目次
フフホト
シリンホト
赤峰
包頭
ホリンゴル
イチンホロ旗
ハイラル
満州里

 
===内蒙古自治区===
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《フフホト市》(呼和浩特)
黄河の支流である大黒河の北、草原に開けた町。モンゴル語で「青い城」の意。青い屋根のチベット寺院を象徴していている。北には陰山山脈の支脈である大青山が連なる。

<烏素図召>(ウストしょう)
 フフホト市西北約10qの大青山の南麓にあり、慶縁寺・法禧寺・長寿寺・羅漢寺・広寿寺の5つの寺院からなる。
 そのうち、慶縁寺は烏素図召内で最大の寺院で、他の4寺を監督する。広寿寺は康煕29年(1690)、長寿寺は同36年(1697)、法禧寺と羅漢寺は雍正3年(1725)の創建。それぞれ赤い周壁をめぐらし、隣りあう。
 保存状態のよいのは法禧寺で、精緻な造りと精巧な技術で、独特の様式がある。また、青海の大学僧スムパ=ケンポ(1704〜88)の全著作集の唯一の貴重な版木が保存されていることでも有名。
「烏素図」とは「水が多い」という意味のモンゴル語で、周辺は樹木が生い茂り、春から夏にかけて眺めがよく、呼和浩特市郊外の行楽地として人気がある。

<五塔寺>(ごとうじ)
 フフホト駅の南3kmにある。清の雍正年間(1723〜35)に慈灯寺の塔として建立されたが、寺は早く廃滅。
 塔の上部には五塔の由来となった小塔が5つ建つ。中央のは7層、四隅のはいずれも5層で、第一層はいずれも釈迦牟尼像と菩薩像、菩提樹などの磚彫をはめこみ、第2層以上は千仏龕である。バランスがよくとれ、精緻熟練した技術である。
 後方にある影壁はモンゴル語による天文図の石刻をはめこみ、天文学史研究の重要資料。天球の円面に北天極を円心にして28宿の赤経上の位置を示す経線、円心から順に天北極圏・夏至圏・天赤道圏・冬至圏・天南極圏を示す5つの同心円、黄道を示す天赤道と交わる2本線の円を彫り、また約270の星座、あわせて1550余りの恒星を彫る。天球の円面に北天極を円心にして28宿の赤経上の位置を示す経線、円心から順に天北極圏・夏至圏・天赤道圏・冬至圏・天南極圏を示す5つの同心円、黄道を示す天赤道と交わる2本線の円を彫り、また約270の星座、あわせて1550余りの恒星を彫る。

<昭君墓>(しょうくんぼ)
 フフホト市の南9q、大黒河南岸にある。遠望すると青黒色に見えるので、青冢ともいう。
 王昭君は竟寧元年(前33)に匈奴の呼韓邪単干が和親を求めて入朝すると、みずから匈奴への嫁入りを申し出て、のちに寧胡閼氏と呼ばれた。昭君墓についての最古の記録は唐代の杜佑(733〜812)が撰した『通典』で、代々数多くの伝承が伝えられてきた。
 墳墓は高さ33mの人工的な封土で、墓前と頂部にそれぞれ亭を建て、訪れる人の休息に供す。草木が青々と生い茂り草花が織り成す景観は、訪れる人の心をなごませる。近くに王昭君に関係のある文物を展示する文物陳列室があり、墓前に董必武(1886〜1975)の「昭君墓に謁す」の詩碑が建つ。
 内蒙古の西部には包頭などフフホト以外の地にも王昭君の墓と伝えるところが多々あるが、一般にはこの地の昭君墓が正当なものとされている。いずれにせよ、「昭君墓」が各地にあること自体が、かつての漢族と北方の民族との戦いの熾烈さと、和睦のために異民族に嫁がされた女性たちの悲劇に対する民衆の想いが現れている。

<席力図召>(シリトしょう)
 呼和浩特市の旧城の石頭巷にある。席力図とは、モンゴル語で「法座」を表す言葉である。召は寺院。
 ダライラマ四世(ユンテンギャムッォ。1589〜1617)は幼年時代にシッディ=カプチュから経典を学ぶともに、彼に守られてチベットに帰った。シッディ=カプチュはダライラマの法座についたことがあり、チベット語で法座や首席を「席力図」というので、チベットから戻ると席力図廟と改称したと伝える。
 清代初期から殿字の増築があいつぎ、現在の規模になった。牌楼から本堂までが中軸線で、5つの院落からなる。本堂はチベット様式で、四面の壁に彩色の琉璃磚を使い、屋根に金銅製の宝瓶・法輪・飛竜・祥鹿を配し、赤い出入口や扉の彩色画とあいまって、目を奪わんばかりの絢燗さで、古典建築の傑作。
 本堂の前にチベット式のラマ塔が建つ。高さ約15mで、彩色華麗で、内蒙古現存最大のラマ塔で、完璧にちかい造形美を誇る。

<大召>(だいしょう)
 五塔寺から約1kmにある。漢語ではかつて弘慈寺といったが、のちに無量寺と改称。
 明の隆慶年間(1567〜72)にモンゴル族の曾長アルタン=ハン(1507〜81)は、夫人の三娘子とともにフフホト(旧城)と弘慈寺の造営を始め、寺は万暦8年(1580)に落成。銀製の仏像を安置するので俗に銀仏寺といい、モンゴル語の史書ではアルタン召という。
 清の康煕年間(1662〜1722)に増築するとともに、大殿を黄色琉璃瓦葺きに改めた。明代に建てられた大殿と銀製の仏像がいまなお完全な形で残る。殿前に明の天啓7年(1627)の鉄獅子が1対あり、鉄製の香炉にモンゴル族の工匠の姓名が鋳込まれており、文字史料が乏しい明代モンゴル史にとっては貴重な史料である。
 寺の門前には、「九辺第一泉」として名高い玉泉井がある。

<万部華厳経塔>(ばんぶけごんきょうとう)
 俗に白塔といい、フフホト市東郊の白塔村にある。
 遼の聖宗の時代の創建で、代々改修を行う。
 八角7層・楼閣式の磚・木塔で、残高43m。基壇の上部は仰蓮弁に積み上げ、第一・二層の外壁に磚彫の釈迦・菩薩・四天王・力士の像をはめこむ。いずれも造形が優美で精彩に富み、線の流れがきわめて流暢で、芸術性がかなり高い。
 各層に腰檐と廻り縁を設けるとともに、磚で斗?を作って枋檐を交える。塔内に螺旋式の階段があり、頂上に登れば山河の絶景を眺められる。第一層の内壁に金代の石碑を6枚はめこみ、各層に代々訪れた人の題記を漢語を中心に契丹小字・女真字・ウイグル体モンゴル字・パスパ文字・古シリア字・古ペルシア字などで記す。そのうち、金の大定2年(1162)の漢語の題記がもっとも古い。金・元両代の題記の筆老らは中国の四方八方からやって来ており、当時よりこの地では、地域、民族を越え、往来が盛んであったことが偲ばれる。

<フフホト清真大寺>(せいしんだいじ)
 フフホト市の旧城の北門外にある。
 清の乾隆年間に新彊から回族がフフホトに大挙して移住し、規模広大な当寺を創建した。門は西向きで、門額にアラビア語の寺名とともに各種の図案を彫る。中心をなすのは荘厳厳粛な聖殿で、その後ろに講堂・沐浴室などがある。
 1933年に回族の人民が資金を出しあい、改修を行うとともに望月楼を新設。高さ約15mの六角・宝形造りで、内部に楼に登る階段を設け、群をぬく優雅華麗さ。寺内に蔵するアラビア語の『コーラン』3冊は貴重な文献。

<元上都城遺跡>(げんじょうとじょういせき)
 フフホト市の東北方にある。元の憲宗6年(1256)に造営し開平府といったが、のちに上都と改称し、上京ともいった。1260年には、世祖フビライはここで大汗(皇帝)の位についた。
 一辺が2200mの方形をなし、配置は中原の伝統的様式を踏襲し、宮城・皇城・外城があり、整然とした対照をなし、中軸線を形成する。城外の東・南・西には大通りがあり、商店・民家・穀物倉の所在地であった。
 元朝が滅びた後に荒廃したものの、城壁と建物の土台がかろうじて残り、建物の土台が多かったのでモンゴル語で「108の廟」を意味する兆奈曼蘇黙(チョー=ナイマン=スムフト)と呼ばれた。
 1925年にアメリカ人インペイ、1940年に原田淑人を中心とする東亜考古学会による発掘調査で全容が詳しく報告され、元代の状況が明らかになってきた。元代史研究に不可欠の文物が多い。

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《シリンホト市》(錫林浩特)
 シリンゴルの大草原のなかにポツンと開けた町。辺りの草原の大きさ、草の良さは内蒙古自治区の中でも、ハイラルを取り囲むホロンバイルの草原と双璧をなすと言われるほどに美しい。
 一歩町を出ると、そこは大草原。遊牧民が悠々と羊を追う姿が見られる。

<貝子廟>(ばいしびょう)
 錫林浩特市の市街にあるチベット寺院。
 錫林浩特市はもとの阿巴哈納爾準(俗に貝子旗ともいった)で、その巴拉吉日道爾吉貝子と巴拉朱爾徳布一世活仏が創建したので貝子廟という。また、当廟の一世活仏が「班智達」(聡明な布教者という意味)という称号を与えられたので、班智達葛根廟ともいう。
 清の乾隆8年(1743)の創建で、同33年(1768)に崇善寺と命名され、それ以後中華民国にかけてあいついで拡張され、錫林郭勒草原で最大のラマ廟となった。
 朝克欽殿・明干殿・却日殿・珠都巴殿・丁克爾殿・活仏殿・ラマ塔などのうち、現存するのは7つの学堂と5つの浮仏殿、5つの仏塔などであるが、かつての配置ははっきりわかる。周辺は草原の新興都市として発展し、錫林浩特市の市街区となる。古めかしい廟宇が草原の新しい街を引き立てる。

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《赤峰市》(せきほう)
 市の東北に赤色の弧峰があり、それが名前の由来とされる。史書には、漢の時代、匈奴の遊牧の地として登場する。

<慶陵>(けいりょう)
 もと永慶陵といい、巴林右旗の遼慶州城遺趾の北方約10kmの大興安嶺にある。遼代には慶雲山といった。東陵・中陵・西陵の三陵の総称である。
 東陵は遼の第6代聖宗耶律隆緒(982〜1031)の永慶陵、中陵は第7代興宗耶律宗真(1031〜55)の永興陵、西陵は第8代道宗耶律洪基(1055〜1101)の永福陵とみられ、それぞれその后妃をともに葬っている。
 中華民国初年に盗掘され、副葬品は散逸したものが多いが、当地で発見された石刻の契丹小字の哀冊碑石(被葬者の徳をたたえ死を悼む文)によって、契丹文字の使用情況が明らかになった。現物は、現在遼寧省博物館に収蔵されている。
 壁画は内容がきわめて豊富で、いずれも漆喰の下塗りの上にかかれ、人物像・飾馬図・四季山水図・建築装飾図など主題も多い。契丹小字の榜題のある人物像によって、史書に記す契丹族の剃髪の風習がはじめて裏づけられた。四季の山河を描いた東陵の巨大な壁画は、遼朝の皇帝が四季に応じて「捺鉢」(遷都)した風習を示し、きわめて地方色に富む。壁画の残っている陵が多く、享堂・配殿・羨道など地上の遺跡にもある。

<遼上京城遺跡>(りょうじょうけいじょういせき)
 巴林左旗林東鎮の南にある。
 契丹族の首領耶律阿保機は10世紀初めに契丹国を建国し、のちに遼と改称、神冊3年(918)に京城の造営に着手し、初めは皇都といったが、のちに上京と改称。
 漢城・皇城・宮城からなり、周囲は約14km。
 漢城は南部に位置し、漢・渤海・ウイグル族などの居住区で、官署・寺院・市場・民家・旅館などがあった。
 契丹族の居住区である皇城は北部に位置し、その東から南にかけて府第(貴族・官僚の邸宅)・官署・寺廃などが並び、道路が交差し、建物の遺構も多く、石刻の観音像が現存。宮廷の所在地である宮城は皇城の中央に位置し、岩石の突出した平地で、その丘の上に宮殿を建て、周囲に周壁をめぐらし、壮大な景観をなしていた。洪水にみまわれ、周壁の残高は6mほどで、皇城の南面と漢城の大半は倒壊し、皇城の各門とその甕城は遺構が残存し、皇城と宮城の建物の土台や道路網もはっきりわかる。現在、皇城と宮城に保護措置がとられている。

<遼太祖陵>(りょうたいそりょう)
 巴林左旗の遼祖州城遺趾の西北2キロ、環状の渓谷にある。
 渓谷の入口に群峰がそびえ、そのうえ土城でさえぎられ、小型車しか通れない。渓谷の内部は老木が高くそびえ、清流がゆったりと流れ、景色がよい。
 その西北斜面にある遼の太祖耶律阿保機の陵墓は、地下宮殿の石積みの壁が地表に露出しているものの、山麓に享殿の遺構、木立のなかに石造りの翁仲や経瞳などの遺物が残る。渓谷の入口の両側に陵墓を守るための建造物の遺構が多く、東側の小山の頂上に石彫りの大きな亀趺がひとつあり、その付近で発見された石碑の断片に契丹文字が彫られ、契丹史研究の重要な資料である。

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《包頭市》(パオトウ)
 黄河中流の北岸に位置し、昔から水陸交通の要衝の地であった。市の北には大青山の山並みが連なる。古くから皮革・羊毛の交易が盛んであったが、近年は付近で鉄を産することから鉄鋼業が発達し、鞍山、武漢とならぶ鉄鋼コンビナートの町になっている。

<五当召>(ごとうしょう)
 もとペカル寺といい、漢語で広覚寺ともいい、包頭市の市街東北約70キロ、大青山の山にあるチベット仏教寺院。
「召」は廟宇、「五当」は柳樹のことであり、その名のとおり廟前には柳の木が繁茂している。
 清の康煕年間の創建で、乾隆14年(1749)に改修。廟宇は西チベットのシガツェにあるゲルク派のタシルンボ廟を手本として建立されている。敷地は20ha余りで、廟宇は2500室余りを数え、それぞれの建物がブロックを形成し、全廟を囲む周壁はない。学問の場である学堂、生活の場である僧坊、活仏の駐在殿、仏殿、寺務所などが主な建物で、内蒙古現存唯一の完全在形のラマ教寺院。なかでも、寺院全体の集会・読経の場である蘇古沁独宮の内部は荘厳厳粛な造り。他の廟宇もそれぞれ特色があり、高さ10m余りの釈迦牟尼の銅像、高さ9mほどの黄教(ラマ教黄帽派)の開祖宗喀巴(1357〜1419)の銅像、獰猛な顔つきの護法金剛像などを安置。

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《ホリンゴル》(和林格爾県)
フフホトの南60キロ。

<和林格爾壁画墓>(ホリンゴルへきがぼ)
 和林格爾県の県城の東南40km、新店子小板申村の東にある。
1971年に発見された多室磚墓で、羨道、前・中・後の三つの玄室、耳室などからなる。東向きで、全長19.85m。
 50組余りの彩色壁画が残存。精緻な構図、熟練した技巧で、後漢代後期の農・牧業生産、小砦と荘園、卓馬の行列、城壁と官署、舞楽と曲芸、歴史物語、祥瑞など多くの主題を具象的に描く。壁画の内容と榜題から、墓主の官職が烏桓・鮮卑など北方民族の管理責任を負う護烏桓校尉であったことがわかる。烏桓や鮮卑の人物像を描いた壁画はあまり例がなく、北方民族の歴史を研究する重要な資料である。
 副葬品は盗掘のためめぼしいものはないが、残った灰陶・緑釉陶・漆器などから中原文化との密接な関係がみられ、興味深い。

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《イチンホロ旗》(伊金霍洛旗)
<成吉思汗陵>(チンギスハンりょう)
 伊金霍洛旗阿騰席連鎮の東南15キロ、オルドス高原の東部にある。
 かつては現在の達拉特旗(包頭市の南)にある王愛召にあったが、清代初期に当地に移し、代々チンギスカン陵と伝えてきた。抗日戦争(1937〜45)中はまず甘粛省の興隆山、ついで青海省の塔爾寺に移し、新中国成立後もとに戻し、陵園を新設した。
 建物は1500u余りで、平面が「凸」字形をなす。中心となる中央紀念堂は高さ20m余り、下部が八角形をなし、心柱があり、蒙古包風のドーム状屋根で重檐、天井に精緻な彩色画を描く。左右両翼は不等辺の八角形をなし、蒙古包風のドーム状屋根で単檐。藍色の琉璃瓦で重厚典雅な雲形文様に葺き、黄色の琉璃磚で縁取り、しかも黄金色の琉璃宝頂をすえ、金色燦然と輝く。
 中央記念堂の正面にチンギスハンの坐像を置き、両側の廊にその一生を記した壁画を極彩色で描き、記念堂の後ろの寝宮に黄色の蒙古包が四つあり、チンギスハン夫婦と孫のグユク夫婦の棺を安置。
 チンギスハンの死は1227年、西夏王国を攻めている時のことであるが、遺体を埋葬した場所は定かではない。

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《ハイラル》(海拉爾)
 内蒙古自治区の東北部にある盟の中心地。盟というのは、内蒙古自治区特有の行政区画。ホロンバイル盟の面積は20万平方キロメートル。そのうち草原が10万平方キロメートル。ここで放牧されている羊の数は30万頭にのぼるという。
 ハイラルはハイラル河と伊敏河の合流するところ、大草原に開けた町。1901年東清鉄道が敷かれ駅ができたことから発展をしてきた。現在の人口は25万人。
 冬の寒さは厳しく、昼間でもマイナス20度〜30度である。
 一九三九年(昭和一四)五〜九月、日ソ両軍の衝突事件が起き、ソ連軍の機械化部隊により日本軍は大敗した。これをノモンハン事件と呼ぶが、そのノモンハンは、ハイラルから草原を南西に240キロ行ったところにある。小学校を改築した「戦争陳列館」もある。

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《満州里》(まんしゅうり)
 ロシアとの国境の町。満州里という地名は、二十世紀初め、東清鉄道が敷設された際、「満州族の地はここから始まる」という意味でつけられた。人口6万。衣料、食糧などを買い付けにくるロシア人は年間10万人をくだらないと言われ、町でもよく見かける。
 駅には「交換所」と呼ばれる区画があり、そこにはロシアからの線路と中国の線路の双方が乗り入れており、ここで貨物を積み換える。現在、ロシアから運ばれてくるもので多いのはシベリアの木材。
 戦前は多くの日本人が暮らしていた。満州里とハイラルには領事館があった。現在もかつての満鉄の社宅が家並みが残っている。また、日本人小学校であった建物は満州里鉄道病院として利用されている。