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<夢にみる楼蘭>
たまに、古いアルバムを出してみる。
随分あちこち行ったものだ。用もないのに。北の端は、黒龍江省の黒河。真冬だった。マイナス三十度。アムール川がコチコチに氷っていた。南は海南島三亜。一月に泳いだ。西はカシュガル。立派なあごひげをはやしたウイグルのお爺ちゃんが小さなロバに乗ってトコトコ歩いていたっけ。東の端は寧波から舟に乗って行った普陀山。観音信仰の霊地だ。
全省を廻った。随分歩いた。随分歩いたが、満足か、と言うとそうでもない。実は、行きたくて行きたくて、まだ行っていないところがある。一箇所。まだ行っていないばかりではない。このまま一生行くことはないのでは、と思ったりもする。
楼蘭である。
楼蘭……流沙に埋もれた謎の王国、などと呼ばれる。
漢の時代、楼蘭はシルクロードの要衝であった。敦煌を出て西に向かう。砂漠のなかを十七日。最初のオアシスが楼蘭であった。道はそこで二つに分かれ、北へ向かうとクチャ、アクス、カシュガルへ。南に向かうとミーラン、ニヤ、ホータンへ。近くにロプノールという湖があり、タリム河がそこに注いでいた。ところが、四世紀を境に、楼蘭は歴史から姿を消す。ロプノールも消える。シルクロードも道筋を変える。
この謎の王国が、人々の前に再び姿を現すのは、西暦1900年のことである。スウェーデンの探検家・ヘディンが砂漠の中で偶然に遺跡を発見する。千数百年間、砂漠の中で眠っていたことになる。
ヘディンはその後の探険でひとりの若い女性のミイラを発掘する。ヘディンは言う。ロプノールの王女に違いない、と。唇のまわりには数千年間消えることのなかった微笑みが今なおただよっている、と。そしてこう続ける。「彼女の眼は、どのような光景を見たであろう! 匈奴やその他の蛮族との戦いに出て行くローランの守備兵、弓矢と投槍の戦士をのせた戦車、ローランを通過したり町の宿屋で休んだりする大隊商、シルクロードを通ってシナの高価な絹の梱をヨーロッパへ運ぶ無数のらくだ。」(『さまよえる湖』関楠生訳)
井上靖が、この文章に刺激を受け書いた作品が、『楼蘭』である。
ウルムチの新彊ウイグル自治区博物館に、「楼蘭の美女」と名付けられたミイラが展示されている。こちらは、1980年に中国の調査隊によってローランの近くで発掘されたものだ。炭素14の測定から、三千八百年前のものであることが分かっている。白色人種系だという。栗色の髪。高い鼻筋。フェルトの帽子をかぶり、帽子には鳥の羽が挿してある。足には毛皮を裏返しにして作った靴をはいていた。
ウルムチに行くたびに、必ず、このミイラを見に行く。このミイラを見るたびにヘディンの文章を思い出し、枯れたタリム河を想い、乾いたロプノールを想い、砂に埋もれた楼蘭王国を想う。行ってみたいなあ、見てみたいな、自分の足で歩いてみたいなあ、と思う。
でも、簡単に行けない。解放軍の管轄下にある。軍の許可がいる。砂漠だから相応の装備もいる。文物局の定める入域料も非常に高い。幾重にも障害がある。
その楼蘭である。
そう言えば、長澤和俊氏がどこかでこんなことを書いている。張騫の西域への派遣は紀元前二世紀のこと。シルクロードへの探険は、地球のどの地域よりも先に始められた。ところが、それから二千年、海上輸送の発達にもよるが、十九世紀、一番最後に残された探険の場所もシルクロードであった、と。
なるほど。
東西交易の要衝であった楼蘭が、二千年経ったら、最も行きにくい場所になったわけだ。
行きにくい。だけど、行けないわけではない。いつか、ね。
(「トコトコ」2004年8月号に掲載)
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