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<ブドウとミイラと>
トルファンの八月はブドウの季節だ。砂埃の道を行き交うロバ車の荷台にも収穫されたばかりのブドウが山と積まれている。トルファンは灼熱の盆地。果実の精が小さな粒にギュッと凝縮する。色は薄緑。形は楕円。奇跡のように美しい。熱風に吹かれながら口に含むと、驚くほどにみずみずしい。
「ミイラ取りがミイラになる」。ブドウを食べながら、フト、こんな言葉が浮かんだ。ブドウから、なぜ、ミイラが連想されたか? 理由は後で話そう。
さて、ミイラ取りのことわざ。いったい、いつの時代のことわざだろうか? 明治以降ではなさそうに思える。でも、そうすると、江戸時代の人がミイラを知っていたことになる。そうだろうか?
帰って「ことわざ辞典」を調べると、「遊里に入りびたっている者を連れもどしに行った者が、一緒になって遊んで帰らないことにいわれる」、と書いてある。ミイラとはポルトガル語だとも。
江戸時代の人はミイラを知っていた。なぜだろう? そもそも、このことわざに謂う「ミイラ取り」とは何者だろう。何のためにミイラを取りに行ったのだろう?
少し調べると、疑問はすぐに解けた。ことわざに謂うミイラは、エジプトのミイラである。それを取りに行くのは、ヨーロッパ人である。十五、六世紀、ミイラは万能の薬として絶大な人気があった。中毒、偏頭痛、膿傷、潰瘍、打撲傷、めまい。ミイラをすり鉢で粉々に砕いて……。それが、ポルトガルの商人により日本にも運ばれていたということだろう。
効くと信じられたのは、エジプトのミイラの製造法による。ご存じだろうか? ミイラの作り方。
先ず曲がった刃物を用いて鼻孔から脳髄を摘出する。次に鋭利なエチオピア石で脇腹に添って切開して、臓腑を全部とり出す。つづいてすりつぶした純粋な没薬と肉桂および乳香以外の香料を腹腔に詰め、縫い合わす。そうしてからこれを天然のソーダに漬けて七十日間置く。水分をとり脂肪や筋肉組織を破壊し、皮膚と骨だけを残すためである。七十日が過ぎると、遺体を洗い、上質の麻布を裁って作った繃帯で全身をまく。一丁、できあがりである。
死者の再生は、古代エジプト文明の最大のテーマであった。霊魂は不滅である。その霊魂がこの世に戻ったときの肉体を用意しておかなければならない。当時の科学の粋を集めた保存処理が施されたのがミイラであった。それが、三千年後にヨーロッパ人の万能の薬に利用されることになるとは、何とも皮肉であり、悲劇である。
そう。トルファンのブドウの話である。
トルファンのブドウは乾しブドウにもされる。トルファンの干しブドウ生産は中国の四分の三を占めるというから凄い。至る所に乾燥させるための小屋が建てられている。壁が煉瓦で格子状に造られているのですぐに分かる。
アスターナ古墳の脇にも乾燥小屋がある。アスターナ古墳は、四世紀から七世紀にかけてこの地を支配した漢族の墓である。墓の数は五百ほどある。なかに入ると、遺体は、綺麗なミイラになって横たわっている。夫婦合葬、夫婦のミイラもある。これらのミイラは、エジプトと違い、特に保存のための処理をしていないという。あまりの乾燥のため、自然にミイラになるという。
そんなミイラを見て地上に出てくると、ブドウ小屋がある。のぞくと、玉すだれのように天井からブドウの房がビッシリと垂れ下がっている。乾燥した風に晒しておくと30日から40日間で、自然に乾しブドウになるという。
交河故城に行く。そこからも崖の上に乾燥小屋が並んでいるのがみえる。よく見ると、少し形の違った建物が幾つか混じっている。
ガイドさん尋ねると、イスラム教徒のお墓だという。アスターナ古墳で見たミイラと乾燥小屋で見た玉すだれ状に吊されたブドウの房とイメージが重なる。ブドウも遺体も同じ風に吹かれる。そして、一方は乾しブドウに、一方はミイラになって行く。
妙に感動する。トルファンはミイラの産地。全国の四分の三を生産するかどうかは知らないが……乾しブドウのようなミイラを見て、ミイラのような乾しブドウを食べて。トルファンは灼熱と乾燥の魅力。
(「トコトコ」2004年7月号に掲載)
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