳の持ち主といわれるブトゥンであるといわれる。十四世紀のこと。
境は、十一世紀、インドの名僧・アティーシャがもたらした教えから以降が後伝仏教である。
古代チベット王朝の最大の英雄はソンツェン・カンボ(581年〜649年)。第三十三代の王である。彼の時代国力は唐をも圧するほどであった。
同時に、仏教がチベットへ導入される基を造った王でもあった。彼が武力を背景に唐とネパールから娶った王女は、それぞれに由緒ある仏像を持参してきた。そして、ジョカン(大昭寺)を創設したのはネパールから嫁いだ王女・ティツゥン妃であり、ラモチェ(小昭寺)の創設は唐からの王妃・文成公主であるという。前者はインド仏教招来の象徴であり、後者は中国仏教招来の象徴でもあった。
仏教の国教化は八世紀、ソンツェン・カンボの四代後、ティソン・デツェン王による。彼の時代は、古代チベットの黄金時代であった。安史の乱に乗じ唐の長安を一時占拠したり、敦煌を半世紀以上にわたり支配しシルクロードの交易を押さえるのもこの時期である。
ティソン・デツェン王は、仏教を積極的に擁護し、インドから密教行者パドマサンバヴァを招聘しチベット初の僧院サムイエ寺を建立する。このことは、インド仏教の、中国仏教との争いにおける勝利、同時に、チベット土着の信仰との争いにおける勝利を意味する。
ところが、九世紀になると事態は一変する。時の王、ダルマ王は土着のボン教を支持し、仏教を弾圧する。僧は還俗させられ、経典は焚書される。以後二百年、仏教は暗黒の時代を経ることになる。
このダルマ王以前の仏教を前伝仏教と呼ぶ。
この暗黒に灯明をもたらしたのが、インド僧・アティーシャである。彼の入蔵はその後のチベット仏教に決定的な影響を及ぼすことになる。そこからが後伝仏教である。
十一世紀になると、仏教はようやく復興の兆しを見せ始めていた。そんな中、仏教復興に熱心であった西チベットのグゲ国の王・イェシェ・ウーがが特にインドから招聘したのがアティーシャであった。アティーシャはマガタ国のヴィクラマシーラ僧院の大学僧、インド仏教界の至宝であった。
ヴィクラマシーラ僧院というのは、インド仏教最後の大拠点であった。普通、インドにおける仏教の終焉というのは一二〇三年とされるが、それは、イスラム勢力がヴィクラマシーラ僧院を陥落させたことをもって言われている。
アティーシャの入蔵と布教というのは、その意味で、大変に大きな意義を持つ。インド仏教陥落ギリギリのところで、インド仏教最後の至宝がチベットに引き継がれた、ということである。
グゲ国が彼を招聘するについては、こんな逸話が残されている。
イェシェ・ウーがトルコ軍に捕らえられてしまう。トルコ軍は、王の身体と同じ重さの金を要求するが、イェシェ・ウーは、その金をインドから高僧を招くのに使いなさいと言って自ら犠牲になる。アティーシャはその献身に心を打たれ、チベットでの布教を決意したという。
アティーシャの主著は『覚りに至る道を照らす灯』。
ツォンカパも、この論を基礎に教理・実践体系の集大成を行ったという。
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<ツアンバ>
チベット人の主食である。裸麦(チンコー)を炒って挽いて粉にしたもの。日本でいう「麦こがし」に当たる。
それに、バター茶を注いで、指でこね、適度の堅さ適度の大きさにして食べる。
チベットの大地は、ほとんどの地域で、裸麦以外の穀物を産しない。これを食べて成長し、これを食べて生きる。日本人にとっての白米よりも、もっと密接に人々の生活、人々の人生に結びついたものである。
フランス人のチベット学者フランソワーズ・ポマレは『チベット』(訳:後藤淳一)のなかでこういう。
「1959年、インドのカリンポンで発行されている『ザ・チベット・ミラー』紙に、抵抗へのアピールが掲載された。このアピールはチベット人ではなく、「ツアンパを食べるすべての人々」に向けられたものであった。それほどに、大麦を炒って作られるツアンパは、チベット人のアイデンティティの象徴なのである。
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チベットに馴染みの深い日本人として真っ先に思い浮かぶのは河口慧海と西川一三である。一方は、明治の三十年代、大乗仏典の原書を求めて単身、鎖国中の、チベットへ向かう。一方は、第二次世界大戦の終戦を挟んで、モンゴル人に変装して蒙古から青海を越えてラサへ辿り着く。その体験記『チベット旅行記』と『秘境西域八年の潜行』は、読むに身震いがするほど凄い本であるが、ともに、ツアンバについての記述も多い。
河口慧海が関所を避け、雪のヒマラヤを越えてチベットに向かう場面である。
かつて日本を出発するとき、私は三年後にはチベットの国境にはいれよう。準備のため三年はかかると考えていたが、ちょうど三年目に、すなわち明治三〇年六月二六日に出発して、明治三三年七月四日にこの国境に着いたので、自分の想像が違わなかったうれしさに耐えられなかった。
とにかくからだが疲れているので、まずその辺で一と休みと思ったが、どうにも雪ばかりでよいところがない……。
そこで袋の中から麦焦しの粉を出して椀の中に入れ、それに雪と幾らかのバターを加えて、うまいぐあいにこねる。また一方の椀には、トウガラシと塩を入れておいて、そして一方の麦焦しを雪とバターでよくこねて、そのトウガラシの粉と塩とをつけて食うのである。そのうまさは、実に極楽世界の百味の飲食もこれにおよぶまいか、と思うほどうまかった。
そこでまあ椀で二杯くらい食うと、それでその日の食事はすむ。
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豪放でもあり、チベットの国境に着いた喜びにツアンバを食い、「極楽世界」の味と乙に入っているところはユーモラスでもある。
一方の西川も面白い。
このザンバーをこねるにはなかなか熟練を要し、初めはお茶が多かったり少なかったりしてぐちゃぐちゃになったり、バサバサになったりでなかなか量加減がむつかしく、また左手で椀を回しながら、右指先でこねるのに大変な技術を要するのである。ザンバーをこぼし、落として胸前を真白くしたりするのが常である。またいくら椀を回しながら指先でこねても、お茶とザンバーがなかなか練り合わないのに苦労する。しかし、やがてこれをうまくこねることができてザンバーの味がわかって来れば、箸を使って刺身の味を知った西洋人が一人前の日本通になると同様、一人前に西北の民とともになることができるのだ。
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それぞれのチベット体験があり、それぞれのツアンバがある、というところだろうか。
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<地理・気候>
チベットというのは、特異な文明を持っている。その意味で、どこまでがチベットなのか、どこからがチベットなのか、という議論は興味深いものである。
チョルテン(仏塔)が建てられタルチョ(お経を印刷した五色の布)がはためき、人々がマニ車を廻しながらコルラ(巡礼)していればそこはチベットだ、と言われればそういう気もする。
また、青海省を、西寧から青海湖に向かうとき日月山の峠を越えて行く。それまでは、大麦やら裸麦の畑が見えるが、峠を越えると景色は一変し、果てしなくうち続く大草原の世界になる。そこに放牧されているのはヤク。大草原の先には六千メートル、七千メートルの夏も雪を頂いた峰峰。同じ青海省なのだが、「ああ、チベットの世界に入ってきたなあ」と思う。
ただここでは、「チベットとは何か」という関心はとりあえず措き、行政単位としてのチベット自治区に的を絞った上で、その地理的な状況だけを一瞥することにしよう。
北の境を画すのは崑崙山脈。南の境を画すのはヒマラヤ山脈。西にあるのはパミール高原。東にあるのは雲貴高原。何ともスケールが大きい。
東西に2000キロ。南北に1000キロ。面積は123万平方キロ。
人口は250万人というから、日本と較べ、面積で三倍、人口で五分の一、ということになる。
地理的状況を説明しようとするとき、チベットの場合、他の地区にはない数字が出てくるから面白い。それは、高度である。
自治区全土の平均高度は4000メートル。全体的には東から西に行くほど高くなってゆく。主な都市の高度は次の通り。
ラサ | 3658メートル |
ギャンツェ | 4040メートル |
シガツェ | 3836メートル |
ダム(樟木) | 2350メートル |
タルチェン | 4585メートル |
ドルマ・ラ | 5630メートル |
マナサロワール | 4588メートル |
アリ(獅泉河) | 4280メートル |
気候については、高原性寒冷地帯に属す。基本的には寒い。夏の旅行でもセーターの用意は必要。
季節は、夏と冬の二季。夏は短く、5月〜9月。冬は10月〜4月。
また、雨期の乾季がある。一般の旅行シーズンである6月〜9月がちょうど雨期と重なるが、一日中しとしと降るというよりもにわか雨のように一気に降る雨である。
ラサでの平均気温は次の通り。単位は℃。
月 |
一月 |
二月 |
三月 |
四月 |
五月 |
六月 |
平均気温 |
-2.3 |
1.1 |
4.5 |
8.3 |
12.3 |
15.4 |
平均最高 |
6.8 |
9.2 |
12.0 |
15.7 |
19.7 |
22.5 |
平均最低 |
-10.2 |
-6.9 |
-3.2 |
0.9 |
5.1 |
9.2 |
月 |
七月 |
八月 |
九月 |
十月 |
十一月 |
十二月 |
平均気温 |
15.1 |
14.3 |
12.7 |
8.2 |
2.3 |
-1.7 |
平均最高 |
21.7 |
20.7 |
19.6 |
16.4 |
11.6 |
7.7 |
平均最低 |
9.9 |
9.4 |
7.6 |
1.4 |
-5.0 |
-9.0 |
(資料提供:中国国家旅游局)
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<高山病>
一般に、日本人の場合、2400メートルの地点で五人に一人は高度障害を起こすという。症状としては、頭痛、めまい、倦怠感、吐き気などである。
ラサの標高は3658メートル。この高さだと、ほぼ百パーセント、何らかの高度障害があるはずである。
空気の量は、海抜ゼロメートルの地点に較べ、3000メートルで70%に、5500メートルで50%になる。
カイラス巡礼の最高地点はドルマ・ラ。ここは、5630メートル。つまり、空気の量は、半分になる。したがって酸素の量も半分になる。息苦しいのは当然で、普通に呼吸をしても、平地の半分しか酸素を吸入していないことになる。
この高度では、チベット人のなかにも高度障害で苦しむ人が出てくる。高山病のチベット人なんて、船酔いの船長さんみたいなもので、ハタで見ればおかしなものだが本人にとっては深刻だ。
高度障害に対して敏感な人、鈍感な人。まったく個人の差だという。性別、年齢、職業、年収などに関係なく、個人の差としてあるという。また、ラサ辺りであれば、二三日もすれば大抵馴化して高度障害は消えて行くものだ。このスピードにも個人差がある。早く感じた人が早く馴化するとは限らない。逆もしかり。
頭痛、めまいぐらいならよいのだが、恐いのは高地脳浮腫、高地肺浮腫。ともに命にかかわる。
高地肺水腫: 肺に水分が浸み出す。呼吸が苦しくなり、呼吸とともにガラガラする音がしたり、せきや血痰がみられる。
高地脳水腫: 平衡感覚を失い、足元がふらつきバランスを崩してころぶ、意識を失うなどの症状が出現する。
「日本旅行医学会」のホームページによると、高山病の予防・治療に効果のある薬として三つを挙げている。
@アセタゾラミド(商品名 ダイアモックス):「この薬を高地に上がる前に飲んでおけば山酔いを防止することができます。また症状が現れてからでも服用すれば早急に改善されます。この薬の作用により、血液が酸性となるために呼吸が刺激されて増加し、その結果高地に順応することができます。」
Aデキサメタゾン:「副腎皮質ホルモン剤ですが、山酔いと高地脳浮腫の予防と治療に効果があることが知られています。この薬剤により高山病の症状は改善しますが、高地に順応する効果はありません。そのため、服用している間だけ症状を抑えますので、もし高地にいく途中で薬がなくなったら、高山病の症状が急に現れる危険があります。」
Bニフェジピン:「高地肺水腫を起こしやすい人に対して、高地肺水腫を予防し改善することが知られています。」
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<ヤルツァンポ河>
チベット自治区を東西に貫く。
全長二九〇〇キロ。源はカイラス。標高四八〇〇メートルの高地に水源を発し、ヒマラヤ山脈の北麓の氷河の水を集めながらチベット高原を東に流れる。
東流すること一四五〇キロ、ヒマラヤ山脈が尽きると南へ転じ、インドに入る。インドではプラマプトラ河と名を変え、バングラデシュでガンジス川と合流し、遙かベンガル湾にそそぐ。南アジアを代表する大河である。
チベットの乾いた大地を潤す。流域にチンコー(裸麦)畑、菜の花畑を作り出し、西からサカ、ラツェ、シガツェ、ギャンツェ、ラサ、ツェダン。ほとんどの町がこの流域にある。チベットの母なる河である。
独特の風格がある。特に雨期。流れを集め膨らむようにして流れる。しかも、標高3800メートルの大地。雲すれすれに豊かな水量のヤルツァンポの流れる様は、一度見たら忘れられない。
ラサの空港からラサ市内に向かうとき、最初に出会うのもヤルツァンポである。橋を渡ってからは、その支流であるキ・チュ(ラサ川)に沿って市内に入る。
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<チベット歴史年表>
年代 |
出来事 |
B.C560年頃 |
ブッダ生誕。二十九歳で出家、三十五歳で悟りを得る。以後八◯歳で入滅するまで教化の旅を続ける。彼の教えが、のちに、チベットの歴史に決定的な影響を与えることになる。生没年については、別に、BC463〜BC383などの諸説がある。 |
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|
B.C500年頃 |
初めての王朝がチベット高原南部ヤールン地方に成立。初代の王はニャティ・ツェンポ。天から降りてきたとも、インドからきたともいう。 |
|
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B.C140年 |
第八代王ドリグム没す。初代から七代までの王は死後梯子を伝って天に帰ったとされるが、八代ドリグム以降は、梯子を失いこの地に葬られることになったとの伝説あり。
九代の王はドリグムの子のポデグンヤル。このボデグヤルによってボン教が王家に導入されたという。
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|
|
230年 |
第二十八代の王トリ・ニャンツェンの時に、仏教の経典がチベットにもたらされたという伝説が今に伝わっている。
|
|
|
630年 |
ソンツェン・カンボが第三十三代の王位に就く。彼の時代、国力強く、唐とネパールより妃を得る。また、トンミ・サンボータをインドに遣わし仏教の勉強をさせる。現存するチベット最古の仏教経典はトンミ・サンボータが持ち帰ったものとされる。帰国後仏教経典のチベット語訳に献身する。(在位:630〜649年)
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649年 |
ソンツェン・カンボを継いで、マンソン・マンツェンが王位に就く。東部国境で唐との戦いが続くが、常に戦況を優位に保つ。(在位:649〜676年)
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649年 |
ラサで天然痘が大流行。メアク・チュォム王(在位:704〜755年)ボン教僧侶たちの、「天然痘の流行は、新しい教を導入したことへのチベット古来の神々の怒りだ」との主張を容れ、仏教を弾圧。
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763年 |
ティソン・デツェン王(在位:755〜797年)、唐の長安を攻め占領。
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765年 |
ティソン・デツェン王、仏教再興のためインドの高僧シャーンタラクシタを招聘。シャーンタラクシタはのちにインドの高名な密教者・パドマサンバヴァをチベットに呼ぶ。チベット仏教四大宗派のひとつであるニンマ派(古派)はこのパドマサンバヴァの教えを後ろ盾とする。(在位:755〜797年)
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779年 |
ティソン・デツェン王、チベット初の仏教僧院であるサムイェ寺を建設。併せて、仏教を国教とする。
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821年 |
唐との盟約成立し国境線の確立、「唐蕃会盟碑」が三碑建てられる。ジョカンの前に建つ石碑がそのうちの一つである。時の王は、ラルパチェン(在位:815〜836年)。
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836年 |
ラルパチェン王、仏教反対派により暗殺さる。ボン教擁護者の兄のランダルマ王位に就く(在位:836〜843年)。ランダルマ王、仏教を迫害。
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843年 |
ランダルマ王、ベルギェ・ドルチェにより暗殺される。これにより、チベットは幾つもの地方政権に分裂。この状態が四百年続く。
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1042年 |
チベット西部の国グゲ国がインドからアティーシャを招聘する。アティーシャの教えは、やがて、チベット全土に教えは広がり、仏教が復興することになる。彼の主著『覚りに至る道を照らす灯』の思想は、その後のチベット仏教の流れを決定する画期的なものであった。
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1240年 |
チンギス・ハンの攻撃にさらされ、諸侯は朝貢を約す。
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1247年 |
サキャ・ラマがゴーダンの求めに応じモンゴルへ向かう。ゴーダンの信任を得たサキャ・ラマは甥のパクパとともに仏教経典のモンゴル語訳を進める。ゴーダンは、サキャ・ラマにチベットにおける政治・軍事の後ろ盾となった。
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1254年 |
パクパが、フビライ・ハーンよりチベットにおける政治支配権を与えられる。
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1271年 |
フビライ・ハーンが元王朝の皇帝の位に就く。
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1368年 |
元王朝滅び、明王朝が成立。
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1409年 |
ツォンカパ、ラサの東にガンデン寺を建てゲルク派の本山とする。四百年前のアティーシャの厳格な戒律主義を継ぎ、当時の堕落したチベット仏教の大改革を実践。
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1578年 |
デプン寺(ゲルク派)貫主であったソナム・ギャンツォはモンゴルの王侯・アルタンハンの要請を受け青海にが赴くが、そこでアルタンハンの帰依を受け、同時に「ダライラマ」の称号を受ける。ダライはモンゴル語の「大海」、ラマはチベット語の「師」の意味である。
強力な軍事力を有するアルタンハンの帰依を受けたことで、ゲルク派は圧倒的な支配権を持つことになる。
この時点で、転生活仏の制度が採用されており、ソナム・ギャンツォの一代前の転生者とされるゲンドゥン・ギャムツォと二代前の転生者とされるゲンドュン・トゥプパがそれぞれダライラマ二世、三世と追認された。
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1642年 |
ダライラマ五世の就任。ダライラマがチベットの宗教、政治の双方における最高権力者として君臨するようになるのは、五世の時代からだといわれる。
モンゴル・ホショット部の首領グシ・ハーンの支援を得ることで全チベットの支配権を手に入れる。
七世紀の英雄、ソンツェン・カンボが砦を築いたマルポリの丘にポタラ宮を建設する。ポタラは観音の聖地を意味し、ダライラマは観音菩薩の化身であるという民衆の間に広まっていた信仰を確固たるものにするための「ポタラ」という命名であったとされる。
同時に、ソンツェン・カンボが吐蕃王国の最盛期に担った栄光を自らの権威に取り込もうと意図したことは明らかである、
パンチェンラマ制度を創始したのもダライラマ五世であった。パンチェンラマは阿弥陀如来の化身とされていたが、ここにダライラマ同様の転生制度を導入し、転生者をツァン地歩のタシルンポ寺の貫主とすることにした。五世の意図としては、ツァン地方の統治を安定的にするためのものであったが、実際には、その後パンチェンラマの宗教的権威が高まるにつれ、両者の間に不和が生じることになる。
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1735年 |
清朝はラサに駐蔵大臣を置く。ダライラマ七世の時代。これにより、ダライラマ五世の時に確立したダライラマの政治的権限は、大きく制限されることになる。
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1895年 |
ダライラマ十三世の親政はじまる。彼は、五世の時代のように、他国の干渉を排した中央集権的な国家の樹立を目指す野心家であった。
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1910年 |
清の軍隊がラサを攻撃。ダライラマ十三世はインドへ亡命。
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1911年 |
辛亥革命。清滅亡。
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1913年 |
ダライラマ十三世インドから帰国。チベットに残っていた清の兵隊を一掃し、独立を宣言。(ただしこの独立宣言は国際的には承認されなかった)
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1940年 |
ダライラマ十四世、即位。
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1950年 |
中国軍のチベット侵攻。
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1959年 |
ダライラマ十四世、インドへ亡命。
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読者投稿コーナー・My Tibet
それぞれの旅 それぞれのチベット
毎年どれくらいの日本人がチベットに行っているのでしょうね?
いずれにしてもたいした数ではないでしょう。
ツアーで行く人もいるでしょう。ヒッチハイクで行く人もいるでしょう。それぞれ旅の形は違っていても、行った人だけのチベット体験があったことは確かです。
お聞かせいただければ幸いです。あなたのチベット。
ご投稿お待ちしています。送り先は、 こちらです。
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<西寧のサウナ・ラサのレストラン> |
東京都 Mさん |
旅チャイナ 和田様
この度は大変お世話になりました。 昨晩帰国しました。特に大きなトラブルはなく体調も崩さず帰国できました。
西寧で旅行会社の人と待ち合わせ場所の銀龍酒店は町の中心地にあります。ロビーで荷物も預かってくれますし、ホテルの地下にサウナがあります。サウナは係りの人がべったりつきまとい、体をタオルでふいてくれたりするのでウザイですが。
料金→荷物2つ預けて20元、サウナ1人68元(高いが裸で入れる浴槽あり→女性用にあるか不明未確認)
列車の座席は希望通り軟座に乗れました。ベッドが私も主人も上段だったので 下段の体の大きなアメリカ人が昼間座らせてくれなかったので2人の場合は上下もしくは下段2席をお薦めします。なにしろチケットが入手困難でそんな選択は難しいとおもいますが……。
西寧の旅行会社の人はとてもきちんとした方でしたが、問題はラサの旅行会社です。日本語のできる韓波さんが、私の滞在中は一度もお目にかかることはありませんでした。どうも西寧へ出かけていたようです。携帯で何度かやり取りはしましたが。
ラサ駅の送迎には英語の話せる旅行会社の方が来ました。もう2人の女性達(旅チャイナで予約)と一緒に送迎者に乗りました。ホテル到着時に旅行会社の人からツアーの案内の紙を渡され、そこにポタラ宮のチケット代行500元(チケット代含まず)があり、高額でしたが並びたくなかったのでお願いしました。翌日の17時に結果がわかるのでホテルのロビーで待ち合わせの約束をしました。旅行会社の人はやたらと急いでいて、ポタラ宮のチケット手配にはパーミットが必要だと言い、私達のパーミットを持って嵐のように帰りましたが、その後同乗した女性達に私達のパーミットを渡し間違え、夜、女性達が私達のホテルにわざわざ来てガイドを呼びつけ一騒動ありました。翌日の待ち合わせ時間も韓波さんに確認したら17時ではなく19時とのこと。かなりいい加減な様子。
翌日19時にロビーで待っていると、案の定30分くらい遅れてきました。結局約束の日にチケットが取れなくて1日後の朝、日本人ツアーに同行が確実という事になり、朝7:30にホテルに迎えに来ると言われました。ところが夜23:00すぎに同行する日本語のガイドから電話がかかってきて、『明日8:00にポタラ宮の門に直接きて下さい』と言われ、また話がおかしい。ガイドも旅行会社から1時間前に私達が同行することを聞いたようで、名前も聞いてないと。また韓波さんに電話して、朝7:30にホテルに迎えに来るで間違えないとの事で解決。色々苦労はありましたが、日本語ガイドがついて結果的にはよかったです。まあ現地人はいい加減なのはレストランなどに行っても同様でしたので仕方ないのかなぁという感じです。食べ物をオーダーすると次々と頼んでいないもの(他のテーブルでオーダーしたもの)が運ばれてきたりします。
送迎車に同乗した女性達はポタラ宮のチケットを朝6時40分位から並んで翌日11時のチケットが取れたと行っていました。時期によると思いますが、7時に並べばとれたはずと言ってました。ただ、かなり寒かったようですが。
ラサでの食事ですが、YAKHOTELの並びに2件小さい土鍋が店頭に並んでいる食堂が2件並んでいるんですが、(山城川菜館ともう一つの店は忘れました)そこの鍋は安くておいしいのでお薦めです。トンコツベースのスープで、鳥・牛をチョイスし、麺や餃子選び入れて食べます。料金は7元でした。
甘いものが食べたくなったので、蒸篭で饅頭を蒸かしているお店に入って、豆沙包(あんまん)をで頼んだら、1蒸篭ミニサイズ10個お茶付きでで5元でした。
綺麗なレストランも沢山ありますが、安い食堂もおいしいのでお薦めです。
旅行はとても楽しかったです。鉄道の食事もおいしかったですし。
以上報告でした。また機会があったらお願いします。
(2007年9月22日)
(管理人:西寧のサウナ、ポタラ宮のチケット、ラサのレストランと盛りだくさんの情報でした。写真も素晴らしいですね。有り難うございました。)
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せっかく行ってきたので、行ってわかったことを少し書きます。
- 青蔵鉄路の食堂車の夕食は、1卓(4人)で200元、料理6品とスープ1品。
- 弁当は、20元(食堂車では食べれない)。
- 列車の中では、1回パスポートを確認したが、ビザや入境許可証は見ない。
- 青蔵鉄路区間は観光下車はないが、唐古拉駅も通過の前に乗務員が教えてくれる。
- 拉薩に近い那曲駅で下車する人がいる為か、5分位で記念写真を撮る程度下りれた。
- 拉薩での市内のタクシーはメーターを動かさないが、市内なら10元。
- 拉薩の人力車は近くなら5元から、夜に八角街から西蔵賓館までは、20元でした。
- 西蔵賓館の医務室で高山病の治療は、注射と点滴で、1700元。(旅行保険必須)
- 高山病予防の涼茶「紅景天」粉は20回分36元は、蘭州駅近くの百貨店にある。
- 拉薩では、紙パックや缶ジュースの紅景天飲料もあった。
(2007年8月25日)
(管理人:食堂車の食事がすべてセットメニューであるとは知りませんでした。石渡さんはたまたま四人の家族旅行でしたからそれで良かったかもしれませんが一人で行ったらどうなるのでしょう? 石渡さんにお尋ねしましたら下のようなお答えをいただきました。)
- テーブルは2卓だけ2人用有、料理3品とスープで200元と言うのがあり、一人旅の人はそこで食べていました。(一人から二人までですね!)
- 4人用のテーブルは10卓ぐらいで、(3人から4人ぐらいまでの量ですね)
- この後 変わるかもしれませんが、予約の仕方など少し書きます。
- 6時開始なのでその前に、食堂車のカウンターで予約をします。(名前と人数を書き込んでもらう)このときにお金を払ったと思います。
- 席は、予約に関係なく早いもの順なので、6時前に行って座っておく、でもここは左右の窓から外が見え、ある意味いい席です。(実際 丁度虹が見え、車内は大騒ぎでした。)
- ビールは頼んでないのでいくらか解りませんが、銘柄は黄河ビール。
- つまみ用の串焼き砂肝は、20元。蒙牛ブランドのカップアイスが3元。(車内への巡回販売もある。)
- そして、料理が来るのは7時過ぎ!(6時からなんてのは嘘ですね!)
- 辛い料理が3品で、辛くないのが3品と言った感じで、普通の中華料理。
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チベットの旅楽しんできました。
おかげ様で、スムーズに行動することが出来ました。
鉄道の座席についてはなぜか中段になっていました。しかし、上下のアメリカ人の2人組と、向かいの中国人家族3人と仲良く旅行する事が出来たので、問題ありません。
ラサでは、ポタラ宮の予約に朝4時に行かなくては取れないという事を聞き
急遽、ホテルで送ってもらい助かりました。雨の中4時間以上待つのはかなりきつかったですが……。
同じ旅チャイナの鈴木さんと藤本さんと共に行動して言葉に困らず観光全体を進める事ができました。
前半はやはりみな高山病で苦しめられました、一人入院してしまった方が居たようでしたが無事でしたでしょうか?
さて、ポタラ宮の入場券についてですが、自分たちの行動を朝から順に説明すると入場日前日の4時に門の外に並びました、すでに40〜50人並んでました
7時頃に門が開き、入場券発行所の横(門の中で50人ぐらいまでは屋根ベンチあり)に並びなおしました。全員で100人程度ここで一応締め切りという状態でした。
そして9:30から入場券の発券を始め、もらえたのは10時半頃でした。
並んだ日が8月14日のピーク時期だったため普段はもう少し遅い時間になっているとは思います。
参考に様子の写真を付けておきます。
上から順に、
<朝の待っている風景>>
<門が開き中に入るところ>
<門の中で発券を待っているところ>
<発券所(閉まってますがここでパスポートを見せて入場券をもらいます)>
最後にもう一枚。
ラサに着いてからずーっと雨と曇だったのですが、ポタラ宮の見学をして外に出たらすごい良い天気になっていて向かいの焼王山の展望台から撮った写真です。
(2007年8月23日)
(管理人:ポタラ宮の入場券についてはいろいろな情報が錯綜しており本当はどうなのだろう?と不安に感じている方も多いのではと思います。貴重な実体験のレポートでした。)
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開通から1年目のチベット鉄道、世界最高峰エベレストを目指し、二度目のチベット旅行に行ってきました。
2007年7月 12日(木) MU2152 上海浦東08:10/西寧12:40, T265西寧19:56/
2007年7月 13日(金) T265 /ラサ21:00 ラサ泊
2007年7月 14日(土) ラサ/羊八井/納木錯/ラサ(バス) ラサ泊
2007年7月 15日(日) ラサ(デブン寺、大昭寺八角街) ラサ泊
2007年7月 16日(月) ラサ/ヤムドク湖/シガッチェ(日喀則) シガッチェ泊
2007年7月 17日(火) シガッチェ/定日/珠峰大本営 珠峰大本営泊
2007年7月 18日(水) 珠峰大本営/シガッチェ(扎什倫布寺) シガッチェ泊
2007年7月 19日(木) シガッチェ/ラサ ラサ泊
2007年7月 20日(金) MU2336 ラサ15:50/上海22:10
1.青海チベット鉄道
青海省西寧からゴルムドまでは1984年に営業運転が開始されていたが、ゴルムドからチベット(西蔵)ラサまで1,142kmの平均海抜4,500mの凍土を開き2006年7月に客車運行を始め、青海省西寧からチベット自治区ラサまで全長1,972kmの青海チベット鉄道(青蔵鉄路)が完通した。高地走行のため与圧された客車を2両連結の機関車が牽引する。
雪を頂いた昆侖山脈、砂漠、草原、河、湖を見ながら、100km位の速度で無人の荒野を走破する。
始発は北京、上海、広州、成都、重慶、蘭州、西寧から出るが、西寧/ラサは1日5便が運行されている。西寧/ラサ間は途中6つの駅に停車し、25時間の走行、駅の周りも人家は殆ど無く、荒野の中に駅だけポツンとある。夜に郊外にあるラサ駅に到着した。グリーン(軟車)寝台車が取れたが2段ベッドの上で、同室下段の中国人のラマ教僧侶と中年婦人は昼間も寝ており、食堂車、通路の椅子に座り一人旅の車窓の景色を楽しんだ。
最高地点は海抜5,072m、その近くの唐古拉駅が海抜5,068mであり「世界一高い場所にある鉄道駅」となる。、また海抜4,000m 以上の部分が960km もあり、このような高所に鉄道が建設されるのは世界でも例がなく、世界の屋根を走る鉄道だが、地球温暖化により凍土が融解した場合の安全性も不安視されているようだ。
2.エベレスト
世界最高峰、ヒラリーとテンジンが1953年に初登頂した時には世界的な話題になったのを子供心に覚えている。エベレストは中国では珠穆朗瑪(チョモランマ)と呼ばれる。
ラサから往復4日の行程で、エベレストの氷河渓谷海抜5,200mに在る珠峰大本営まで行った。17日の午後に到着したが、東側の稜線の山しか見えず、夕方になり雲の上に初めて山頂が見えた。山頂は稜線より遥かに高いところにあり、暗闇の渓谷の中でそそり立つ山頂は神々しさを感じた。
翌18日は快晴で上から下まで雪に覆われたエベレストの全容を見ることができた。周りの山並みを従えどっしりした重量感のある山塊は世界最高峰の名に相応しい。
珠峰大本営はエベレストの北側からの登山の拠点で、ヒマラヤ侵攻本部のような名前だが、英語でEverest Base Campと書かれたら納得。
珠峰大本営の主要な土産が貝殻の化石、なんでこんな高山で海の貝殻と思ったら、なんとヒマラヤは古代は海で、ユーラシア大陸が南下し、インド大陸の北上により衝突して、インド大陸はユーラシア大陸の下に潜り込み、境目を盛り上げヒマラヤ山脈となり、気候、植生、動物の移動も大きく変わった。
3.エベレストの高度と名称
地殻活動は今でも続き、エベレストは年間数ミリ上昇している。北東へも移動しており、風化もあるので伸びるのか縮むのかは微妙らしい。標高は8,848mが一般的だが、中国は8,844.43mを公式採用している、頂上の氷や雪などを計算に入れるかによる違いらしい。
もちろん標高は海抜が使用されるが、ハワイの海底火山マウナケアは海抜は4,205mだが、海底からの高さは1万mを超えるらしい。
名称も欧米・日本ではエベレスト、中国はチョモランマ、ネパールではサガルマーターと色んな名前で呼ばれている。エベレストは英国インド測量局長の名前で、本人は現地での呼称を採用すべきで、自分の名前が冠されるのに反対したらしいが、命名時に適切な現地呼称が見つからず部下により命名された。
中国はチョモランマで統一すべきだと述べている、280年以上前にその名称で記載されているなど、その根拠はそれほど古い話ではない。実感としては、中国側からはかなり登山をしなければエベレストは望めず、交通機関の不便な昔にこの山を見た人は少なく、多くの街から望め、昔から沢山の人に親しまれた富士山のような山とは条件がかなり違う。
4.エベレストまでの道
ラサからシガッチェまで274kmは雅魯蔵布江(ヤルツァンブ江)の切り立った渓谷沿いの道路。
雅魯蔵布江はヒマラヤ山脈を源流として、下流はブラマプトラ川としてインド、バングラディシュを貫流しベンガル湾に注ぐ大河の上流。長さ深さ共世界一の大峡谷として認定されている。
舗装された道路だが、大きな岩が今にも崩れ落ちそうな切り立った絶壁を縫って走る。
走行途中で谷底に転落したバスをクレーンで引き上げる場面に遭遇し、1時間以上路上で交通止めとなった。7月13日に起きた事故で14人死亡、2人行方不明、13人負傷の大事故、バスの上部は墜落により切り取られ、座席だけが林立する異様な光景だった。
シガッチェから定日までは砂漠、草原で、峠を縫って高度を上げる。途中で辺境入境の検査所があり、国境にも近いせいか中国人も辺境入境許可証が必要となる。
国道318号線(上海からチベットまでの幹線)をわき道に入り珠峰大本営を目指す。路無き路の走破で増水した河床、荒野の道など標識も無くベテラン運転手でないと走行も不可能。トヨタのランドクルーザーで走行したが、凄い悪路でも軽々と超えていく性能は流石に日本車。チベット全体でもトヨタのランドクルーザーは多数使用されている。
5.おまけの旅行
今回の旅行は7日間を予定していたが、ラサに到着すると許可証が未だ発行されないなど、2日間ラサで足止めをくらった。1日は高熱地熱帯で地熱発電所がある羊八井と大きな湖がある納木錯(ナムツゥオー)のラサ郊外のツアー、もう 1日はデブン寺、大昭寺八角街のラサ市内観光をした。
ラサのホテルはポタラ宮の近くで、展望台から夜間照明されたポタラ宮が美しく聳える。
本来のツアーも2001年に訪ねた場所と2箇所ほど重なった。海抜4,800mのチベット人に聖なる湖と称えられるヤムドク湖は前回は10月で周りの山も冠雪していたが今回は夏模様の景色。
シガッチェの扎什倫布寺(タシルンボ寺)はチベット仏教ではダライ・ラマに次ぐ高位の僧パンチェン・ラマの本拠となる大規模なラマ教寺院。
夕方の勤行で黄色い帽子とマントを被った大勢の僧侶が本堂に座り、老師の低い声に合わせて、全員で唱和するお祈りはオペラのような迫力と宗教心を感じた。
6.高山病と費用
ラサ3,600m、シガッチェ3,800m、珠峰大本営5,200mと高地の連続の旅だった、珠峰大本営5,200mでテントの中で一泊した時には寒さと空気の薄さか何度も夜中に目を覚ましたが、ラサまで鉄道で高地順応をしたせいか、5千mを超えると歩く時は息苦しいが、それ以外は高山病を感じることは少なかった。
高山病は新陳代謝の強い若い人の方が対応が厳しいらしく、4千mクラスの納木錯(ナムツゥオー)に行ったときもツアーの中国人の若い男性はバスの中でぐったりと苦しそうにしていたが、エベレストまで同行した若い中国人はそれほど苦しそうにしておらず、人により大きな違いがある。対策として、いたるところで酸素ボンベ、高山病薬が販売され、車にも酸素ボンベが準備されている。
チベットは全体に気温は低く、ラサ市内は日中は夏服でも可能だが、4千mを超えるとダウンジャケットを着ていても寒く感じる。旅行中上海は最高気温38℃の連続で、チベットは空気が乾燥していたせいか、上海に帰った時が一番蒸し暑さと不快感を感じた。
今回の旅は、チベット鉄道が外国人には中国で調達ができず、Webで検索した日本の「旅チャイナ」http://www.tabichina.com/ に申し込み、往復の航空券は上海代理店、チベット内でのツアーは同じくWebで探した中国ツアー会社「四川新旅程旅行社」と3社への申込となった、費用は以下のとうり。
チベット鉄道 39,500円(約2,400元)
上海/西寧 航空券 1,980元
ラサ/上海 航空券 2,890元
チベット内ツアー 4,950元(中国語ガイド、2日分追加費用300元を含む)
西寧半日観光 850元(日本語ガイド)
合計 13,070元
(2007年7月24日)
(管理人:佐藤さんは上海にご在住。「上海に帰った時が一番蒸し暑さと不快感を感じた」。印象的な一言ですね。)
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<青海・チベット鉄道とラサのはなくそ> |
岡山県倉敷市 長瀬さん |
4月27日 午後8時28分 西寧駅を定刻通り列車は動きだした。やっと計画が実現したんだと感無量でした。思えば、2006年7月2日の新聞に 【北京−チベット全線開通】の見出しで、中国2大プロジェクト 三峡ダムと並ぶ鉄道建設でした。そして、2007年1月2日 NHKテレビの1時間30分に及ぶ列車の旅が放映され、強烈な旅への誘いになった事でした。
一人旅が好きで、ガイドブックと地図で旅行計画を立て、国内旅行会社に<青海・チベット鉄道チケット>を問い合わせると、殆ど扱っておらずパックツァーの勧めになっていた。 唯一、『旅チャイナ』のみ取り扱いOKで、お願いする事にした。
日程は、西寧〜ラサの軟臥席コンパートメント室で、偶然にも『旅チャイナ』から同じ目的の日本女性と同室になり、ビックリしてホット安堵。 あれこれと中国人家族?外国人?などの組み合わせを考え、マア、何とかなるべ〜がスーッと消えた。余り眠れなかった夜も明け、車窓が明るくなった。午前7時そっとカーテンを開けると、田園風景が見えた。
これから12時間が凄い!!。冠雪の山々がそびえ、180度山脈が連なっている。
こんな景色見たことない。車内の窓、反対の通路窓と行き来しながら、写真に収め最高、大満足でした。
話は落ちますが、軟臥車には前に和式トイレ後ろに洋式トイレが設置されています。出発2,3時間後の和式トイレが凄い。 紙、詰まり、水浸しで最新鋭も跡形もない。
中国式トイレに不慣れでトイレットペーパーを大量に流す為、詰まり水浸しになったのだろう。列車が終着に近くなると、さすが慣れ紙入れボックスが活用され、使用前に戻っていた。
ラサは3日間滞在し、高山病の頭痛・吐き気はなかったが、列車内の気分の悪さからは随分回復しビールも美味しく飲んだ。(列車内の飲酒は自粛した) ラサ市内は快晴で、日中18℃位、外国人に人気の 太陽の国 と言われ、空気が澄み光が眩しい。 湿度40%と乾燥し日本の約1/2だ。
朝起きると、鼻の穴がパリパリになり、鼻血の混じったはなくそでビックリ。何度も湯で鼻を洗ったが同じ。乾燥とはこれか?
ガイドブックや旅チャイナHPに乾燥高地での必需品に 保温ボトル・ウエットティッシュ・防塵マスク・UVカットクリーム が記載され、全て事前に準備した。 なるほどと感じたものはステンレス保温ボトルで、高地低酸素では水分補給が欠かせなく、朝夕の肌寒さと、紫色に変色した唇に驚きながら、ホテルで沸かした湯にお茶を入れボトルで持ち歩いた。
お湯を摂取する事で、体も温まり血の循環が少し良くなったのではないだろうか?
ウエットティッシュはトイレにも最適でした!!
(2007年5月13日)
(管理人:長瀬さんは59歳。4月27日西寧〜ラサ、5月1日ラサ〜成都のご日程で旅行をされました。「旅行から10日になりますが、未だ生々しい記憶がよぎります。(略)読者投稿のご依頼を拝見しました、今回初めての経験ですが、最高の思い出にと思い、投稿させていただきます」との添え書きをいただいております)
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<西寧〜ラサの列車に乗ってきました> |
東京都・綿貫さん |
これからチベットに行く方がいたら、あくまで一個人の感想や印象も含まれていることをご理解の上、参考にしてください。
- 現地では入域許可書の提示は求められませんでした。
- 中国入国時にビザの提示はやはり必要ありませんでしたが、ラサのホテルチェックイン時にビザの番号などを控えていました。
- 列車は1〜8号車が座席車、9号車が食堂車(1品25〜30元、メニューは全て中国語)、10号車以降が寝台車。客はほとんど全員中国人でゴルムドでほとんどが降りてしまいます。乗務員も中国語しか話せず、自動音声で流れるアナウンスのみ英語があります。
- 各寝台には個人ごとに液晶テレビがあり、4チャンネルを見ることが出来ますが、音声は配布されるヘッドフォンから中国語のみで聞くことができます
- トイレは各車両の両端に1つずつで、片方が洋式、片方が中国式で、清掃が行き届いておらず汚い
- 停車する駅では降りて写真を撮ったりすることがほとんどできません
- 列車はほぼ定刻に運行されます
- 寝台も含め列車内は全部禁煙ですが、中国の人は平気でタバコを吸います
- ラサの駅前にはタクシーが多数待機していて、1台のタクシーに乗り込んだ人数によって市内までの料金が変わります。目安としては、一人だと50〜80元、4人だと一人20元。
(2006年11月1日)
(管理人:綿貫さんは10月25日西寧発の列車でラサに行かれました。帰りは10月30日にラサ〜成都)
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<シーツを持っていくと便利です> |
兵庫県・徳岡さん |
和田さん、こんにちは。
本日無事中国旅行から帰ってまいりました。旅のメインである、カイラス巡礼は、最高でした。ガイドさんは親切だし、なかでも、ドライバーさんの心意気みたいなものに感動しました。お陰で、少しではありますが、目的であるチベット人の文化、考え方、日本人との違いなどを学ばせていただきました。
ツアーの日程は、多少変更はありましたが、予定よりも効率的でよかったと思います。
さて、持ち物で役にたったのは、大きめのシーツです。今回(6月)のチベットは全く寒くないですし、寝袋も必要ないです。清潔感、匂いが気になる方は、大きめのシーツを持って行き、布団の間に敷いて寝ます。かなり快適ですよ。あと枕カバー用のタオルはいります。
カイラスのコルラは全く大変ではないので、変に不安にならない方がよいと思います。 日焼けを焼けどなみにしてしまったので、日焼け止めお忘れなく。
ただ一件、不愉快なことがありましたのでお伝えしておきます。
カイラスのふもとの村まで到着し、いよいよ明日からコルラ開始の時に、ガイドさんがポーターを雇うべきだ、っと言いました。カイラスのコルラは大変きびしく、重い荷物を持っては不可能、ましてや私がシガチェで軽い高山病だったので、必ず雇うべきだと言うのです。しかも、彼に言うのには、その費用は旅行費に入っているはずだ、何なら成都の旅行社に電話をかけて確認してくれ、と。
何でそんなことを成都の旅行社と掛け合わなければと思いながらも電話をしましたが、要は、旅行費には入っていない、と。結局は、自分で荷物をもって巡礼しましたが、旅行社の間の情報の伝達がまったくできていない。その上、電話代まで自腹で支払わされる……。
私も、旅行業の経験がありましてどうしても気になりまして。今後、このツアーがもっとよくなる事を心から願っていますので、あえて言わせていただきました。
と、言うわけで自分で荷物を持ってコルラをしたわけですが、そのコルラ自体は全く辛くありません。確かに、他の日本人団体さんはポーターを雇い、より快適に巡礼されておられましたが。ちなみにポーターを雇う場合コルラ1周で240元程度でした。
写真、好く撮れたものを何枚か送ります。
(2005年7月2日)
(管理人:徳岡さんは当サイトで扱っている2005年6月6日発のツアーに参加されました。カイラスでのポーター代については、現地に確認をしたところ、「旅行費用には含まれていない」とのこと。今後、旅行費に含めるべきかどうか議論の分かれるところかも知れませんが)
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2005年4月25日ラサ出発のカイラス・ツアーに参加された佐藤さんのご同意のもと、一部のお友達にだけ公開していた写真を、ここに転載させていただきました。
ご協力に厚く感謝します。
ご本人のコメントと併せてお楽しみ下さい。
何とも言えぬナマナマしさがあって旅心がいたく刺激されます。
こちらからご覧下さい。
(2005年5月25日)
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私は広島在住の30代リーマンパッカーです。11/28〜12/5の日程でチベット観光をしてきたので,そのことについてお伝えしようと思います。
今回のテーマは「古い街」「金より時間」でした。
航空券は福岡−成都は「HIS」、成都−ラサは「旅チャイナ」に依頼しました。
ラサに入るには入境証が必要とのことで、成都空港で代理店の人からチケットと共に受取りましたが、内容は「一人ツアー」となっていました。ただしラサに入ってからそれを見せろと言われたことはありません。
そのラサは予想以上の大都会でしたから,早々にシカツェ市へ移動しました。
シカツェでは,テンジンホテル前の通りをタルシンポ寺方向に歩いていくと旧市街の町並みが広がり、こういうものを見に来た私は、道端のウンコ(人の)を踏まないように散策してきました。
備後尾道とか,ポルトガルリスボンとか、古い坂の町が好きな人にはおすすめだと思います(少し褒めすぎかな)。
高山病らしいことといえば、チベットにいる間、常に軽い頭痛がありましたが、旅行の妨げになるほどではありませんでした。
気候は,ラサ市内でも日陰には多少の残雪があり、水たまりは氷が張っていたし、朝晩の冷え込みは厳しいし、ボロバスで移動するとき窓際に座るとかなり寒いのですが、持っていった温度計によると昼は最高15〜20度,夜は5度くらい(ただし室内)でした。
メールは,ラサ市内では日本語入力ができますが、シカツェでは読むことはできても(winXPにより)書くことはできませんでした。
バター茶を何度か飲みました。外人用レストランでは1杯1元とかですが、チベタン食堂では1ポット5元位の扱いになりますから,まったりとした午後を過ごすには非常に経済的な飲み物なのです。
ただ、普通のバター茶は日本人が飲むと「うっ」と来るのですが,店によっては砂糖が入っているものがあり、それだとけっこう飲みやすい。インドのチャイにも似て、しかもあれほど甘くなく何杯でもいけます。だから砂糖を持ち歩けばOKだと思います。
自分用にチベット服を買いました。妻にはうさんくさい顔をされますが、部屋着として非常に重宝しています。ラサでチベット服を着ていた日本人姉ちゃんが言っていたとおり「とにかく暖かい」ので、ついつい着てしまうのです。
ラサで買ったツーリストマップを見ると、北方から線路が延び、ラサまであと少しとなっていました。
「そんなに大量の高山病患者をつくってどうする中国政府」という気もしますが、行くなら早いほうが良さそうです。
追伸 カイラスは、退職したら行くぞぉ。
(2005年1月10日)
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